« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »

2010/03/29

「女流」について考える

「女のブログって碌なもんがない」
「面白いサイト管理者って大体性別不詳だったりする」

なんて言葉を目にしました。

なぁるほど。

確かに「女」を前面に押し出すような作品は私もあまり好きではありません。
どうもそういうのには
「女」であることの甘えが出ていたり、
媚を売るような様子が鼻についたり、ね……
逆に言えば「男」についてもこれは言えることなんですけどね。
でも「男」であることを過剰に力説するような人物って、
「女」に比べるとやっぱり少ない……


そこで今回のテーマ「女流」なんですが、
先ほどの私のように考える人っているのは意外と多いからなのでしょうか、
この「女流」という言葉に微かな「侮蔑」を感じる、
そういう人々がいるらしいのを最近知りました。

それを知った最初の感想は
(……へぇ、そうなんだ)
そんな感じ。
子供の頃から女流っていう言葉には
男世界で頑張っている女性みたいなイメージを私はもってきていたので
むしろ憧れこそすれ、侮蔑なんて思ってもいませんでしたね。

女流作家、女流棋士、女流講談師、女流書道家……
この世には女流という流派が数限りなくあります。

男性の作家、棋士、講談師、書道家よりも女流の人たちは劣っているのでしょうか?
自らが「女であること」この世界では稀な存在であることをアピールゆえの
「女流」もありますし、
明らかに柔道などの階級として存在している「女流」もありますので、
一概には言えないのですが、
「女流」って言う言葉は「woman」の「wo」部分になんだか似ている気がします。
男性を意味すると同時に人間全般を意味する「man」にとって、
「woman」は人間でありながらまさに「男とは別の特殊な人間」なのでしょう。
作家でありながら「男とは別の特殊な作家」、
棋士でありながら「男ではない特別な棋士」
講談師でありながら「男とは違う風変わりな講談師」
書道家でありながら「男にはない独特な書道家」。

以前に書いたことがありますが、
女という生き物は「ひと」である前に「女」であることが多い。
良くも悪くもそういうところがあります。
多分その性格は男より色濃いことが多い……
「男と真正面から互角に対峙している、
だから男とか女とか関係なく私の仕事を見てくれ!」
そう思う女性にとってはそういう「女」のサガみたいなのが
とてつもなく嫌なのでしょう。
だから彼女たちは「女流」という符合を嫌う。
そして
「女流」を武器に戦う同性に舌打ちし侮蔑の眼差しを向けるのでしょう。


本当のところはどうなんでしょうね。

「女流」なんて言葉がついているうちは一流じゃない。
それも一理あるような気もします。
でも男性には決して入ることが出来ない「女流」という分野を
肯定的にとらえてそれで勝負するのだって
決して悪くはない。

結局はその人の選んだ道としかいいようがありませんよね。


などと綺麗ごとをいいながら、
私自身を振り返ってみると、
女性ブロガーとか、主婦ブロガーなどと言われることに
とてつもない嫌悪感をもってしまう
自分を感じた次第。


いやはや、理性でわかっていても感情ではだめなんて
やっぱり私も
当たり前の「女」であるに相違ありません。

|

2010/03/23

延命技術がもたらすもの

一昨日の日曜の夜のこと、
「命をめぐる対話―暗闇の世界で生きられますか?」という番組を観ました。

そこに描かれていたのは
延命技術の進歩とそれに伴い発生する尊厳死の問題。

「自分の意思を伝えられないことは精神の死を意味する」として
完全な閉じ込め状態(=TLS)になったら尊厳死を選ばせて欲しいという考え。

技術を利用して生き続けることに対し罪悪感を感じる社会になってはならないとし、
延命措置を受けながらも天寿を全うしようとする考え。

どんな状態になろうとも家族にとっては生きていてくれることだけで支えになるのだから
生きていて欲しいという考え。

どれが正しい間違っているという問題ではない、
正しい正しくないというより、
己の信念の通りに選ぶしかない問題なのだと思います。


印象的だったのは
「尊厳死を選びたい」としている患者の方の奥様の言葉、
入浴中に急速に血圧が低下したとき必死で医師を呼んで欲しいと意思表示をした夫の姿に、
彼の「生きたい」という心の叫びを、生への執着を感じたという言葉です。

確かに、
この先彼がTLSになり、
その要望どおりに人工呼吸器がはずされるときが来たとして
そのときも彼は「生きたい」と思うのかもしれない。
暗闇の世界を何年も生きる恐怖から
理性では「尊厳ある死」を望んだとしても、
実際に迫りくる死を前にすれば、
生き物として「生きたい」「死にたくない」と思うのは
当然のことです。


そのことを知りつつ
延命装置をはずす
それは人間として家族として
想像を絶する苦渋の選択であるはず。


……

科学や医療技術の進歩は
ものすごく私たちの生活を豊かにしたけれど、
その反面途方もない苦悩も私たちに与えてしまった……


そう思わずにはいられない

一昨日の夜のことでした。

|

2010/03/16

アカデミー賞にみる友好度?

たとえば
トヨタのプリウスの欠陥問題とか。
それから
普天間飛行場の移転先問題とか。

どうもねぇ……
最近どうもあんま上手くいってないって感じなんだよね、日米間。

ってトコに先週のアカデミー賞ときた。
長編ドキュメンタリー賞は日本のイルカ漁を扱ったモノ。
あーあ、やっぱりって感じだ。


「今年だったら絶対獲れなかったよな。」
と、ニュースを見ながら夫がぽつりと言う。

ああ、「おくりびと」か、そうだよね。
外国語映画賞ってのは、友好国の間に順番で与えているっていう印象もあるし。

アカデミーのお偉いさん曰く
「そろそろ日本作品にも獲らせてやってもいいじゃないか?
そういや、なんかあったじゃないか、
葬式かなんかのオリエンタルでエキゾチックなヤツが。
アレにしといたら?」
って感じ?
確かに今年だったら絶対無理って雰囲気だった。


夫「なんだか、そう思うとなんとなく癪だよな。」

……ん?
何が癪なの?それってアメリカに対してってこと?

夫「……今年だったらよかったのにってさ。」

??
それって?
あの映画の受賞が癪ってこと?

私「もっくんが癪に障るの?」
夫「いや、もっくんはいいんだけど、さ……」

と言葉を濁す彼の気まずそうな顔に
私は全てを察知した。
そして、
去年レッドカーペットをはにかみながらも誇らしげに歩いていた
国際派女優のしなやかな美しさを
思い起こす。


日米関係の先行きではない。
動物保護と独自の食文化の問題でもなかった。

彼の頭の中にあったのは、
その後
どういうわけだが助演女優賞を獲ったわけでもないのに
アカデミー女優の肩書きがついてしまった彼女の得意満面の笑顔―

それゆえの舌打ちだったのだ。


……そこかよ!

|

2010/03/10

小説家の書くエッセイ

最近ハマッてた小説家のエッセイ集を読んだ。

アマゾンでのレビューもまあまあの評判だったし
第一こんな面白い小説がかけるのだもの!
エッセイだって面白いはずだ!

なぁーんて思っていたところ
なんだろ、悪くはないんだがなんだかイマイチなのだ。
ちょっと説教くさいっていうか……
わざとワルぶっているっていうか……


読み進めていくと最後のほうにあとがきがあり、
そこで著者はその点を素直に認めていた。
曰く、エッセイを書くのは苦手だ、好きじゃない、と。
本当にその通りだ。
このひとは小説でこそ輝くひとだったのだな、と思う。


そう考えると
エッセイってなんだか不思議な存在だ。
書くにしろ読むにしろ、一見小説よりもずっと敷居は低い気もする。
それでいて秀逸のエッセイに出会うのって
ものすごい稀なことであるのも事実だ。

よく文学賞を受賞した作家が
その○○賞作家の肩書きを振りかざしながら
「どこかで誰かも言ってたな」みたいなエッセイを書いてる。
内容はともかくその文章力なんかでなんとなく読ませちゃうという、
明日になれば綺麗に忘れ去られるようなシロモノだ。
でもそのなんとなくサラリと読ませられちゃった「どこかで誰かも言ってたな」的エッセイも、今回のこの「魚の小骨を飲み込んだような違和感」を感じされられたエッセイ集より優れていたのかもしれない。
(少なくとも私には合っていたっていうことなのだろう)


エッセイの良し悪しっていうのは文章力や着眼点だけじゃないんだな

と、今更ながら気付く。

もちろん思索の深さや論理の明確さっていうのもあまり当てにならない。
それらは必要不可欠な要素ではあるけれど、
それが満たされるだけで、そのエッセイがいいエッセイになるわけでなないのだ。

いうなれば
フィーリング?感性?


なるほど、
こんな怪しげなものを
しっかりした骨子で書き上げる件の小説家が追求する訳ない。

このひとが書くのは小説こそがふさわしい。

そう悟った私は
「今後この作家の書いたエッセイには一切興味はもたないようにしよう」
と、
心に決めたのだった。


|

2010/03/04

おひなさま

今朝、片付けました。

折りしも今日は午後から雨、というのでね。
少しでも空気が乾いているうちに、と。
出勤前のやっつけ仕事ですから
かなり大雑把な作業になってしまいましたが……

そもそも女の子が皆嫁に行くかどうかも不確かな昨今
「いつまでも飾っていると行き遅れる」、とか何とか
そんなの迷信にきまっているんですけど、
どうにも座りが悪い気もして。


この1ヶ月ほど
雛人形たちは
飾られたその日こそ家族の注目を集めましたが、
今年は雪洞に灯りを入れられることもほとんどなく
地味に居間のサイドボードの上に鎮座していました。

持ち主である娘にも
さほどの興味を示されず
約1ヶ月の展示期間を経て
あわててまたダンボールに仕舞いこまれる2体の雛人形たち。

思春期の子供などそんなもんなのでしょう。
逆に中学生にもなって
ひな祭りのオルゴールを手に取って何度もかけていたら
それはそれで考えモノな気もしますしね。


ただ……

さほどの感動もなく
日々と季節が移り変わる―

マンネリズムと倦怠感。

この家で、
それをかみ締めるているのは
それを一人で飾って一人で片付けた

「お母さん」だけ、なのかもしれません。

|

« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »