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2009/04/22

コミュニティーとステージ

ネットの住民を二種類に分けると、

この世界に
友人とのつながりの場(=コミュニティー)としての役割を求める人と、
自分の考えや文章を公表する場(=ステージ)としての役割を求める人の
2つに大別できると思われる。

当たり前のことだが、
ネットの世界にはこの2種類の人種がまったく無秩序に混在しており、
それがなんだか私につまらぬ居心地の悪さを感じさせるのだ。

いや、どっちがどうだというわけじゃない。

コミュニティー系がヌルくて
ステージ系が読み応えがあるってわけじゃ
必ずしもないし、
要は単なる好みの問題でしかないのだけれど。

コミュニティーはコミュニティーとして
ステージはステージとして
厳密にこの世界を分けることができれば、
つまらぬストレスを感じずにすむのに……


こんなことを考えるのは私だけ?


私は
心が狭すぎるのだろうか?


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2009/04/15

挽肉といえば……ピンクフロイド

ある休日の晩のこと。

夕飯をつくるのに冷蔵庫から挽肉をを出したとき、
その赤と白の斑模様に
どういうわけだがいつにも増した生々しさを感じたのだ。

なので、
食卓で夕刊を読んでいる夫に声を掛ける。

「ねぇ、
 なんだか挽肉をみると
 ピンクフロイド思い出しちゃうよね……」


とっさに
そんなことを言われた夫は最初こそきょとんとしたが、
すぐに

「ああ、ミンチにされちゃうあれか」

と応える。


ああ、このひとは

挽肉からピンクフロイドへ
何の説明もなくとも
この2つを結び付けてくれるひと、なのだ。

そんなひとだからこそ、
私もなんの躊躇もなくつまらぬ思い付きを
彼に話すことが出来るのだけれど。


……


考えてみるとそんな特別のことではない。
むしろ
世の多くの夫婦って皆そういうものなのだろうが、

私が
自分の幸せを
いちばん噛み締められるのは、

こんなとき、なのである。


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2009/04/08

「歳を重ねるごとに輝く」という綺麗事

昨日は上の子供の入学式でした。
4月生まれの女の子、
身長は去年の夏ごろにはもう母である私を抜き
今や青春まっさかりの彼女。
すらりとした身体に
ちょっと大きめのセーラー服が眩しく映ります。

こうして
どんどん子供が成長し
世の春を謳歌しているのを見るにつけて感じるのは、
もちろん喜びなのですが、
かすかな寂しさでもあるのです。
しかも
その寂しさというは、
子供が巣立つ「親としての寂しさ」というよりは、
家の中心が、
もっと言い換えれば世の中の中心が、
この子達の世代に移っていってしまうことの寂しさ、
そんな「自己中心的な子供っぽい寂しさ」だったりするのです。

「このあと、
 自分はだんだん年老いていくばかり。
 はつらつと生きる若い世代に主要な役どころを譲り
 どうでもいい脇役を地味に演じていく毎日が続いていくのだ。
 ああ、人生という舞台の主役の座を下ろされてしまうのは
 中年になった今、仕方のないことなのだろうか・・・」

なんてボヤキ。
と、どこかの誰かからこんなお叱りを受けそうですよね。

何を言っているのよ!
主役の座を譲るなんて、情けないことを!
いくつになっても活き活きと輝いている人は何人もいる、
むしろ
例え皺だらけになっても
人生の深みを増した女としての魅力は
増しこそすれ、無くなる事なんてないのよ・・・


確かに
こんな風にいう人もいます。
でも
なんだかなぁ
それは一種のやせ我慢や綺麗事としか思えないんですよね、
正直なところ。
(いや、若さとか容姿のよさといった女の魅力なんてものには
殆ど縁がなかった私としては
これが真実であったならばどんなに嬉しいことか!
と何度願ったかしれないのですが)
なんだかんだいっても
「いつまでも若々しくありたい」
というのは人間の普遍的な願いであり
少しでも若さを維持することを望むのは
それは自然なことなんだと思います。

結局雌雄があり異性同士が結びつくことで種を存続させていく生物にとっては、
異性から性的対象に見られなくなることは大問題なのだから。
そういう性的魅力に満ちている生殖能力の高い時期(=若い時)を
人生の春のように思い
振り返り懐かしむのは仕方のないことなのでしょう。


