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2008/07/30

上見りゃキリない、けど

世の中って、
上見りゃキリがないもの。
(もちろんそれは下だって同じなんでしょうが。)


だから、
「もっと仕事の能力のある同僚」や
「もっと美しくスタイルのいい同性の友達」、
あげくは
「もっと気の利いた文章を書けるブロガー」なんて存在に
自分のことをついつい較べては、
愚かにも「はぁ」と嘆いたりすることって確かにあります。

こういう羨望って気持ち、
本当にどうしようもないものです。
しかも、
「自分の能力に限ってそれを言っている」うちはまだマシなほうなわけで、
これが自分の身内をくるめて
―たとえば
もっとリッチな旦那がよかったとか
もっと出来のいい息子(または娘)ならよかったとか、―
そういうことを考え出すと、
これはもう不毛以外の何物でもなくなってくるのです。

だって
隣のリッチなお宅のご主人も、
大企業で役職についている、古い友人の旦那様も、
有名進学校にみごと合格した、親戚の子供も、
どんなに羨ましがろうとも
結局はこの自分には無関係の存在でしかないのだから。

さらに、
冷静になってよくよく考えてみると、
その羨ましい存在もその人物丸々全てが羨ましいわけでもない、
ということに私たちもだんだん気付いてきます。

私たちが羨ましいのは
あくまで
そのリッチさであり肩書きでありあるいは学業における優秀な成績だけ。
(そのリッチさや肩書きや成績を
自分の家族たる人たちにも持って欲しいと願っているだけなのです。)

たとえば
仮に
その他所のお金持ちのご主人や優秀なお子さんが
そっくり自分の夫や子供と入れ替わってしまったとしたら?

当然ながらそんなことは全く望んでいたわけではないですよね。
まさに
「そんなのはまっぴらごめん」
というところが正直なところなのです。


それでも、
今はこんなことを書いている私でも
この先他人の家庭に対し
過度の羨望をもってしまうときが来るかもしれない。
もしもそんな事態になったら
そのときは絶対に、
その羨むべき人物と我が家のメンバーを入れ替えた図
を思い描くことにしましょう。

そうすれは、
即座に

自分の羨みがどうしようもなく馬鹿馬鹿しいものだ

ということがきっとわかるはず、だから……


結局
言い古された言葉ですけど、
「家族に代わりはきかない」ってことなんでしょう、ね。

どこの家族も一緒なんでしょうけれど
「どんな家族であれ、この人たち以外に「私の家族」は考えられない」
ってことは自明のことなのに。

どうしてこんなわかりきったことに
ついふらふらと迷ってしまうものか

全ては
羨望という情念のなせる業、ってことなのかもしれませんけど……


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2008/07/24

ホントは「行かない」つもりなんだけど
「行けない」理由

本当は行きたくない
だから行かない。

そんな「お誘い」を断るとき、あなたならどうしますか?

「私、行かない」とストレートに言える人ってなかなか居ないと思います。
「行きたいけどごめん、行けないんだ、残念!」
というふうに「行けない」と、
つまり、
自分の意志を偽り、
でっちあげの予定を作り上げそれを理由に断る人がほとんどなのではないでしょうか。


私は、
思っていたのですよ。

これは、
断る側の心の弱さゆえの情けない情景なのだと。

だから
いつか心を強くして
「行けない」なんてウソを言わずに、
「行かない」と、
そういうふうに自分の意志をすっぱり伝えられるような人間になれたら、と
ずっとずっと思っていたのです。

でも「行けない」と「行かない」。
たった一字「け」と「か」の違いでありがなら
この二つの言葉の違いは
小心者の私にはとてつもなく大きくて、
なかなかできるものではなかった。
つまりは
いまだに「行けない」と言ってしまっては
ウソの「ほころび」を突っ込まれる恐怖に怯えて過ごす、
そんな日々を送っているわけなのです。

はぁ…… 私ってダメだな……

そんなふうに軽く落ち込む、私。


でもね、
でもなんだか最近考えがちょっと変わってきたのです。
それは
私自身が誘う側に立ってみることが増えてきたせいなのかもしれません。

誘う側にしてみると、
「行けない」のがウソだろうとほんとだろうとそんなの全然関係ない。
正直「来たくない人は来なくて結構」ってスタンスが多いわけなんですよね。
だけど面と向かって「行かない」と言われるのはちょっと悲しい。
(そんなきっぱり言われるよりはウソでもなんでもいいいから
ソフトに婉曲表現で断って欲しい。
それが大人のマナーというものでしょ……)
そんな感じでしょうか。
だからそれを知っているからこそ断る側も
「行かない」ではなく「行けない」という言葉使ってしまうのでしょう。
結局「行けない」とは
最早「行かない」の婉曲表現として十分定着しているものなのかもしれません。

そう考えてみると、
小心者の姑息なウソも決して悪いものではなく
一応相手への思いやりがその底に流れていたものなのでしょうね。
(いや、そう言っちゃうと、
ちょっと小心者への肩入れが過ぎますかね。)


それにしても、
どうして「行かない」という言葉に
誘う側は、些細ながら傷つく心を持っているのでしょうか。
来る気がない相手とわかっていても一応誘う。
そういう状況でもその相手に「行かない」って言われるのは
全然平気ってわけには行かない気がします。
(ひょっとしたらそれは私が気が弱すぎるだけだからなのかもしれませんが)

というわけで、
今や私の目標は

断りの際には「行かない」という勇気をもつこと

から、

断られる際に「行かない」と言われても
平然と受け止められる許容力をもつこと、

へと変わりました。


結局
いろいろなことに過敏になりすぎってことなのかもしれません。

「小さなつまらぬことを気にしない鈍感さ」、

それこそが私に一番必要なことなのだ、
という気がしてきました。

今更ながら……

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2008/07/18

狭量なる者

……たとえば、
「ぞふぃねぇ……」というように
自分のことを指すのに一人称を使わず自分の名前を使う若い女性とか。
他にも
ハンドルネームなどを
「ぞふぃママ」として母親である自分を前面に出す母親、
シャレを言い終える前に自分で笑ってしまう自称「ヒョウキン者」、
または自分の語りについつい
「ですよね、うーん」と自分で頷いてしまう生真面目さん、
その他にも
やたらと”you know?”を発するネイティブ・スピーカーとか。

こういうひとたちに
実は心の奥底でいちいちイライラしている自分がいます。
いつも
「我ながら了見が狭いな」とは思っているのですが。

気にならない人にはなんてことないことなんでしょう。
だけど、
それを見聞きする度に
「かるーく」ではあるのですがイラッとさせられてしまう。
別にこちらが実害を受けたわけでもないし
相手にこちらに対する悪意があるわけでももちろんない。
なのにとうしてこんなにいらだたしいのでしょうか。


以前、
「嫌悪感の根っこを覗いてみると」という記事を書いたことがありました。
人は自分が我慢していることをサラリとやってのける人間には
いいようのない嫌悪感を抱くものだ、という話。
そこから
本当は「自慢したい自分」、「人目を気にしない自分」
さらに「己の欲望に正直になりたい自分」を自覚することで、
つまらぬ嫌悪感から少しは解放されれば、
なんてことを書いたような気がします。

ではもしここで、
この
「人の嫌悪感とは、
抑圧された自分の抑圧されない他者への嫉妬が原因である」
ということが真実であるのだとしたら。
そうだとしたら私という人間は、本当は

「ぞふぃねぇ」なんて言いながらカワイこぶって
媚を振り撒いたり、
「○○ママ」とお互いを呼び合いながら
子育て談義に花を咲かせたり、
「ですよね、うん」とか”you know”を頻発させることで
自分の言っている内容をより補おうとしたり

そんなことをする姿に
実は羨ましいという思いを抱いているってことになるのでしょうか?
意識はしていないが深層心理ではそうだってことですか?
本当に……?


