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2009/06/26

「乱紋」-偉大なる鈍重な姫の物語

人というものは、
一見劣っていると思われがちな者が、
実はその人を嘲笑っていたような連中を凌いでしまうような、
そんな話が好きなもののようだ。


たとえば
永井路子の「乱紋」。

戦国時代に滅んだ浅井氏の遺児である三姉妹を
3人の中で一番不美人といわれる三女おごうを中心に書いた物語。

この中で
そのおごうは鈍感で緩慢な姫として
幼い頃より常に
彼女よりも美しく気の回る姉たちの嘲笑の的とされてきた。
が、実は
その鈍重とも思われる腹の据わり方や
「自我」を滅却させたがゆえの「達観」の境地もつ彼女には
目先の勝ち負けにこだわる姉たちをも凌ぐ栄達がもたらされる。
ほとんど自分の意思を表に表さぬ彼女にとって
その人生は果たして「幸せ」であったかどうかさえも疑問ではあるのだが…


おごう―
先ごろ発表されたところによると
この戦国の姫が再来年2011年の大河ドラマの主人公だとか。

題名と脚本家までは発表になっているが、
原作はとくに定まっていないよう。
だとしたら特に原作を定めずオリジナルの脚本なのかもしれない。

またあるいは
ドラマ化にあたっては
戦国美女オールスターによる豪華絢爛絵巻の「美女いくさ」(諸田玲子著)の小督のほうが適しているのだろうが…

でも
そういう女性たちの戦国歴史劇はもう十分観た気もするから。

だから出来れば

鈍重にして不動、
だが水の流れのようにしなやかでとらえどころのない、

この「乱紋」のおごうイメージで
やっていただきたいものだと
つい思ってしまう。

そんな気の早い私、である。

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2009/06/17

子供を自分の作品のように錯覚する親たち

親というものは
すべからく子供のために一生懸命になってしまうものなのだろうが……

その中でも
どうもいっちゃってるなぁーと感じる人たちがいる。

それは
子供を自分の作品のように錯覚する人たち

こういう人たちは、
いかに手を掛けて子育てをしているかをこぞって話したがり、
それによりわが子がどんなに理想的に育っているかをひけらかしたがる。

あたかも
子供の優秀さは自分の成果であるかのような
鼻息の荒さだ。


やっぱり
自分が心血を注いでいる事業(この場合子育て)が
第三者から見ても評価に値するということを
確かめたいからなのだろうか。
外に世界を持たずに
内にこもり子育てに集中している人ほど
この錯覚には陥りやすいもののようである。

考えてみれば
子供の頃からずっと学校や職場で
常に評価のものさしに晒され続けていたのに
結婚して家庭に入ったとたん
そのものさしは失われてしまうわけだ。
いくら料理や掃除、洗濯を完璧にやったとしても
それを評価してくれるのは世間ではなく夫や家族といういわば身内。
それじゃあいまひとつ張り合いがない。
ところが
子供を得ることで事情は変わる。
その子成長し何某かの評価されることにより
自分もまた世間の評価のステージに再び上れるのだ。
……復活の喜びが胸にこみ上げてくる

わからなくもない。


それでも
子供の自慢とは、
聞き手にとっては夕べの夢の話と同じくらいつまらないもの。

得々と自分の教育論を語るお母さんを見るにつけ
「人の振り見てわが振り直せ」
という言葉が心の中をよぎる。

だって
同じ競うなら
「子供」じゃなくて「自分自身の何か」で競いたいじゃないか?

……そうじゃないか?


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2009/06/11

言葉が文字となる前の記憶

とある外国の方と話したときのことです。

その方はかなり流暢に日本語を話していたのですが、
日本語の読み書きのほうはさっぱりだとか。

えっ?
こんなに喋れるのに書けないの?

と、
それを聞いた私は
随分不思議な気分になったものです。

だって
私たち日本人にとって外国語教育は
「喋ること・聞くこと」と同時に「書くこと・読むこと」を平行して進行していくのが
ごく当たり前のことになっているものだから。
そして
「喋ること・聞くこと」より「書くこと・読むこと」のほうが
能力として長けているのが一般的傾向です。
(あなたも
原語上映の映画に原語の字幕がつくと
その内容がずっとわかりやすくなり
うれしくなった経験がありませんか?)

外国語だけじゃありません。
母国語にしたって
識字率が100%に近いこの国にあっては、
喋っている言葉を文字に表せられないなんていう人は、
特殊な事情のある人を除けば3,4才の幼児ぐらいなものでしょう。


つまり
私たちにとって文字というものは
その言語の発音や意味と緊密に結びついているものなのです。
いや、
その言語と文字を切り離して考える人がいないこの国においては
最早、文字と言語はほとんど同じものといってもいいのかもしれません。


でも、
世界的レベルで考えてみると
それは必ずしも当たり前の考えではない―

完全に文字と切り離されて使用されている言語は
この世界に存在するし
文字というものを使うことなくその生涯を終えるひとも
決して少なくはないはずです。


そう考えると、
言語(言葉)と文字は必ずしも一緒のモノもではなかったのだな、と

文字とは
言葉を記録し保存するために
便宜上形作られた後付けのオプションだったのだな、と

そんな当たり前のことに
今更ながら気がついたというわけなのです。


だからって
字なんて知らなくてもどーってことないじゃん!!
って開き直るわけでもないのですよ。
ただ
文字を知らなかった頃のことを
試しに思い起こしてみようかと思っても
これが全くといっていいほど記憶にない……
3、4歳のころには
「字が読めたらなぁ」なんて思ったこともあったであろうに
そんな思い出の断片もない……


だからなんでしょうか。

自分の言葉を記す文字というものを読み書きすることなく
生涯を全うする人々の感覚っていうのはどんなものなのか、と
かなり興味がわいてきます。

もちろん
その人にとってはそれは当たり前の人生なのでしょうが、

記録に残らない自分の言動や感情、知識を
惜しんだり執着することもなく、
さらさらと
流れていくような日々なのかも、とも。


文字を知ることで
私たちは数々のものを得たけれども
ソレと同時に
また失うものもあったのかも……


なんて
そんなことを考える今日この頃です。

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2009/06/02

6月の花嫁ってどうなん?

6月に入った。
……
早速とある番組では「ジューンブライド」特集なるものがやっていた。


ケっ

数ある舶来洋モノ習慣の中でも
どーも、この「6月の花嫁」なるものは
うさんくさいっていうかなんつーか
根本的に日本人の肌には合わない気がする。
そもそも6月といえばこの国じゃ梅雨の時期でっせ。
(蒸し暑いそんな中義理で留袖なんぞを着なきゃならんお客様はまことにお可哀想である。)


それに
そのジューンブライドが幸せになれるっつー根拠、
ヘラとかジュノーとかいう女神さんが
どういうわけだかちっとも魅力的な女性には感じられないのである。

そら、結婚を司っている神々の女王なのはわかるが、
神話に出てくる彼女ときたら
ダンナの浮気にやきもきしている嫉妬深くて執念深く尚且つ高慢ちきな
なんというか
要は「可愛げのない女」としてばかり描かれているのだ。

あーあ
自分がお世辞にも幸せな結婚をしているわけじゃないのに、
自分の月に結婚する花嫁を祝福せにゃならんとは、
まったく
ヘラ様もお気の毒である。


結局
これもまあ
クリスマスとかバレンタインとかと同じ
商魂たくましい誰かの差し金による
消費意欲の向上を目指した煽りの一種なんだろう。

結婚はお金かかりますからねぇ。
(ダメダメに落ち込んだGDPの回復には結構役立てられるはずでしょう。)


そう思うと
煽られているひとがいるからこそ
景気も底を脱せるというものなのだから

あんまり
こういうつまらんことは
言わないほうがいいのかもしれませんけど・・・

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