「むかしは良かった」という錯覚
随分前に
どこかの地方の共同体の結束を特集した
番組をみたことがあった。
画面に映し出された村の人々は屈託なく
ある旧家の屋根の萱の葺き替えに勤しんでいた。
女性たちは炊き出しにおおわらわ。
その活気ある明るい風景に
「ここにはまだ、
多くの土地で失われつつある共同体が残っている」と、
そう、ナレーションは語る。
確かに
それは
ちょっと前までどこにでもある風景だった。
おじいちゃんがいておばあちゃんがいて
おとうちゃん、おかあちゃんがいる。
おとうちゃんの兄弟のおじちゃんおばちゃん、
そしてたくさんのぼくの兄弟たち。
そんな多くの家族がひしめき合って暮らす広い囲炉裏端。
近所の人は
おすそ分けのおかずや野菜を手に、
ノックもせずにガラリと戸を開け勝手に上がり、
ご飯を一緒に食べ酒を飲んで帰っていく。
どこからどこまでが家族で
どこからどこまでが親戚か
そんなことも曖昧だった時代。
今、そんな失われた風景を
多くの人は懐かしく美しく思い起こす。
それに比べて
小さく閉鎖的な今の家庭はなんと無味乾燥なものであるか!、と嘆くのだ。
だけど
私は知っている。
そんな共同体の中に生まれてからずっと首までどっぷりつかっていた義母が
そのわずらわしさに
毎日のようにため息をついていたことを……
だから
「むかしは良かった」
なんて無責任な綺麗ごとは間違っても言わないで。
この冷たい核家族中心の社会は
私たちの多くがその暖かい共同体生活を
プライバシーがなく自由のないものとみなし、
疎ましく思い退けた結果
創られたものなのだから……
失われたものを
美化し懐かしむのは有りがちなことだが、
それは
かつてあった現実の姿とは全く別物の絵空事、
にしかすぎないのだから……
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