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2009/12/15

「子羊」の幸せ、「ひと」の幸せ

実は
ちょっと前に読んだ篠田節子氏の短編小説「子羊」が頭から離れないのです。
(以下ネタバレもいいところですのでお気をつけください)

近未来の貧富の差が著しく広がった世界の物語。
外の貧しい世界とは隔絶されたある施設で
「神の子」と呼ばれ大切に育てられている少女たちのひとりが主人公なのですが、
その生活はストレスや悩み苦しみは一切排除されたとても心地よい生活でした。
唯一の苦しみは時折スクリーンに映し出される外の世界の悲惨さへの同情くらい。
しかし、それすら自分たちの生活とは全く無関係のものと割り切って
多くのシスターにかしずかれて暮らしています。
何故、彼女たちはそんなにも大切に育てられているのか…
それは彼女たちが結局のところ「人間」ではないから
彼女たちは自分たちを所有する資産家に提供をする「臓器」を培養する容器にしか過ぎない存在であることが徐々に分かっていく……

というのが大まかな筋なのですが、
SFとしてはそれほど目新しいものでもないのかもしれません。
「読み始めた途端先がわかっちゃった」なんていう感想も
どこかのレビューで見かけましたし……
それでも、
私が興味をもったのはそのストーリーというより
その「神の子」たちの育てられ方、
その中に人間と人間の形をした別のものを分ける何か
―それは人間の本質というものなのかもしれませんが―
それを見たような気がしたからなのです。

彼女たちの生活は至極シンプルです。
一切のものごとに対し努力や鍛錬というものを必要としない生活をしている、
例えば、勉強はする必要はなく、
音楽を奏でようとすれば、楽器のほうが自動的にすばらしい音色を出すように仕組まれている―といったふうに。
これは一体どういうことなのでしょうか?

神の子たちが余計なストレスを感じることで生じる
肉体(すなわち提供される臓器)へのダメージを恐れてのことなのかもしれません。
でも、
それ以上に
この「神の子」を「人間」として成長させたくない
あくまで「臓器の入れ物」といういわば「家畜」として育てたい
という施設運営側の意図のほうが強いような気が私にはしてしまいます。

人間とは、努力し達成感を味わいつつ幸福感を味わい生きていくものだから…

だから、
「この子たちは人間ではないんだから
努力すること得られる達成感や
悲しんだり喜んだりする心の成長などさせる必要ないんだ」
「そう、この子たちは人間ではなくだたの臓器の容器にしか過ぎないのだから
 そこから臓器をとりだすのに何の問題もないのだ」
こういう
「自分の行為」の正当化や言い訳を感じるのですよね。


物語の終盤、
もうすぐ儀式(実は臓器を摘出される手術)を控えた主人公は、
慣例の最後の娯楽として
以前心打たれた笛を吹く詩人を呼んでもらいます。
詩人の演奏に感動しこっそりのその笛を吹かしてもらった彼女は
自分が詩人のように巧く吹くことはおろか
実はまともな音すら出せないことに驚き愕然とする、
その彼女の様子に
詩人はただの「臓器の容器」としてではない音楽を愛する「普通の人間」の顔を見出し、
真実を告げ自分と一緒に逃げ出すよう薦めます。
しかしその真実に驚きながらの彼女はそこから逃げ出すことを躊躇する。
逃げたところで貧しく不潔で悲惨な外の世界で生きることが
果たして自分にはできるのか?と。

そういいながらも
彼女は儀式の直前に意を翻してたったひとりで逃亡することを選ぶのです。
彼女を決心させたのは、
このままでは身体を切り刻まれて臓器を取り出されてしまうという恐怖ではなく
もう一度努力してあの笛を吹きたい
という音楽への熱望だった……


振り返って
私たち自身はどうなのでしょうか?
苦しくても何事かを達成しようと努力する道を選ぶことができるのでしょうか?

昨今の安易に喜びを手に入れようとする風潮を目の当たりにするに

心地よい生活にどっぷりつかって
臓器の容器のように生きる道を選ぶひとも
決して皆無ではないような気が…

そんな気が、
私にはしてならないのですが……

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