確かに心の奥をよくよく覗いてみると、
多分、
媚を売ったり
子育て談義に夢中になって我が子の自慢話をするのは
正直なところ「やってみたいこと」のかもしれません。
そんな気がします。
でも
自分で自分に相槌を打ったり笑ったりするというのは、どうもねぇ……
どう考えても「やってみたい」というのとは違う気がするんですよね。
むしろ
うっかりするとそういうことをやってしまいそうな
自分への不安感とでも言いましょうか、
そうやっている自分を思い起こすことよる羞恥心や、
そのときの自分の醜悪な姿を見せ付けられるかのような
いてもたってもいられないいやな感覚に襲われる。
嫌悪感とは
その醜悪な自分をいやがおうにも意識させられるがゆえのものなのかもしれません。
つまり
前術の記事で述べた
嫌悪感の底にあるのは
「欲望に正直になれない自分」の
「反対に正直になれる他者」への羨望や嫉妬である
というよりは、
むしろ、
「かくありたいと理想の自分
=自慢も媚もせず己の口にする言葉には余計な自信も不安もない人間」と
「現実の自分
=自慢や媚を売る人を羨んだり、
ついつい自信のなさから自分で自分に相槌を打ったり笑ったりしてしまう卑属な輩」
とのギャップ、
これが嫌悪感という感情を生むのだと、
そんな結論にたどり着いたわけなのです。


この考え方でいくと、
自分の姿を
「かくありたい」とか「こうあるべきだ」と
頑なに考える人は
狭量で嫌悪感を感じることが多くなりそうですね。

たしかに
己に寛大な人は他人にも寛大であるもの
なのかも。

まずは
自分に寛大になること

それが心安らかな日々には一番不可欠なものなのかもしれません。


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2008/07/15

「飽きる」と「厭(倦)きる」の違いについて

「あきる」という言葉を辞書で調べてみたら、
次の3つの文字が出てきました。

飽きる、厭きる、倦きる。


3つの字面から想像するに

これらの言葉の違いというのは、
第1の「飽きる」は「十二分に堪能したのでもうこれ以上はいらない」
という充足感による「あきる」であり、
第2の「厭きる」は「過剰な量や繰り返しにより厭になる」という
不満感による「あきる」で、
さらに第3の「倦きる」は
第2の不満に加えてその対処にうんざりとした疲労感すらともなう「あきる」ではないかな、と……

そう、常々私は思っていたのですが、
よくよく考えてみるとちょっと違う気もしてくるのです。

つまり、

「あきる」

って、この言葉を使っている時点で私たちは
それがどんなに楽しい遊びや美味しい食べ物に対してであったにしろ
微かなネガティブな感情を抱いているのではないか?

と、そんなふうに思えてきたのです。

そう思うと
「飽きる」ってことは
「厭きる」や「倦きる」よりももっと悲しくて深刻なことのような気すらしてきます。

だって、
楽しくて仕方のなかったことがですよ、
何の理由もなくただ過剰なまでに繰り返され過ぎたということだけで
一歩後退して最早かつてのドキドキ感を失ってしまうということは、
それはそれは悲しいことなのではありませんか?

むりやり長々やらされたがために厭になった、「厭きた」や、
つまらない繰り返しゆえにうんざりさせられるような、「倦きた」とは違う。
この「飽きた」にはそもそも嫌悪感はみじんもない。
単純にして純粋なる「飽き」の気持ちしかないのです。
それなのにこの「飽き」は
今までの満足した状況からほんの少しかもしれませんが
気持ちを確かに後退させている、
それが純粋なる「飽き」という気持ちなのです。


どんなに好きで
のめり込んでいたようなことであったとしても、

いつの日か「飽きる」ときが来るって

なんだか悲しい気がします。


もちろん
そんな感傷的な思いを切り捨れば、

飽きてこそ人間って生きていけるもの

とも、思えるんでしょうけれども……


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2008/07/11

自分を語るにあたり……

例えば、自分の友達について書くとして。

いかにこの人が私にとって魅力的であるか、
仕事への姿勢・情熱、
どれをとっても怠惰な私を
いやがおうにも啓発させざるをえない存在である素晴らしい友人。
その素晴らしい友人とお互い自立しながらも
本当に必要なときにはともに支えあえる信頼関係を築けたのなら
人生の大半の目的を果たしたといってもいいのかもしれない。

