「金持ちの青年」の憂鬱
クリスマス・イブだからってわけではないのですが、
ちょっとそれめいた話題を…
「金持ちの青年の話」ってのが聖書にありますね。
「永遠の命を得るためにはどうしたらいいですか?」って
イエスに尋ねるまじめな青年のお話。
ほんと立派な人なんですよ、この青年。
よい息子、よい市民で、教養もあり律法も守り続けている
多分まさに非の打ち所のない人。
そんな彼にとっても
「全ての財産を捨てて私についてきなさい、
そうすれば永遠の命を得られるだろう」というイエスの教えは厳しかった。
彼は悲しそうな顔をしてその場を離れるしかなかったのです。
やっぱ、金持ちは軟弱だからなぁ、とか
口ばっかりで覚悟が足りないからだ、とか
言う人もいるかもしれませんけど、
私は
この青年は本当に永遠の命を欲していたんだと思いますよ。
でもそれは
今の自分のままで得られるはずの永遠の命、
―恵まれた環境に生れ落ち、
その環境ゆえに寛大な心を持ち、
今のままでも十分立派なのにさらに上を目指そうと
自分を完璧に成長させるための―永遠の命、だった、
そしてそれに対し、
イエスが示したのは
そういう自分の誇らしくも煌びやかな半生を一度断ち切って生まれ変わらないと
「永遠の命」は得られないという答えだったのです。
……
この話をきいたのは
10年以上前の礼拝での説教で、のこと。
そのとき
ものすごい衝撃を受けたことを覚えています。
だって、
私もこの「金持ちの青年」と全く同じなのだから…
私にとってキリスト教とは
私は自分が「より正しい生きる存在」としての自分を完成させる
パズルのピースの1つにしか過ぎないのですから。
洗礼を受け、
どんなに
日曜日の礼拝に参加し
献金をし、
聖餐にあずかって
世間でいう「クリスチャン」のカテゴリーに組み込まれている存在であっても
私は
本当の意味でのキリスト教徒ではないんだと思います。
それでも
私は恥ずかしながらも、「キリスト教徒」の皮を被って生きるのも
このクリスマスで20年目……
そうやって生きているうちに
なんとかなるものならいいのでしょうが、
それは多分どうにもならないんでしょうね。
「なぜ自分は、胸を張りキリスト教徒であると言い切ることができないのか」
それに
はじめて明確な答えを示してくれた忘れがたい挿話、
「金持ちの青年の話」。
聖書の中で、
私がもっとも好きな箇所です。
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