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2008/08/29

若さの証明

「あのころ、わたしは若かった」

30代の彼女が、
数年前の新人時代を思い出して呟いたのは、この言葉。


彼女だけではない。

若くは
中学生の少女を見かけた女子学生さん、
また
その女子学生さんを見た新人OLさん、
もうちょっと年を重ねて
もちろん30代の溌剌とした女性を目にした40過ぎのこの私も

……つまり
年下の人の若さに触れた女性たちが
呟くのは皆、

「あのころ、わたしも若かった」。

という言葉。


彼女らは知っているのだろうか?
彼女らよりもっともっと年配の数多くの女性たちが、
その言葉を耳にしていることを。
その言葉を耳にしながら、
未だ失われてなどいない彼女らの若さに苦笑していることを。


本当の意味で
人生の荒波を乗り越えてこられた諸先輩方は
その若輩らの呟きを
聞いてこう答えることだろう。

「そういっているうちはまだまだ若いってこと。」


確かに……


全くそのとおりです。


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2008/08/27

メダルの価値は
種目によって異なるものなのか

最早お祭り騒ぎも過ぎたというのに
こんなテーマを掲げて恐縮なのですが……

オリンピックの最終日、
あるテレビ番組のコメンテイターがこんなことを言っていたのです。
「みんなも思っていることだけど、
メダルの価値は種目によって全然違う。
(世界中でしのぎを削る争いをしている)競泳や陸上の金と、
(一部の国でしか盛んに行われていない)マイナーな競技の
金の重さが同じわけないんですよ」


ああ、と思ったのですよ。
「競技によって金の重さが違う」なんてそんなこと、
電波に乗せて喋っちゃう人がついにあらわれたのか、
という感覚。


言いたいことはわかります。
多分メダル数で大躍進し国威発揚を遂げた某大国のことを
暗に否定しているつもりなのでしょう。

「卓球だの跳び込みだのそんなマイナースポーツで
ちまちまメダル数を稼いでるんじゃねぇよ。
もっと日本を見習って競泳だの陸上だのメジャーなところでも
成果を挙げてから物言ってみろ。
だいたいセコイんだよ、
メダルが獲れそうなものばかりここぞとばかり強化しやがって。」

とまあ、
こんなところでしょうか。
(ちょっと、というか大分表現は下品ですが―)


このコメンテイター氏だけではありません。
こんな考えを持つ人、この国にかなりの数がいるはずです。
実際私の家庭内にも
こういうスポーツナショナリスト、約1名おります。
(もちろん、言い方はもっとソフトですが)

でもなぁ……
それは、
家族相手にお茶の間で愚痴交じりに話す程度に
留めておくべきことではないのでは?

確かに
アジア人では勝負にならないと分かっているような競技でも
果敢に挑戦する姿を誇らしく思うのは当然のことなのですが。
それでも、
「メダルの価値は違う」なんて乱暴なことを
公然と言いはじめちゃったら、
己の卑しさを暴露してしまうようなものですよ。

だって、
そう言ってやりたいのは、
「メダル争いの一位だ!」と得意満面になっている某国一般観衆にであって、
その「価値の低い」メダルを獲ったアスリートたちにではないのでしょう?


ベタな言い方でしらけさせるかもしれないけど、
やっぱり
ただ観戦して熱くなっている観衆に過ぎない私たちには
メダルの価値云々なんてのは公の場では
間違っても言ってはいけない言葉なんではないでしょうか。


結局

メダルの価値について公然と語れるのは、
そのメダルを獲得した者のみにしか許されないこと


正論過ぎてつまらないことかもしれませんが、

そこを踏み外してしまうのは
その人の品位を疑われるような失態だと

私には思われてなりません。

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2008/08/21

美人アスリート花盛りの昨今に思うこと

オリンピックも酣(タケナワ)である。

がんばっている選手たちを見るのは、
スポーツとは無縁の生活を送るこちらにとっても
なかなか気持ちのいいものであるが、
どうも今回のオリンピックはそれ以上にも気になってしまうことがある。
それは
「美人アスリート」
と言われる一部選手たちのマスコミによる過度のもてはやし。

いや、
これは私が今まで気付かなかっただけで
今回に限らずどの大会においても同じだったのかもしれないのだが、
とにかく
いつのころからかは知らないが
美男美女のアスリートたちが雨後のタケノコのように
わらわらと生まれてきて
テレビ画面を新聞雑誌紙面を占めるようになっている。
要は
マイナースポーツの関係者が
自分の種目の注目度を挙げるのには
簡単にはいかない国際大会での成績の向上などよりも
選手たちの美男美女振りをアピールするほうがずっと手っ取り早いことに
気が付いた所以のことなのだろう。


その安直な発想には
なんだか厭きれるものがあるのは確かだが、
それに我々一般人まんまと乗ってしまっているだから仕方がない。
確かにどういうわけだか
美人や美男子に一般ピープルの目はついつい惹きつけられてしまうものだ。
好き嫌いは別にして
いわゆる容姿に恵まれた人が出てくると
はっとしてついつい注目してしまうのは如何ともしがたいことのようである。

だが、
どうして私たちは、
こんなにも「美しい人」が好きなのだろうか?

