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2009/12/24

「金持ちの青年」の憂鬱

クリスマス・イブだからってわけではないのですが、
ちょっとそれめいた話題を…

「金持ちの青年の話」ってのが聖書にありますね。
「永遠の命を得るためにはどうしたらいいですか?」って
イエスに尋ねるまじめな青年のお話。

ほんと立派な人なんですよ、この青年。
よい息子、よい市民で、教養もあり律法も守り続けている
多分まさに非の打ち所のない人。
そんな彼にとっても
「全ての財産を捨てて私についてきなさい、
そうすれば永遠の命を得られるだろう」というイエスの教えは厳しかった。
彼は悲しそうな顔をしてその場を離れるしかなかったのです。


やっぱ、金持ちは軟弱だからなぁ、とか
口ばっかりで覚悟が足りないからだ、とか
言う人もいるかもしれませんけど、
私は
この青年は本当に永遠の命を欲していたんだと思いますよ。

でもそれは
今の自分のままで得られるはずの永遠の命、
―恵まれた環境に生れ落ち、
 その環境ゆえに寛大な心を持ち、
 今のままでも十分立派なのにさらに上を目指そうと
 自分を完璧に成長させるための―永遠の命、だった、
そしてそれに対し、
イエスが示したのは
そういう自分の誇らしくも煌びやかな半生を一度断ち切って生まれ変わらないと
「永遠の命」は得られないという答えだったのです。


……


この話をきいたのは
10年以上前の礼拝での説教で、のこと。

そのとき
ものすごい衝撃を受けたことを覚えています。

だって、
私もこの「金持ちの青年」と全く同じなのだから…
私にとってキリスト教とは
私は自分が「より正しい生きる存在」としての自分を完成させる
パズルのピースの1つにしか過ぎないのですから。

洗礼を受け、
どんなに
日曜日の礼拝に参加し
献金をし、
聖餐にあずかって
世間でいう「クリスチャン」のカテゴリーに組み込まれている存在であっても
私は
本当の意味でのキリスト教徒ではないんだと思います。


それでも
私は恥ずかしながらも、「キリスト教徒」の皮を被って生きるのも
このクリスマスで20年目……
そうやって生きているうちに
なんとかなるものならいいのでしょうが、
それは多分どうにもならないんでしょうね。


「なぜ自分は、胸を張りキリスト教徒であると言い切ることができないのか」

それに
はじめて明確な答えを示してくれた忘れがたい挿話、
「金持ちの青年の話」。

聖書の中で、
私がもっとも好きな箇所です。

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2009/12/22

よい育て方、わるい育て方

青少年が犯罪を起こすと、
その犯人の育った家庭というものは、クローズアップされるものです。

それは
多少マスコミに脚色されたりしているのでしょうが、
過干渉であったり
その反対にネグレクトに近い放任主義であったり
まあ、
いわゆる普通の家庭ではなかったかのように報道される…


でも
本当のところどうなんでしょう。

とても社会的にも人格的にも立派な親が心をこめて育てたとしても
その子が社会的にも人格的にも立派な人間になれる可能性なんて
なんだかほんの少しもないのではないか…
どんな育て方をされても
結局はその子はその子のもって生まれた性向にしたがって
その人生を生きていくより他にないのではないか…

そんな気がしてならないのです。


「砂漠の船」
この作品では主人公は自分の娘をきちんと育てることに
世間一般の父親よりずっと心を砕いている。
しかし、
自分の栄達よりも家族の幸せを優先させる父親を「情けないもの」と感じる娘にとっては
父親の説く「家族の幸せ」は押し付けられた息苦しいものにしか感じられない。

もちろん、
この父親が「ひとりよがり」なため娘の心は離れたわけなのです。
それでも、私たちはこの父親を馬鹿なヤツと嘲笑することができるでしょうか?
己を振り返ってみて
自分が「ひとりよがり」ではないといいきれる親が
今この国には何人いることでしょうか?


