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2008/12/24

Bad Christmas

なんでこんなに辛いのか……

いや、本当のところは大したことはないのかもしれませんが……

世の中はクリスマスイブです。
ラジオからは今夜の幸せな時間を思わせるような
ウキウキするトークが続きます。


でも、私は辛い……
私は疲れている……

何故ならば
オオソウジ、オセイボ、クリスマスディナー、プレゼント、ネンガジョウ、
イナカヘノニヅクリ、エトセトラ、エトセトラ……
が、
私めがけて倒れ掛かってくるから……


12月が苦手になったのはいつごろからでしょうか?
仕事を始めてから?
子供を持ってから?
それとも、結婚してから?


本当のところ
世の中の半分の人は文字通り浮かれまくった日々を
過ごしているのかもしれませんが、
残りの半分は青息吐息で追いまくられる
そんな毎日を過ごすのが12月なのではないでしょうか?

(それとも、そんなシニカルな人間は私だけ?)


ごめんなさい。


今月は中旬から2度も発熱し、
また3度目の喉の痛みを感じながら目覚めた今朝。
そんな朝にはクリスマスケーキもシャンパンもクラッカーも
正直うんざりさせられる……


まずは
身体と心の健康の回復をしないと、

1年のうちで
いつもより少しだけ優しくなれる
誰かと暖かさを分かち合う「最良の日」、も形無しのようです(苦笑)。


……

今日は早く休みます。

それでは
皆さんは、よい一夜を


メリークリスマス……


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2008/12/18

「普通の真面目な生徒」
もしくは
「放蕩息子の実直な兄」の舌打ち

熱血先生は授業中にもかかわらず、自分の経験や問題を起こした生徒の心の奥底にある気持ちを熱く語っています。でも、みんなそんな話を聞きたいのでしょうか?… (中略)…そもそも、普段からちゃんとしている人に授業を中断してまで語らなければならないことなんてあるのでしょうか? 道を踏み外して、その後更生した人よりも、もともと道を踏み外すようなことをしなかった人の方がえらいに決まっています。でも残念なことに、そういう人には日常ほとんどスポットが当てられません。学校でも同じです。そして、それが毎日まじめに生活している人に自己の存在価値への疑問を抱かせ、時として、マイナスの思考へと向かわせていく原因になっているのではないでしょうか。

こちらの文章は、湊かなえ著「告白」というミステリーからの抜粋(らしい)。
とあるサイトで引用されていたものだ。
ここで引用者は、この文章にも表れている

「グレていた人のほうが、なぜか評価される社会」への不快感

を自分も常に感じていたことを述べている。
多分彼だけではない。
ほとんどの真面目で問題を起こしたことの無い子供時代を過ごした人間にとっても、この不快感は同じことなのだろう。


そりゃ悪いことを何一つ心に思い描いたことすらない、なんてことはないだろうが、少なくともとりあえず大きく道を踏み外したことは無いと自負するひとにとってこの「グレていた人のほうが、なぜか評価される社会」への不快感は根強くあるはずだ。
ずっと正しくあったひとはその正しさが当たり前でコレといって取り沙汰されることはないのに、
悪の道に染まっていた人が改心するとどういうわけだかチヤホヤされる。

そして
これは昨日今日始まった傾向でもなんでもなく、
世界で一番出版されているという本、聖書のなかにもこの手の話が登場する。
世に「放蕩息子のたとえ」(ルカによる福音書15章11-32節)と呼ばれる話だ。

ある富裕なひとが、
その次男に請われるままに彼が受け継ぐはずの財産を生前に分けてやる。
しかし次男は別の土地で放蕩三昧の生活で瞬く間にそれを全て使い果たしてしまったのだ。
異郷で貧困に喘ぐ次男は恥をしのんで父の元に戻り、自分の行いを心の底から父に謝り、僕の一人としてでもいいからそばにおいて欲しいと頼む。すると父は、「死んでいた子が生き返った」と喜んで全てを赦し彼の帰還を祝う宴を始めよと召使たちに申し付けるのだった。

と、ここまでは不完全で罪深い次男(=私たち人類)に対する父(=神)の愛の深さを示すたとえ話として有名である。
だが、この話の特筆すべきところはむしろその後で、放蕩息子の兄たる長男のくだりなのだ。

長男は父に言いつけられた仕事を終えて帰ってくると、屋敷はなにやら騒がしい。召使のひとりに尋ねると「弟君が戻られたのでお父上がそれを喜び宴の準備をするように申し付けたのです」と答えられる。
さあ、真面目に父の言いつけに従ってきた長男としては当然面白くない。父に向かって彼は言う。
「自分は貴方の言いつけに従ってきたのに、小さな宴ひとつやってくれたことがない。それなのにあんな財産を食いつぶしてしまった弟のためにはこんな盛大な宴を催そうとしているなんて不公平ではないか!」


この不満、ごもっとも。多分このシーンを読んだ人のほとんどがこの長男に自分を重ね合わせるのではなかろうか。
実際私もそう思ったひとりである。
出来の悪い子ほど可愛いなんて俗に言われるが、
そんな……!
親に心配かけまいとがんばってきた真面目な良い子はその出来の悪い子ほど可愛くはないものなのか?

