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2008/07/11

自分を語るにあたり……

例えば、自分の友達について書くとして。

いかにこの人が私にとって魅力的であるか、
仕事への姿勢・情熱、
どれをとっても怠惰な私を
いやがおうにも啓発させざるをえない存在である素晴らしい友人。
その素晴らしい友人とお互い自立しながらも
本当に必要なときにはともに支えあえる信頼関係を築けたのなら
人生の大半の目的を果たしたといってもいいのかもしれない。

などなど、夢中になって書き綴ったとしましょう。


でも、
冷静にみると
そんなことをここに書き散らしたとしてなんになると?
実際のところ
その友人の素晴らしさ、この友情のもたらす幸福感は
おそらく誰にも伝わらないのです。
ここを偶然にも訪れ、
たまたまこの文章を目にした人々にとっては
そんな友人はどこにでもいるただの見知らぬ人であり、
そんな友情もごく当たり前のどこにでもある関係。
それを特別のように書き立てるのは
客観的に見れば
ただの失笑をかう自己陶酔の文章にしかならない……

いや、友人だけではない、
私が大切にしている思い出や貴重な体験も
愛すべき家族も
大変だがやりがいもある仕事も
人生に張り合いを与えてくれるかけがえのない趣味も、
それに並々ならぬ思い入れをしているのは、
世界でただ一人、この「私」という人間のほかには誰も居ないのです。
悲しいことに、
寂しいことに、
それが現実というもの。


きっと、
私たちは発信者となった日
―即ち、自分の書いた文字が
公のモニターに映し出されるようになった日―から
その現実をだんだん失いつつあるのかもしれません。

その結果
自分の心の中では
確かに
誰もが作家であり
誰もがアーティスト、評論家、ジャーナリストたりえる今がある。


だが、それはあくまで自分の心の中でのこと。


冷静に判断してみるに

そう思ってくれる読者は、
多分知り合いの中ですら極々少数であり、
全くの見知らぬ他人の中ではほとんど皆無なのでしょう。

全く
悲しいことながら、

やはり
それが真実なんだと私は思うのです。

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