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2009/05/22

笑顔にまつわる2つの教え

「いつもニコニコ笑顔でいるように心がけなさい」
そのお母さんは自分の娘さんに常々そのように言っていたそうです。

人間だったら誰しも、調子のいいときもあれば悪いときもある。
調子の悪いときこそそれをこらえてでも

笑顔をつくること

それは
周囲にも自分自身にも
知らず知らずによい影響を与え
ひいてはその逆境をも乗り越えるきっかけにもつながる。
だからこそ
つらいときでも
笑顔を常に忘れないように……


どこで読んだ文章なのか
どんな方がその娘さんだったかはすっかり忘れたのですが。

実際
この「つらいときも常に笑顔を」的な教えは
広く世に言われていることです。
親だけではなく人生の師、尊敬する偉人たちも
そのような言葉を残す人は多い。
それだけにこの言葉の中には真理があるのでしょうね。
「辛くとも雄雄しく笑顔を忘れずにがんばること」
そんなひとに
私自身も憧れを感じますし
そんなことが出来たらどんなにいいことかとも思います。


しかし
私の母は
私にはこれとは違った教えをさずけておりました。


それは、

うれしいとき幸せなときはそんなにおおっぴらにニコニコするな

というもの。

理由は
「人間いいときも悪いときもあるものだから
いつもいつも幸せでニコニコなんてしていられない。
『いいときはえらい調子がいいけど、悪いときは不機嫌で身勝手な気分屋だ』
なんて思われないように……」
ということでした。


自分の身の丈を知り
自分の力以上のことを自分にも課さず
周りにも期待させないようにあらかじめ予防線を引く、
母はそういうひとだったんですよね。

やるべきことはきちんとやるが、
それ以上はやらない。
おせっかいではないが親切でもない。
手堅いが冷たいひと……

そんな彼女だから
「いつも笑顔でいるように」なんて
高いハードルを私には用意しなかったのでしょう。

彼女自身がそうやって生きてきたように
私にもそうやって生きることを薦めたんだと思います。



人間的には
前述のお母さんのもののほうが
はるかにすばらしい教えであります。

私が受けた母の教えは
それに比べるとあまりに身勝手で姑息なもの思われる……


それでも
何故だか私は母の教えのほうがありがたく感じられるのです。

綺麗ごとではなく
理想論でもない
ただの処世の術にしか過ぎない教えですが、


そこに
親にしかない身勝手なほどの愛を感じるからでしょうか?
(実際学校の先生はこんなことを教えたりしないでしょう)

そして
必要以上にいい格好をしようとはしない
現実的な彼女を
私が愛するがゆえ

なのも大きな一因なのでしょうが。

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2009/05/15

そのエッセイはなぜ面白いのか

たとえば自分の家族のこととか。

もしくは自分が子供のころの思い出とか、
それとも自分が最近見た夢の話とか。


こういうのって
エッセイのネタとしては格好のものなのだろうが、
案外読む側にしてみると
あまり面白くなかったりすることが多い。


そんなことを思ったことはありませんか?


それもそうなのかもしれません。
だって
大概の人間にとって
他人の子供のころの思い出や家族の話、
さらにはどんな夢をみたかなんてのは
どうでもいいものなのですから。


だが、
そのどうでもいいものが
どういうわけだか
心にすんなり入り込んできたりすることがあるのも事実です。
どうしてなのでしょう。

結局
その入り込める文章というのは
以下の2つに相当するからなのでしょうね。
ひとつは
それが
「自分もそのような体験をしたこと」があるゆえの共感を感じられるから、と
もうひとつは、
その書き手の人物への好意がそもそも存在する場合、です。
まあ
どちらにしてもこの2つは同じことなのかもしれません。
「自分が体験した感情」を的確かつ巧みに表現してくれた人に対しては、
人は無条件に好意と尊敬の念を感じるものです。
そういう意味では
ひとつめの「共感」というものは
もうひとつの「好意」のきっかけにしか過ぎないともいえるでしょう。

もちろん、
文章の巧みさとか
表現力の豊かさ、話の流れのテンポのよさが
影響しているのも否めないかもしれません。
が、
それもまた
その文章の書き手への好意に繋がるほうが
影響としては大きい気がします。

結局
「面白い文章を書くから好きな人」は
「好きな人の書いた文章だから面白い」に
徐々に移行していくものだから。

そして一度「好きな人」のカテゴリーに組み込まれた人物は
よほどのことがない限り
そこから追い出されることはありません。
その好きな人に「裏切られた」「失望した」自分というものを
認めるのは、
なかなかつらいことであるのも一因なのでしょう。


というわけで、

もしも
あなたが誰かの極々私的な「親の話」や「幼い日の思い出話」に
感動したり考えさせられたりすることがあるとしたら、

それはもう
「あなたはその書き手のファンになっている」
といっていいのかもしれません。


……


うーん
ということは、

田口ランディさん、

どうやら私はあなたのファン、のようです。

あなたの小説はほとんど読んだことはないのですが。

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2009/05/07

細胞と私

まだ高校生のころのこと。
英語の受験用問題集に読解問題としてこんな文章がが載っていた。

私たちの身体は多くの細胞から成り立っている。
細胞は自らを生かすために、
結果的には私たちの身体を守る役割をも果たしているのだが、
ただひとつ、それとは反対に
彼らの母体である私たちの身体を破壊する細胞がある。
それはガン細胞。
彼らは自らが拡大するために
母体である人体を蝕み結果的に死に至らしめる。
そうなれば、当然彼らガン細胞も死に絶えることとなるのにもかからわず、だ。

私たち人間も同じではなかろうか?
自分たちが拡大しその勢力を広めるために、
母体である地球を蝕み破壊するところ。
母体を失えば、
あっという間に死に絶えてしまう、
そんなもろく危うい存在であるのに
そんなことにも気づかない私たちは
ガン細胞と同じぐらい愚かで不遜な存在ではないか。


……


私が高校生のころ、つまり今から30年近い昔から
もうこんな環境破壊への警鐘は鳴らされていたわけなのだが、
実はこの文章に私が深く感じ入ったのは、
そんな環境問題についての主張に共感したからではなかった。
そういう現実社会の問題というよりはむしろ
それまで考えてもいなかった

私を構成しているが
私の意志とは別の次元で生きている存在=細胞

というものに
初めて意識を向かわせてくれたのがこの文章であったから。


肉体は多くの細胞によって形作られている。
では心は?精神は?
細胞にも
ひとつひとつに生きたい、増えたいという意志=心があり
それが複雑に絡み合い結びついて私の心が生まれるのだろうか?
それとも
肉体とはまったく別の次元からもう完成されたものとして
その精神というものは降りてくるのだろうか?
細胞ひとつひとつの心とは無縁に?
そうだとすると
細胞と私は精神的にはまったく違う人格ということになるのか?

あたかも
母体である地球と私たち人間ひとりひとりが
精神的にはなんら繋がっていないように?
(いや地球は人間がいなくても生きていけるわけだから、
 地球にとって人間は細胞というより寄生虫というべきなのだろう。
 そういう意味ではこの喩えは不適切ではある。)


今日も
呼吸し、栄養を取り入れ、不要物を排泄する私の中の細胞たち。

あなたたちは
私にとってどんな存在なのだろう。
他人のような異物なのか、
それとも私自身である同一物なのか。

これは
30年来の私が抱えている謎、なのである。

誰か、
こんなことを考えている人はいませんか?
または
こんなことをテーマに研究している学問を知りませんか?

知っていたら
是非教えていただきたいものです。


人の精神というものが
どのように構成されているかが

この21世紀にどこまで解明されているか、を……

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