しかし、父は長男の不満にこうこたえる。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」


……当たり前ではないか……

ああ、お父さん、全くそのとおりなのだけれど……!
それでも長男は、私たちは、頭では分かっていながらそれに納得できないでいる。
そもそも、「ああ、そのとおりだ、まったくそのとおりだ」なんて心の底から思うことができるものなら、
妬みや嫉みから生まれるこの世界の不幸は殆ど無くなっていることであろう。


つまり、
私たちはいまだに、
寛容な父の前で口を尖らせている心の狭い「実直な兄」であり、
熱血先生の問題児への情熱に心の底で舌打ちする「普通の生徒」、なのだ。
それ以上のもの、でも
それ以下のもの、でもないのである。


もちろん私に
ここで、
そのことを悔い改めるべきだ、なんてことを言うことはできない。


ただ、
人間の本質って
本当に2000年以上経っても何も変わらない、

そんなことを
改めて痛感した……って

そんな当たり前のことをちょっと書いてみたかっただけ、のこと

ホント、
ただそれだけのこと、である。

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2008/12/07

必ずしも「報われるため」ではない努力について

先日、よく訪問するサイトで、こんな文章が紹介されているのを見ました。
(以下抜粋です。)

小さい頃から、努力すれば報われると教えられてきた。
実際、受験も部活動も、恋愛も、すべてが一定以上に報われてきたと思う。
でも、社会に入ってからはそうじゃないと知った。
「努力しても報われない」どころか、
「努力さえさせてもらえない」「努力そのものを全否定される」なんてのはザラだ。
「何について努力するか」を選ぶことや「努力より考えが重要」と言われた。
いきなり180度態度を変えてくる。
話が違うじゃないか、と思ったが、社会人から言わせると
「それはお前が努力すると報われるぬるま湯の世界から出て、現実を見ようとしなかったせいだ」
と言うことになるらしい。


なるほど、と思いました。
この文章を読んでまず感じたのは、
努力って「報われるためにやっているもの」だったんだな、ということ。

考えてみれば当たり前のことなんですが。

しかし、
大人と呼ばれるようになって早20年も過ぎた今となってみると、
私たちの世代の多くは
やっぱり
「努力はそう簡単に報われないものであること」
も大分わかってくるから。

(そのあたりは、冒頭の文章のかたの全くおっしゃるとおりです。)

だから、
「努力」も

「報われるため」というよりは、
「努力しなかった自分を後悔しないため」という色彩が

より強くなってくるような気がしてくるんですよね。


私を含めて多くの普通の人はそういう感じなんじゃないんでしょうか。
こういう人たちの努力なんて、
ものすごく頑張っている人達から見たら
「そんなの努力のうちにならない」と笑われちゃいそうな代物だけど、
でも自分としては「努力」と思っているその行為をやめることは
そう簡単にできないでいる。


多分、
本当は報われないかもしれないのに、
「努力すること」、あるいは「させられること」に、
あまりに慣れすぎちゃったからなのかもしれないのですが。

無駄だとわかっていても、
報われないとわかっていても
やらずにはいられない
そんな努力を、あなたもしてはいませんか?

それって、
やっぱり無駄な努力のうちなんでしょうか?


……


奇麗事ですみませんが、
それが、
自分のための努力ってことなんだと思います。

自分を肯定するため、
自分を嫌いにならないための努力。


あまりに高過ぎるハードルを用意してもだめだし、
逆に低すぎてもだめですよね。


……すごい、

自分を満足させられるって
本当に絶妙のバランスによって成立する条件なんだな、と。

この辺をうまく調整できる人こそ、
いわゆる

「幸せな人生」

ってやつを送れる人なのかもしれません。

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2008/12/03

PTAの存在する意味

月末の仕事の忙しさと子供の学校の仕事が重なり、
思いがけず忙しい日々となった。
半休を取っての午前中の学校での打ち合わせが
その後の会社でも業務に響いて残業も長時間にわたり、
夕飯の惣菜を買って家にたどり着いた時間が
10時近くになってしまった日もあったりして。

こういう事態になると
思うのは決まってこんなこと、

すなわち
「PTAって何のためにあるの?」


***********************


実際、
PTA活動って
不公平で
引き受けたひとには負担が大きくって
それでいてまさに「活動のための活動」というか、
本当に必要なのかどうかわからないものであることが多い。

私は今まで3年ほどその活動に参加したが、
この団体の活動
(例えば子供のための行事の企画、地域の文化行事のお手伝いなど)が
そんなに子供のためになっているかというと
正直、さほどのことはないというのが実感だ。

唯一、ためになったことといったら
それは子供のためのことというよりは参加している私自身のためのことで、
それは
「もしPTA活動に参加しなかったら
絶対体験しなかっただろうことをやった」ということ、
ただそれだけ。


人付き合いがどちらかというと苦手な私には
こんなことでもない限り
他の保護者のひとと知り合いになることもなかっただろう。

別にお母さん同士友達になろうなんて気は殊更ない。
その活動が終われば
また
単なる顔見知り程度の付き合いに戻ることが予想される間柄だ。
(実際お互いそれが望ましかったりもするのだし……)

そのように本当に一時的な交流ではあるのだが、
それでも
同世代の子を持つという共通点だけの全然違うひと達と
協力して何事かを成すということは
かなり面倒くさい半面、
実に新鮮な体験でもあった。
(たとえそれが無駄以外の何物でもない
いわゆる活動のための活動であったとしても、だ。)


「結局あれだよね、
 その辺りの『親同士の親睦』がPTAの一番の目的なんじゃないの」

という私の言葉を、
今年初めて活動に参加した若いお母さんは怪訝そうな顔で聞いていた。


きっと彼女は、
別の意味や目的をPTAの中に見つけだそうとしているのかもしれない。
そして、多分彼女にならそれは見つかることだろう。


だが、
6年間の活動を通じて私が感じたのは
それ以上でもなくそれ以下でもない。

実際、それでいいんじゃないの?


あと少しで私の担当するPTA関連の仕事も終了する。
学校に日参する日もあとわずか。

……引継ぎ書、整理しておかなくちゃ、ね。


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