結局
親ってもんは
子供が道を外れる瞬間に
「こんなことしたら親がどんなに悲しむか」って思ってもらえること以外に
何の力も持てないものなのです。
しかし、
一見何の問題もなくごく普通に暮らしている家族にとっても
そう思ってもらえることは
最早とても難しい……


そういう時代なのですかね、現代は。

経済的や環境悪化云々が理由なのではなく、
ただ漠然と子供を持つのを躊躇する…
そういう人が増えてくるのは
仕方のないことなのかもしれません。

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2009/12/17

ネタ探し、きりきり舞い

世のブログの2大ネタというと
やはりこの2つにつきる。

その一、旅行記、もといお出掛け日記
(グルメ情報、料理写真満載のもの含む)

その二、本、映画、舞台のレビュー
(その作品から派生する思想や社会問題提起も含む)

もちろん、
日々の生活のちょっとした出来事や趣味の作品の発表っていうのも、
決して少なくはないのだろうが、
どうしても何年も続けていると
そういうのはネタ切れしてきちゃうもんだ。

そうそう面白い出来事が世の中でころがっているわけじゃないし、
作品発表だってほどほどのところ飽きてくる……
自分の生活信条や「こんな世の中おかしいよ!」っていう主張も
そうそう変わるわけじゃないから
「生き方」云々なんてネタも
書物や映画などの何のインプットもなく生み出されたものでは
いつかどこかで書いていたことの繰り返しに過ぎなくなる……

となると、
数年にわたりブログを続けるのには
コンスタントにお出掛けをし、
コンスタントに書物・映画・舞台にふれていることが必要になってくるのは
ある意味仕方のないことなのかもしれない。

そうして
ブログネタさがしのための旅や読書が、始まるのだ。


この世の中には
そうやってきりきり舞いしているブロがーさんが
みんなが思っている以上に多いんだと思います。

そういや、
ここもレビューネタ、増えたかもネ。

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2009/12/15

「子羊」の幸せ、「ひと」の幸せ

実は
ちょっと前に読んだ篠田節子氏の短編小説「子羊」が頭から離れないのです。
(以下ネタバレもいいところですのでお気をつけください)

近未来の貧富の差が著しく広がった世界の物語。
外の貧しい世界とは隔絶されたある施設で
「神の子」と呼ばれ大切に育てられている少女たちのひとりが主人公なのですが、
その生活はストレスや悩み苦しみは一切排除されたとても心地よい生活でした。
唯一の苦しみは時折スクリーンに映し出される外の世界の悲惨さへの同情くらい。
しかし、それすら自分たちの生活とは全く無関係のものと割り切って
多くのシスターにかしずかれて暮らしています。
何故、彼女たちはそんなにも大切に育てられているのか…
それは彼女たちが結局のところ「人間」ではないから
彼女たちは自分たちを所有する資産家に提供をする「臓器」を培養する容器にしか過ぎない存在であることが徐々に分かっていく……

というのが大まかな筋なのですが、
SFとしてはそれほど目新しいものでもないのかもしれません。
「読み始めた途端先がわかっちゃった」なんていう感想も
どこかのレビューで見かけましたし……
それでも、
私が興味をもったのはそのストーリーというより
その「神の子」たちの育てられ方、
その中に人間と人間の形をした別のものを分ける何か
―それは人間の本質というものなのかもしれませんが―
それを見たような気がしたからなのです。

彼女たちの生活は至極シンプルです。
一切のものごとに対し努力や鍛錬というものを必要としない生活をしている、
例えば、勉強はする必要はなく、
音楽を奏でようとすれば、楽器のほうが自動的にすばらしい音色を出すように仕組まれている―といったふうに。
これは一体どういうことなのでしょうか?