などなど、夢中になって書き綴ったとしましょう。


でも、
冷静にみると
そんなことをここに書き散らしたとしてなんになると?
実際のところ
その友人の素晴らしさ、この友情のもたらす幸福感は
おそらく誰にも伝わらないのです。
ここを偶然にも訪れ、
たまたまこの文章を目にした人々にとっては
そんな友人はどこにでもいるただの見知らぬ人であり、
そんな友情もごく当たり前のどこにでもある関係。
それを特別のように書き立てるのは
客観的に見れば
ただの失笑をかう自己陶酔の文章にしかならない……

いや、友人だけではない、
私が大切にしている思い出や貴重な体験も
愛すべき家族も
大変だがやりがいもある仕事も
人生に張り合いを与えてくれるかけがえのない趣味も、
それに並々ならぬ思い入れをしているのは、
世界でただ一人、この「私」という人間のほかには誰も居ないのです。
悲しいことに、
寂しいことに、
それが現実というもの。


きっと、
私たちは発信者となった日
―即ち、自分の書いた文字が
公のモニターに映し出されるようになった日―から
その現実をだんだん失いつつあるのかもしれません。

その結果
自分の心の中では
確かに
誰もが作家であり
誰もがアーティスト、評論家、ジャーナリストたりえる今がある。


だが、それはあくまで自分の心の中でのこと。


冷静に判断してみるに

そう思ってくれる読者は、
多分知り合いの中ですら極々少数であり、
全くの見知らぬ他人の中ではほとんど皆無なのでしょう。

全く
悲しいことながら、

やはり
それが真実なんだと私は思うのです。

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2008/07/10

孤独―認められぬ寂しさ

「秋葉原殺傷1カ月 容疑者『ネットでも無視、見返す』」というニュースにふれて……


「孤独」=他者にその存在を認められない寂しさ

とは、かくも耐え難いものなのでしょうか?


・・・・・


先日、「マズローの欲求段階説」というものを目にしました。

それによると人間の欲求というものはピラミッド型の5段階になっており、低次元の欲求が叶えられるとより高次元の欲求へと発展されるものだとか。
つまり、
第一の欲求は、食欲、性欲などといった「生理的欲求」
第二の欲求は、生命を外敵に脅かされない状況を求める
          「安全の欲求」、
第三の欲求は、何かの共同体に所属することを求める
          「親和の欲求」
第四の欲求は、社会の中で承認、尊敬を得たいという
          「自我(自尊)の欲求」
第五の欲求は、自分の能力・可能性を発揮し成長してゆきたい
          「自己実現の欲求」
というふうに人間の欲求は高次元へと発展していく、ということのようです。

具体的に言うと
「生まれたばかりはおっぱいを欲しがって(=生理的欲求)泣くだけだった赤ん坊が、
やがて見知らぬ場所に連れて行かれるとなんとなく不安を感じて
いつもの場所に戻りたがる(=安全の欲求)ようになる。
さらにはいつも守ってくれる親を認識しこの人たちと一緒にいて愛される存在になりたいと願い(親和の欲求)さらには『エライねー』と褒められ認められる存在になりたい(自我(自尊)の欲求)と願うようになり、
そして最終的には、そうした社会で自分の好きな道を見つけ『自分らしさ』を貫いた上で成長していこう(自己実現の欲求)ということこそが、
人生における究極の望みなのだということなのでしょう。

しかし、
こうやって書いていくと、
人の欲求の大半は「認められる」ということに占められているようだということに気が付きます。
より本能的で根源的な第一、第二の欲求はさておいて
第三は「所属する=他の構成メンバーに仲間と認められる」ことへの欲求ですし、
第四は「尊敬を得る=他者から共同体に有益なものと認められる」こと、
最終の第五は「自己を実現する=自分の本質を自ら発見し磨いて社会に貢献する=それを他者に価値あるものとして認識される」ことへの欲求なわけですから。

つまり
これは人間がその安全を確保するために集団で生活することを選び社会をつくったそのときから

人の幸せは常に他者との関わりに大きく左右されるようになった

ということなのでしょうね。


ときには
過剰なまでに意識しすぎて、
自分の本質や自分の本当に希望や意志すら見失いそうになる原因ともなる
他者との関わり。

それでも
それがなくては多分生きていくこともできず、
仮に生きていけたとしても幸せとは程遠い人生になるであろうことは
容易に想像できます。


が、

もしも、
もしもその昔、
人間が集団で生きることを選ばずに単独で生活する道を歩んでいたら……と、

そうなったら多分
文明というものもまた生まれなかったとも思うし、
早々に滅びの道を歩んでしまったかもしれない。
そんな想像は
今の人間社会の根底を否定するのと一緒の愚かな仮定だとも思うのですが、


その孤独さゆえに犯罪に走る人や、
人間関係に絶望して命を絶つ人のことを見聞きすると

「その選択は全くあり得ないものだったのかな、」

とついつい思ってしまう……


結局
どんなに居心地のよい集団にいようとも、
どんなに親しく理解しあっている友がいると思っていても、

やっぱり人って
最終的にはひとりで生きていくしかない、
その辺を覚悟してこその

人と人との真の交流が生まれる

逆に言うと
真実とは案外そういうものなのかもしれません。

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2008/07/03

「最後」のせつなさ

先週、「最後」というタイトルを載せられた文章を読んだ。
書いたのは作家の井上荒野氏。

内容は、
子供のころテーブルの上にあった花器に差し込まれた紙ナプキンにまつわる思い出で、
母に言われてそれを畳むという作業を最後にやったのは一体いつだっただろう、
ということが書かれてあった。


何の変哲もない普通の作業、それがある日突然無くなる。
多分、
彼女のナプキンを畳むという作業は
ティッシュボックスという便利なものの出現によって
消滅したのだろう。
(そう彼女自身は推理している。)
その「極々日常にありふれた出来事の最後」に
彼女がこだわるのは、
その「最後のナプキン畳み」をする自分の姿を
どうしても思い出せないから、
なのだそうだ。

その、最後のナプキンを畳んだ日、
彼女はその作業を何の感慨も無く終わらせたのである。
だって彼女は、
(きっと何日か後にはまた母が「手伝ってくれる?」と声をかけてきて、何枚ものナプキンを両端をそろえて丁寧に畳む日が来るに違いない。)
と、思っていたから。
しかし、
母から「ナプキンを畳むという作業」を言い付かる日は、その後永遠に来なかった。
そして、
最後にナプキンを畳んだその日の記憶もまた
永遠に失われてしまったのである。


彼女は言う。
そういうふうに
さまざまな出来事の無数の「最後」は意識すらされずに切り捨てられていく。
そんなことは世の中にいくらでもあることなのだろうし、
実際そうしなければ人間なんて生きていけないものなのだろう、と。
そして
「最初」というものは思い出にしっかり刻み込まれるが、
「最後」というものはあやふやのまま、
そうと意識もされずに記憶の彼方に消え去ってしまうものが何と多いことだろう、とも。


ああ、そうなのかもしれない。
覚えている「最初」よりも
忘れられてしまった「最後」に人はより執着するものなのだ。
「後で考えたら、あれが最後だったのだ」と気が付くのは残酷なこと。
「最後」であることに気付かなかった自分の鈍感さ、
それを何気なくやり過ごしてしまった迂闊さ、
そして、
もう決して取り返すことの出来ない喪失感……


私もまた
そうとも知らずに
いっぱいいっぱいつまらぬ「最後」を切り捨ててきたのだろうけど、
そしてそんな「最後」を惜しむような余裕すら今まではなかったけれど、

この文章に

「最後」という言葉のせつなさを初めて知った、気がした。


それが、
井上氏のエッセイ連載の最終回の文章だった。


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