« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

2009/01/28

あの白人女性の涙は永遠のものか

映画「クラッシュ(2004)」を観た。

人種のルツボ、自由の国アメリカの抱える病―人種差別。
その忌むべき存在は
決して悪人の中にあるだけではなく、
世界中の正直で優しく善良な人々の中にも潜んでいること。
その善良な人々がひとたび理性のバランスを崩すと
ムクムクとそれは頭をもたげてしまうこと。
そして
衝動的に見せてしまう彼らの本性に
差別される側はどうしようもなく叩きのめされ、
善男善女自身も自分の正体に愕然とする……


結局、
言い古させた言葉だが、

「善人悪人というものはこの世には存在せず、
ある人が行ったことが良いことだったり悪いことだったりするだけ」

……ただそれだけなのだ。


……


この映画を観ながらふと思い出したのは、
先日のオバマ大統領の就任式のとき
テレビに大写しにされていた
ひとりの白人の女性の顔。
彼女はその感動のあまり涙を流していた。

この歴史的に新たなる一歩に涙した彼女も
もしもこの先自分が失業や病、災害などの不運に見舞われたとしてその際に
白人であるが故の逆差別に遭遇したら、
自分たちより優遇されてしまっているアフリカ系同胞に
「ニガーめ!」と心の中で罵るのだろうか?
また
不運にも自分の愛する家族が犯罪に遭遇した際に
その犯人がアジアあるいはアラブ系だったりした場合においては
この国における有色人種の存在そのものを
忌々しく感じ、彼らに侮蔑の目を向けるのだろうか?


アメリカの可能性と未来への自信を取り戻した
あの日の感動の涙をも忘れて……?


それもあるかもしれない。
また、ないかもしれない。


ただ
人間というものは、
天使にもなり得ればその次の瞬間悪魔にでもなる、
もちろんその逆もありうるということ―

それだけは確かなことだ。


そして、
もうひとつ言える確かなことは、

それを再認識させるには
この映画はかなり上質な媒体であるということ―


「クラッシュ(2004)」

この映画を未見の方は
オバマ新大統領という初のアフリカ系アメリカ大統領誕生を機会に
是非一度ご覧になってみるといいかもしれません。

|

2009/01/19

「そうですよね、私、おかしいですよね」

前回、「面白いエッセイにとんとお目にかかれなくなった」なんてことを書いていながら、

その数日後、私はある文章に出会ってしまいました。


それはこちら


多分、
母はものすごく大変な思いをして子供をプールにつれてきたのに、
「やっぱ入るのイヤ!」と駄々を捏ねる子供。
その子供たちに最初は怒りに身体を震わせながらも
恐ろしいほど静かに「入れ」と指示する母。
それでも「イヤ」と拒絶する子供たちに
「ケジメだから」といってついには無理矢理プールに子供を入れようとぐいぐい腕をひっぱる母。
その怒りの凄まじさにたまりかねずに
遠慮がちに「かんべんしてあげたら」と止めに入る筆者に

「そうですよね、私、おかしいですよね」

と母はぽろぽろと涙を流す。


すみません、私はこれを読んで涙があふれ出るのを押さえることができませんでした。


ああ、私もよく「おかしく」なるのです。

そして
それは多分、自分の子供っぽさゆえなのだ、とわかってはいるつもりなのです。
でも、
激情を抑えきれない私は、
子供を冷静に「叱る」のではなく感情的に「怒る」ことのほうが圧倒的に多い。

自分で自分をコントロールできない、歯がゆさ、情けなさ……


だから
この「私、おかしいですよね」と言って流すお母さんの涙に
私も泣いたのです。
ディスプレイを見つめながらボロボロ泣いたのです。

うちの子たちはもう小学校も高学年。
モノゴトの道理もそこそこわきまえて来て、
以前に比べればずっと楽になっているはずなのですけれど……

ああ、でも
やはりこの方のいうとおり、

「子どもを育てるとはかくも理不尽な戦いである」

わけなのです。

少なくとも
大人になりきれない私のような母親にとっては、
それは
永遠に続く「終わりなき戦い」のような気がしてなりません。

|

2009/01/11

エッセイ嗜好の限界点

そもそも、
エッセイというものを好んで読むようになったのは、
一体いつごろからだったのだろうか?

5年ぐらい?いやもっと前から?

ここのところ、
特にこの1年ばかりか、
面白いエッセイを読むということが、
トンと少なくなった気がする。

ネットでも、もちろんその他紙媒体のメディアでも。


かつては、
あんなに新鮮で斬新で歯切れのいい魅力的な文章を書いていた人が、
今は自己満足の陳腐なダラダラ文ばかり書いている。

新聞雑誌でも
以前どこかで誰かが書いていたような二番煎じの主張や、
ノスタルジーを売り物にした手垢のついた感傷的文章ばかりが目に付く。

…………


一言で言うと

「飽きた」

ということなのか?


そもそも
こういうものを読んだり書いたりし続けることというのは
自ずと限界があるということだっただろうか?

そして
私の中のエッセイ嗜好がすでに飽和状態になっているとでも?


それでも
今も思うのは、
かつてのように面白い文章がどこかでまた読めれば、
ということ……

その希望を捨てきれずにいる。


ああ、
気負いなくストレートで正直な文章に出会うことができたら……!!

自分を(そして自分の文章を)省みずに
わがままを言わせてもらえば、

それが今一番の望み、である気がする。

|

2009/01/06

表も裏も印刷だけの年賀状

届いたのは、
裏も表も印刷だけの年賀状。

もう何年も会っていない人からの年に一度の便りだ。


それを受け取った彼女は言う、
「もう返事は書かないよ」と。

来た便りには必ず返事はする、
それが礼儀というものだと信じてきた私には信じられない言葉だった。

そんな驚き顔の私に、彼女は更に続ける。

「だって、
 もう絶対会うことないし、
 向こうだって出すのをためらったはずだもの。
 私がここで返事を出したら
 また不毛なハガキのヤリトリが続くことになっちゃうでしょ」


確かに……
そのはがきの差出人は、
そもそも彼女とはさほど親しい付き合いはなかった上に
最早何の接点も無くなった人物である。
差出人は、
単にパソコンの名簿に彼女の名前が残っていたから、
そして特に削除する理由を見出さなかったから、
そのまま印刷し投函したに相違なかろう。


はがき作成ソフトというものが世に出回るようになって十数年。
誰もが手軽に見栄えのいい賀状を出すようになった。
そして、
その見栄えのいい賀状とともに、
「儀礼」でも「親愛の情」でもなく
とりあえず出しておくという
「惰性」で出される年賀状もまた
数多く世に生み出されていったのだ。


それは、
不毛なやりとりなのか、
それとも、
そもそも年に一度の挨拶などというものは
所詮その程度のものであってしかるべきなのだろうか?


…………


裏も表も印刷だけの、
最早差出人の声や顔も定かではない年賀状。
私宛にも来たその手の賀状に
やはり、今年も私は返事を書いた。

だがその反面、
彼女の「書かない」という決心に
ブラボー!と心の中で密かに叫ばずにはいられない。


虚礼ならぬ惰性廃止……!


だって
惰性で頂く年賀状ほど、
侘しいものもないじゃないか。

|

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »