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2010/05/28

「効率」を求めてはいけないところ

……先週の平日の午後のことです。

子供の学校行事のお手伝いすることになったので
仕事を抜けてその打合せに行って来ました。


1時間かそこらですむかと思ったので、
仕事には戻れるものとふんでたのですが
いやー甘かった。
延々と続くのですよ、その打合せ。

それでいて
議題に上っている主なテーマといったら、
当日の集合場所とか
何時に集まればいいか、とか。
(もちろんそれ以外のテーマも出ないわけでないのですが
 そのテーマもあっちこっちと飛んで定まらない……)

はぁー、集合時間とか場所ってさ……

そういうのは
10数人のメンバー全員が
顔を合わせて打ち合わせることでもないと思われるのですが、
どうなんでしょう?
そういう事務的なことは
責任者が学校側からの情報を元に合理的に決めたうえで通達してくれれば
結構なことなのでは?
(その決定事項に障りがある方は
後で個々に責任者と相談するということで)
それよりも今打ち合わせるべきは
当日の仕事における担当の割り振りとか、
割り振りったあとは
その担当グループ毎のさらに詳細な打合せなのではないんですか?


と、
私は仕事に戻りたいばかりに
身勝手にもイライラばかりを募らせていたのですが、
打合せの進行は結局そのペースのまま。
当日は「なんとなく各自やってください」ってことで
それ以上は何も決まらないまま終わったのでした。


はぁー
それで、いいのかね?

と虚脱感と共に学校を後にした私だったのですが、
しみじみ考えてみるに
どうも私は勘違いをしていたようです。
それは
この「仕事」に効率を求める、という勘違い……

結局こういうPTAの仕事っていうのは
合理的に効率のよくやるのが目的なのではなく、
より多くの保護者同士の「顔つなぎ」がメインなのですね……

だから
こんなふうにダラダラ続く打合せも
それはそれでいいんでしょう。
そもそも保護者のお手伝いなんぞに効率の良さなんて
誰も求めていないのですから。
要は
こなした仕事の量や成果ではなく、
それにかけた時間=保護者同士の親睦の度合いが大事。

これこそが
PTA活動の真髄なのですから。


というわけで、

次回からこういう打合せに参加する場合は、
「ささっと済ませたい」なんて不心得な希望は捨てて
少なくとも半日は費やす覚悟で参加しよう

そう、心に決めた私でした。

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2010/05/20

「命の大切さ」に潜む欺瞞

テレビを見ていたら、
「命というものはそんな軽いもんなのかー!」っと
二枚目さんがドラマで嘆いている……

ソレを観ていて、
ふぅー、なんだかなぁ
とため息が出て仕方なかったのは私だけだったのでしょうか?


……


もちろん、命は最も大切なものなのです。
間違いない。
但し、それはあくまで
「自分の命」あるいは「愛するものたちの命」に限ってのこと。
それ以外のかかわりのない人の命については
正直なところそれは「建前」でしかありません。

このドラマが、
いや、最近のこの手のドラマが鼻についてしまうのは
「その『建前』があまりに前面に出すぎる」からなのでしょう。
実際
生き死にが隣り合わせのようなそんな動乱の時代に
「仲良く」とか「理解しあって」なんて
現代的な価値観が大手を振っているのは
ものすごい違和感を与えるのです。


などと
モヤモヤしていた私の頭に、「ブタのいた教室」という映画の
以前目にしたあるレビューが浮かんできました。

<以下部分的に抜粋>
…そもそも「命の大切さ」なんて人間の作った幻想であり偽善であり傲慢でしかない…(中略)
「人間だけに生きる権利がある」というのは傲慢な話で、
「全ての動物には自分や仲間に危害を加える他生物を殺す権利がある」
というのが私なりの正解です。
だから「他生物を殺す」という業は実は物凄い返り討ちのリスクやストレスや恐怖を感じることで、そこを清潔で安全な教室で「かわいい」「かわいそう」というコンセプトで「生殺与奪」を議論させることが「命の大切さ」を教育する事だと本気で考えている事に、私は逆に物凄い肌寒さを覚えます。…


文中の「他生物」を「他者」と置き換えてみれば
この言葉は
一映画のレビューを超えて
そのまんま
昨今のメディアにおけるヒューマニズムや博愛観、
そして「命の大切さ」という価値感への痛烈な批判になる、と
私には思えてならない……


……


これを書かれた「はち-ご=」さんに

「ただただ感服」

するのみです。

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2010/05/13

「ずっと好きだった」という言葉

最近よく聞くようになったこの言葉。
流行っている歌のせいなのだろう。
ラジオからもよく流れてくる。


昔、
恋愛心理の描写に定評のあったある女性漫画家は、
こんなことをいっていた。
「『ずっと好きだった』という言葉は
恋愛モノの始まりとして本当に使いやすい言葉なんです。」と

「ずっと…」という純粋さ、
そして
「好きだった」という過去形を使うことによるあいまいさ。

「なぜ今になってそういうことを言い出すの?」
「今までそう言ってくれなかったのはなぜなの?」
そして究極の
「それで、今はどうなの?今も好きでいてくれるの?」という疑問、
それらが相手の中に次々とわいてきてその心を容赦なく揺り動かす。
そのあいまいさが
ストーリーのドラマ性を掻き立てるのだ。


確かに。
これほど、誠実さと狡猾さが絶妙のバランスで含まれている言葉も
ないのなのかもしれない。

好きだと言い切る率直さはない。
相手が拒絶の表情をちらりとでも覗かせたら、
「もうあきらめた今だから言えるんだけど」という逃げ道も残してある。
でも、
この言葉に少しでも心が揺れてくれるのなら、そのときは……


……


ああ、いやだなぁ。ちょとずるい感じだし…

でも現実的に考えてみると
映画や小説の中ならともかくこんな言葉が使われる状況なんて
ほとんどないんじゃないだろうか。
だいたい
「ずっと好きだった」なんて想い、
相手に全く伝わっていないわけないじゃないか。
「わかっていながら相手は素知らぬふりをしていた」
それがその想いに対する答えなのだ。
というわけだから、
現実生活ではこんな言葉を吐く輩はほとんどいないはずである。
いたとしたも、
それは男であれ女であれ、
とんでもない自信過剰の勘違いなヤツに違いない。


だが、である。

それにもかかわらず、この言葉は廃れない。
現実ではありえなくとも、少なくとも夢物語の中では……
それは一体どうしてなんだろう?

多分
この言葉を吐ける人間はほとんどいなくても、
こう言ってもらう事を夢に描いている人間は数多く存在する、
からではないだろうか?

だから
この言葉は甘いストーリーや歌詞には欠かせない。
恋愛モノの定番の小道具として健在なのだ。
今も昔も、これから先もずっと……


まったく、

「ずっと好きだったんだ」なんて

うーん、
見れば見るほど、
こっぱずかしい言葉には違いないけど、ね、やっぱり……

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2010/05/06

「貴人」の憂い、「しもじも」の幸せ

GW真っ盛りの5月1日、東京駅新幹線ホーム。
帰省のための下り列車を待つ人々の列に我が家も並ぶ。
並んでいる人の数から、
さほどの混雑ではなさそうと
ホッとしているところに列車は入って来たのだが、
なかなか扉は開かない。

ま、車内清掃とかいろいろあるんだろうな、
などとあまり気にも留めずにいたところ
「ご乗車はもう少々お待ちください」などと
駅員さんたちが口々に叫んでいる。

(……ん? なんか妙に丁寧、そして緊張してる……?)

と思っているとホームの端のほうから
ぞろぞろとスーツ姿の男性の一団がやって来たのだ。

(そうか、VIPがいるんだな。)

と気づいてまもなく
テレビで見慣れた皇太子殿下の笑顔が垣間見え、
続いてそのご家族の姿もまた目に映る。
御料牧場でのご静養のための出立だったらしい。

外交的に完璧な笑顔、それはご夫婦そろって一緒である。
いつものように……。
ただアイコサマだけが子供らしく固い表情をされていた。

それはほんとうにテレビとおんなじだったのだ。


そのテレビ映像により刷り込まれた既視感ゆえか。
自分と5mと離れていないところを
笑みを浮かべながら歩くマサコサマに
「しもじも」の悲しさかな、
私はつい、手を振ってしまう。
そんなところで手なんか振ったのは私だけだったのだが。
だが、
マサコサマはそのひとりの「しもじも」に手を振り返す。
親愛でもなく、義務でもなく
多分それは完全なる習慣だったのだろう。

この先も、この方は
何千人、何万人もの見知らぬ「しもじも」に手を振り返すのだ。


……


それは、ほんの数秒の出来事だった。

あっというまにその人だかりは去っていき、
後に残ったのは、
アイコサマの白いワンピースと、意外と高いその背のこと、
マサコサマは腰まで髪を伸ばしていたのだな、ということ。

そんなつまんないことを
思い起こしながら「しもじも」である私は
ご一家と同じ新幹線に乗り込み、
夫のふるさとに帰省する。

ちょうどそのときは下を向いていて「ご一家」を見損ねた我娘に
「ひとりだけ手振ったなんて恥ずかしいー」
などとからかわれながらも、
それでも

「ちょっとしあわせ」

に浸りながら……

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