食べ物にまつわる思い出
その文章は、ある詩人が書いたものだった。
ある秋の夕方焼き芋を買いに行くという
子供のころの思い出が綴られていた。
夕食前の間食なんて許されたことがなかったのに
その日はたまたま許されたこと
いざ買いに行こうとすると妹は怖気づいてコタツにもぐりこんでしまったこと
それでも
僕がひとりで買いに走ると妹は必死で後を追いかけてきたこと
買ってきた焼き芋をおばあちゃん、僕、妹で
異常なテンションの高さで笑いころげながら食べたこと
そんなことが綴られた文章。
多分誰もがもっているような思い出のひとコマだ。
そのありふれた思い出話が何故かこんなにも心を熱くする。
どうして
子供時代の食べ物の思い出話というものは
甘くほろ苦く物悲しいものなのだろう。
一つ残ったお菓子を分ける母の手を固唾を呑んで見守ったこととか
珍しく小遣いをもらって息せき切って駄菓子屋に走ったこととか
お弁当のおにぎりが少しつぶれてたり、おかずの汁が染み出して包みやノートを汚してしまったこととか
まだまだ貧しさを引きずっている
昭和の時代の話だからなのだろうか?
それならば飽食の時代といわれて久しい今の子供たちには
こうした食べ物にまつわる思い出は
なんの感慨もないものに変わってしまっているのだろうか?
決して
貧しさを美化するというわけではないのが、
だが、
この甘くほろ苦い思い出がなく大人になる子供たちには
一抹の同情心を感じずにはいられない……
そんな昭和生まれの私、だ。
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