女性作品の生々しさ
図書館に行きました、本当に久しぶりに。
実はお目当ての本があったのですが、それは全て貸し出し中。
仕方なく予約の手続きをして帰ろうとしたのですが、
そのまま帰るのもなんだかもったいなくて。
というわけで篠田節子の短編集を1冊借りたのですが
これがなかなか面白い。
この作家さんの作品は新聞に掲載されていた「薄暮」を読んだことぐらいしかないのですが、
読み始めるとあっという間に読んでしまい、
結局その後の1週間で
この作者のもの次々と4冊ほどの短編集を借りる羽目になりました。
この作家は容色の衰えた女の描き方が、非常に巧いのです。
その女たちの痛々しさが気に入って次々にページを繰る。
それでも、
さすがに3冊目以降になると食傷気味になりますね。
自分が女だからなのかもしれませんが、
女性作家の作品はどうも生々しすぎて
長く続けて読む事できないのです。
この篠田さんはあまりオンナオンナした作風ではないとは思うのですけれど。
でも
女性ならではの襞の細やかさってどうしても湿っぽさもともなってしまうから。
「次にこの人の物を読むのは、
こういう人間ドラマの短編集より社会派っぽい長編にしよう」
そう心に決めて4冊目を閉じたところで、
図書館からの予約図書入荷情報が。
というわけで
ようやく最初のお目当てだった「利休にたずねよ」を借りることが出来ました。
水曜日から読み始めていま1/3ほどのところ。
たとえば、百個ならんだ竹筒のなかから、あの男が花入を、ひとつ選び出す――。
その竹筒は、たしかにまちがいなく美しいのだ。
節の具合にしても、わずかの反り具合にしても、えもいわれぬ気品があって、
どうしてもその竹筒でなければならぬと思えてくる。
棗にしたってそうだ。同じ職人が作った黒塗りの棗を百個ならべておくと、
あの男は、かならず一番美しい一個をまちがえずに選び出す。
何度ならべ替えても、あやまたず同じ物を手にする。
――なぜだ
利休が極めようとした「美」
それを描く
このような緊張感あふれる文章が
湿った心を軽やかに乾かしてくれることと思います。
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