テレビや映画でだって
主人公の容姿がイマイチだと
どういうわけだか不満を感じる。
現実世界では
どちらかと言うと美男美女は
屈折した羨望から妬まれたりすることも多いのに
純粋なる鑑賞の対象となると
美しいものへの憧れはよりストレートに表れる。

どうして?

ただ、その人を見るだけでなんだが嬉しくなるなんて、
その人と仲良くなるとか、
その人と結婚するとか、
そんなこと全く考えられないことなのに。
「自分の子孫繁栄のために
よりよきパートナー獲得の能力―美―のDNAを獲得したい」
という欲望とは、
この欲求はあまり関係ないように思われてならないのだが、
それも
「美」というものへの憧れの習慣がなせる業なのであろうか?


そう思っていた私はこんな本をあることを知った。

「なぜ美人ばかりが得をするのか」

パッと人目を引くその題名(邦題)は
あくまで商業的価値を付加させるために付けられたもののようで
内容は極めて硬く、
学術的に「美」というものを掘り下げているらしい。
曰く、
「認知科学の最新研究と、進化心理学の知見をもとに、古代の美の定義から、男女の性戦略、育児の秘密、美容整形事情にいたるまで、広範なエピソードをまじえて美の本質に迫り、美しさの謎を解く画期的な本。」(「BOOK」データベースより)だとか。

へぇー、読んでみたいな。


夏も終わりに近づくことだし、

オリンピックが終わって
静かになった夏の夜を

「美」の効果の探究

に使うのも悪くなさそうですし、ね……

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2008/08/19

削られ続ける「眠り」へ

「……夜の9時、
この時間を過ぎるといつも眠くなるのよね
昔子育てに忙しかったころ、
この時間になれば取りあえず、
子供と一緒に床につくことができたからかしら」

これは、
私の母が子育ても一段落した50過ぎぐらいにいっていた言葉だ。

その言葉通り、
母は早寝が好きで、
父が夜勤の日などは
夜は一人テレビなどを観ていることなどほとんどなく、
9時を過ぎればさっさと布団にはいってしまう人だった。

10時近くに私が宿題を終えて、
一緒にテレビでも観ようかと降りていっても
居間には誰も居ない。
この状況を物寂しく思っていた私には、
この母の早寝好きは
ちょっとばかり不満だったものだった。


しかし、
自分が母親になってはじめて分かったのだ。
母親にとって
眠るということは
唯一の安息に時であるということ、に。
そして
彼女にとっては
愉快な語らいや楽しい団欒より
眠りこそ最上の喜びのときだったのだ、ということに。


皮肉なことだ、
いくらでも早く寝ることができる子供時代には
睡眠というものが
これっぽっちの価値も見出されないのは。
価値どころがむしろ
勉強やテレビだのゲームだのマンガだのといった娯楽のためには削り放題できる
手持ちの札ぐらいにしか思われていない。
彼らがにとって睡眠とは、
自分の欲望を満たすためには
それを削ることになんら躊躇のない、
あたかも無限に汲みだせる泉のようなものなのだろう。


こうして削られ続ける睡眠に、
いつか
彼らもその価値を見出すときがくるのかもしれない。

もちろん
そのときには既に
思うように睡眠をむさぼることは不可能になっているのだろうが。


どういうわけだが、
物の価値ってものは失ってみないと分からない

人生って、そんなもの、だ。

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2008/08/07

8月6日、深夜

日本人なら
誰もが知っているはずの日、8月6日。

自分で言うのもなんだか
生真面目な少女だった私は
この日を特別な日だと心に決めていたものだった。

普段どんな毎日を送っていようと、
この日は身を謹んで
たとえばゲラゲラ笑うようなおふざけ番組は決して観ずに、
あの多くの人々の恐怖と苦しみを再認識する
そんな一日であるべきだ、と。


……

だが、
我が家の子供たちは
そんなかつて私の思いには一向に無関心にみえる。

いつものように
おばかなクイズ番組を観、そのスペシャルドラマを観る。
ゲラゲラという笑い声で溢れる我が家の居間。


原爆の話は知っているよ。
学校で習ったもの。
話も聞いたよ。
でも私はああいう怖い映像を観ると夢に見ちゃいそうで怖いの。
だから、イヤ。
ああいう怖い番組は観たくない。

そういう子供に
私はその手のドキュメンタリーを見せるのを躊躇する。

この子はやがて
街角のアンケートで
「8月6日って何の日だっけ?」
といっていたあの若者と同じような大人になるのかもしれない。

そして
そうなったとしたら
それはやはり
親である私の責任なのだろうか。


子供も寝静まり、
スポーツニュースを観る夫の横で洗濯ものを畳むいつもの夜が更ける。
気が付いたら
時計は回って日付は8月7日になっていた。

特別な日はこうして終わった。


……


日々、
風化していく戦争の傷跡と恐怖に、

……ごめんなさい


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