神の子たちが余計なストレスを感じることで生じる
肉体(すなわち提供される臓器)へのダメージを恐れてのことなのかもしれません。
でも、
それ以上に
この「神の子」を「人間」として成長させたくない
あくまで「臓器の入れ物」といういわば「家畜」として育てたい
という施設運営側の意図のほうが強いような気が私にはしてしまいます。

人間とは、努力し達成感を味わいつつ幸福感を味わい生きていくものだから…

だから、
「この子たちは人間ではないんだから
努力すること得られる達成感や
悲しんだり喜んだりする心の成長などさせる必要ないんだ」
「そう、この子たちは人間ではなくだたの臓器の容器にしか過ぎないのだから
 そこから臓器をとりだすのに何の問題もないのだ」
こういう
「自分の行為」の正当化や言い訳を感じるのですよね。


物語の終盤、
もうすぐ儀式(実は臓器を摘出される手術)を控えた主人公は、
慣例の最後の娯楽として
以前心打たれた笛を吹く詩人を呼んでもらいます。
詩人の演奏に感動しこっそりのその笛を吹かしてもらった彼女は
自分が詩人のように巧く吹くことはおろか
実はまともな音すら出せないことに驚き愕然とする、
その彼女の様子に
詩人はただの「臓器の容器」としてではない音楽を愛する「普通の人間」の顔を見出し、
真実を告げ自分と一緒に逃げ出すよう薦めます。
しかしその真実に驚きながらの彼女はそこから逃げ出すことを躊躇する。
逃げたところで貧しく不潔で悲惨な外の世界で生きることが
果たして自分にはできるのか?と。

そういいながらも
彼女は儀式の直前に意を翻してたったひとりで逃亡することを選ぶのです。
彼女を決心させたのは、
このままでは身体を切り刻まれて臓器を取り出されてしまうという恐怖ではなく
もう一度努力してあの笛を吹きたい
という音楽への熱望だった……


振り返って
私たち自身はどうなのでしょうか?
苦しくても何事かを達成しようと努力する道を選ぶことができるのでしょうか?

昨今の安易に喜びを手に入れようとする風潮を目の当たりにするに

心地よい生活にどっぷりつかって
臓器の容器のように生きる道を選ぶひとも
決して皆無ではないような気が…

そんな気が、
私にはしてならないのですが……

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2009/12/11

突っこみたいから、つい……

……
世の中には、あるんですよね。
突っ込みたいから、つい観ちゃう番組って。

ネット上にレビュー板が現れてから、
ますますその傾向が顕著になったっていうか……

某公共放送の看板番組は
「スイーツ大河」とか陰口をいわれてから久しいですが
先月最終回を迎えたものもあちこちから非難轟々のわりには、
視聴率は結構よかったみたいですし。


まあ、
これはテレビや映画だけではなく連載小説なんかにもいえるのでしょうけど、
「その展開にイライラさせられながら」も
「つい惹きよせられちゃう」っていう
矛盾した視聴者や読者っていうのも少なからずいるもんなのでしょうね。

そして、
以前「不倫純愛至上主義?」という記事にもかいたことですが、
そういうひとたちも
実は売る側にしてみると立派な購買層なわけで、
むしろ数が限られる「善良なファン」よりも
そういう大多数の「意地悪なアンチ」をターゲットにするほうが
商売としては手堅いものなのかもしれません。
良質な作品より
陳腐なもののほうが手っ取り早く量産できますから。

つまり、
「心を震わせる感動」や
「やられたという驚嘆」も売り物なら、
「誰かとの『イライラするね!』との共感の対象を提供すること」も売り物。

もちろん、
後者の場合あまり度重なると
本当に愛想尽かしされてしまうことになるので
あまり安易な商売にばかり走るのはお勧めできないのでしょうが……

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2009/12/08

熱狂的ファンの虚実

先日、
勝間和代さんをテレビで初めて拝見いたしました。
勝間ブームが始まってから久しい昨今、
まさに今更ながら、という感じでお恥ずかしいのですが……

実は私は
それまで勝間さんという方を具体的にはほとんど知らず、
香山リカ氏の著書についていたセンセーショナルは帯のご当人か、
という認識しかもっていなかったのです。
なんていうか、すごいエネルギッシュな人なんですね。

で、そのインタビューの中でも触れられていたのですが
まあこういうカリスマ的な人物がマスコミに登場すると
当然のようにそれに付随して現れる人々がいます。
それは
勝間さんの場合はカツマーと呼ばれるいわゆる熱狂的ファンの人々。
勝間さんの本を読み、そのバイタリティに憧れ、著作を読み、彼女に倣いスキルアップに努力を重ねている人たち、のことです。