ただ振り返って懐かしがってばかりもいられないし、
永遠の若さを手に入れるために莫大な金額や
途方もない努力を積み重ねることを
全ての人ができるわけでもない。
だから、
多くの人が
とりあえず「人間としての深み」とか「豊かな経験」をもってきて
それらを若さという性的魅力とすりかえるのです。
「自分もまだまだ捨てたモンじゃない」と自分自身に納得させる道具として……

滑稽ですね。
美醜や老若といった異性としての魅力
(=不特定多数を一瞬にして惹きつける魅力)と
そういった人間性の魅力
(=より知り合うことによって生まれる魅力)は
そもそも同じ土俵で語るものではないのに。


だから
いつもにこやかにしていい笑い皺をつくるのも
もちろん大切なことですが、
節制のある生活や身体への適度なお手入れも
それと同じくらい必要であり重要なことであること

それを忘れる、もしくは無視して
無責任な人間性至上主義(綺麗事)一辺倒になることは
とんでもない後悔がまっているような気がしてなりません。


もちろん
「もう私は異性の目など全然気にしていないし
 人間性一本で勝負していく自信がありますよ。」
というツワモノの方々には
余計なお世話といった話なのでしょうが……

ごめんなさい、

自分のような未熟者には
まだまだそこに到達できそうもないし、
そこに到達する日がいつか来るとも

残念ながら
今のところはとても思えないのです。


つまるところ、
冒頭の寂しさに対抗するには、
もうちょっと

老け込まない努力をする

しかないようですね。

……

とりあえず ダイエットってこと、かな……


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2009/04/02

2つの日の間に引かれたボーダーの話

今日は4月2日です。

4月2日……
前日の1日のような年度初めの日でもない。
エイプリルフールのような楽しい洒落もない。
それらのイベントの次の日、
ごく普通の地味な日なんですが、
この日付けを見て何か思うことはないでしょうか?

いや、
誰もが思い浮かべるというのでもないのでしょうが、
考えてみると
この日生まれの人ってその学年の最年長者なんですよね、
その前の日の4月1日生まれの人は前学年に組み込まれるから。

この状況って
昔から不思議な気がしたものでした。
なんで
年度が始まる4月1日生まれの人が
前倒しされるように前年度に誕生日のある人たちと一緒にされ、
どうして同じ年度である4月2日以降に生まれた人たちとは
別の学年とならねばならないのでしょうか?
そんなことに違和感を感じたことが
子供のころにはありませんでしたか?


どうもこれらの現象の全ての原因は
日本の法律において

加齢(年齢を1つ加算すること)は、
誕生日当日ではなく、
誕生日の前日において成される

という規定にあるようなのです。
厳密には
加齢がされるのは
誕生日の前日の終了時(深夜12時)とされているのですが。

うーん???
誕生日の前日の終了時(深夜12時)って
誕生日当日の開始時(午前0時)と全く同じ時刻なんじゃないの??


いや、確かにそうなんですけど、
あくまで加齢行われるのは前日の終了時で、
加齢という事象は誕生日前日に発生するものだという見解が
法律の世界の考え方なのだとか。
よって、
4月1日生まれの子が
「その保護者が教育を施す義務が生じる年齢」=満6歳になるのは
確かに「3月31日」なんですよね。

ちなみに
この「満」って考え方、
1年ではなく1週間で考えるとより分かりやすくなります。
1週間は7日間、日・月・火・水・木・金・土。
再び同じ曜日が来るときは満1週間と1日目ってことになるでしょう?
だから同じように考えれば誕生日がやってくるということは
その日は満1年と1日目なので、
満1年(満1歳)は誕生日の前日に終了しているわけなのです。


とはいうものの、
この時点で、
すで一般社会と法律の感覚とのズレが生じていることがわかります。
普通の私たちの感覚では
年齢が上がるのは誕生日の当日のことであり、
前日ではない。


……


まあ、
このズレによる違和感を
目くじら立てて訴える人もいないとも思うのですが、

昔、
子供を産む前に入院したとき、
相部屋の病室での光景を思い出すのです。
ベットが向かい合わせ同士の4月1日生まれの赤ちゃんと2日生まれの赤ちゃんが、
こんなに違いがないにもかかわらず学年は丸1年も違うのか、
と思ったことを。

学年や年齢だけじゃない、
世の中の多くのそういうモノゴトが
どこかで線引きされなければならないものなんでしょうけれど、

そんなことを思う、
今日、

この日が誕生日ではない人にとっては
ごく普通の日、
4月2日、です。


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