…うーん

どうしていつもこうなんでしょう。
別に勝間さんに憧れてそのマネをして努力するのって
そんなに悪いことなわけじゃないのに、
なんていうのかな
「カツマー」なんて言われてマスコミに取り上げられている人たちって
体よく
一般人の揶揄の対象にされているだけのような気がしてならないんですよね。

例えば

勝間さんが午前中はジムで汗流すって聞いたら
自分も仕事前にジムへいってしまい
その後へとへとになって仕事どころではなかった、

とかいう「あらら」な感じ…
多分
本当の意味のカツマーさんの多くは
ちゃんと自分を知りつつ勝間氏の著書から得るべきものを得、
捨てるべきものを捨てているはずなのに……


料理研究家の栗原はるみさんの「おっかけ」ファンの行動をレポートしたものを
偶然目にしたことがありましたけれど、
正直「いい大人が一体何やってんだよ!」って感じでした。
その、あまりの馬鹿さ加減に「ヤラセ?」って思っちゃうほどに、です。


でも、
冷静に考えてみると
それは本当のところ「ヤラセ」ってもんだったのかもしれない。

マスコミって結局は
「ブーム渦中にいる人」ではなく
「大衆=それを脇で見ている一般傍観者たち」を対象にしているものだから…

そしてその傍観者って
「やだ、バッカじゃない?」と冷笑したくてうずうずしている人たちなのですから、
それの満足を叶えてやることに何の躊躇があるものでしょうか。


というわけで、
今後は
そのような常軌を逸したファンのメディア露出には
決して嘲笑したりイラついたりしないように……

私はこの手の話に単純に載せられてしまう私は、
そう、
自分自身の心に深く戒めることにしたのでした。


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2009/12/03

矛盾する2つの幸せ

随分前のことだが、
「あなたはどのようなときに自分の生き方に満足感を感じますか?」
というアンケート結果についての分析を読んだことがあった。

それによると、
「他の人の役に立っている」という実感のある人ほど
自分の生き方に満足し自分を幸福だと感じる割合が大きい、
という結果が出たらしい。
つまり
自分だけの幸福や満足を追求する生き方より
他人の幸福の手助けとなる人生を送るほうが
より自分への充実感が高い、ということのようだ。


これを知った私はこう思った。

ああ、そうか、
人間というものは、
自分ひとりでは幸せになりきれないのだ。
私たち人間とは
自分が幸せであれば
他の人も幸せになればいいのにと思い
その手助けをすることに
より深い喜びを感じることができるものなのだ……と。
そして同時に
人間もそれほど捨てたもんじゃないのだな……と
心の底で小さく安心したものだった。


だが、
本当にその通りなのか?

だって
私たちはその反面、自分たちには別の黒い部分があることも知っている。
それは
「みんなが一緒に幸せになるとちょっと面白く感じないところ」。
例えば
みんながそろって1位になるのでは1位というものに価値がなくなってしまう。
ほんのちょっとでもいい
他の人よりこの自分こそが抜きん出ているからこそ
幸福感や満足感も得られるものなのだ、と。


他人を幸せにすることで感じる幸福感。
そして
他人よりも幸せでないと感じられない幸福感。


こんな2つの幸福感は
常に私たちの心の中でせめぎあっている。

一体
どちらの幸福感こそが人間の本性に近いものなのだろう。


ひょっとしたら
他人を幸せにすることにより得られる幸福感は
社会における自分の有能性を認識し確信したいという
欲望ののあらわれにしか過ぎないのでは?
そうだとしたらこの2つの幸福感に矛盾は生じない。
結局、
人間とは突き詰めてみれば、
「自分ひとりだけが可愛い利己主義者」以外の何者でもない
というだけの話である。


……


いやいや、
他人に役に立つことで感じる「喜び」とは
そんなうすっぺらい欲望から生まれるものではないはず。

私たちは確かに
誰かの役に立ち、
その誰かから感謝されることに純粋な無上の喜びを感じられる生き物であるのだ。


人間とは本当に不思議なもの

他人より幸せにはなりたいのだけれど
一人きりでは幸せになりきれない

こうした矛盾を抱えて生きるべく、運命付けられた者なのかもしれない……

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