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2010/06/30

「感動をありがとう」という厚顔無恥

「感動をありがとう」

夕べのサッカーを観て、
きっとこんなタイトルの記事が
山ほどUPされているんじゃないかと思いつつ……

なんだろ、
この

「感動をありがとう」

って言葉、
どうしてもなじめないのだ。
他にも
「パワーをもらった」とか
「元気をもらった」とかも同様なのだが。


スポーツ選手などが
自分の限界に挑戦している姿を見て感動する

それはものすごくわかることだし素晴らしいことだとも思うけれど
それに感動したり
それに触発されてヤル気を起こすっていうのは
あくまでその「観ていた人=観衆」の個人的なことのはず。
それなのに
触発されたということを強調して
その気分の高揚が
アスリートたちに関係があるかのような言い回しが気になるというか、
ある種の嫌らしい馴れ馴れしさが鼻について仕方ないっていうか……


当然のことながら
アスリートたちがぎりぎりのところで気の遠くなるような努力しているのは
私たち一般大衆を勇気付けるためではない。
彼らは自分の限界に挑戦するという自分の戦いをしているわけで
それによって周りの観衆が感動するのは
彼らとしても喜ばしくないわけではないだろうけど、
あくまで彼らの目標達成の副産物に過ぎない。

たとえ
感動を与えるようなプレーをすることを目標としている
アスリートたちだって
やはり大衆を満足させる以前に自分自身が満足のいくプレーを目指して
精進しているはず。
そういう意味で
孤高に耐えられるような強さを持つ彼らは
大衆とは決して馴れ合うような関係をもってなどいないはずなのだ。

そもそも
何の努力もせず冷房の聞いた快適な部屋で
ただただ眠い目を擦って観ていた私たちが
一時の陶酔に浸って
「感動をもらった」「やる気がでた」「元気をもらった」
なんて大仰に言い立てる、
全くこっぱずかしい限りではないか。


いや、
私だって夕べは眠い目を擦りつつ観戦していたのが
PK戦のときにはその緊張感に耐え切れず
座布団で顔を抑えながらもその隙間からこわごわ見ていた口だし、
終わった後の選手たちの泣き顔や
悔しさを抑えつつも淡々と語るその口調に
柄にもなくジーンときたのも事実なんだが、
でも
この気持ちは
あくまで受け手である私だけのものであり
パフォーマンスをした彼らとは無縁のものと思いたい。


つまり

私は彼らに感謝はしない、
ただただ驚愕し感嘆するのみ……

それで十分だということ、である。


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2010/06/23

実験は苦手でした……

子供が理科の質問をしてきた。
光合成の実験についての問題だったか。

その実験内容のレポートが書かれた子供のノート、
それを見ているうちに
「ああ自分は実験が苦手だったなぁ」
という記憶がつくづくと思い出された。

実験が好き、という子は昔から結構いる。
確かにじっと座って先生の言うことを黙って書き写す普段の授業より
目先は変わるし好奇心も満たされる実験は、
楽しいものなのかもしれない。
そして
本当の学問好きの子というものは
そういう子供なのかも……


でもなぁ……

それでもなぁ

私には
そういう実験の学習に対する効果、
科学の真理を発見した喜びみたいなものが、
感じられることがまるでなかった。
どちらかというと
「教科書に書かれたわかりきったことを
どうしてこんなに七面倒くさい手順(=実験)をふんで
再確認しなくちゃならないのか」
というシラケた気分でその場に臨むのがほとんど。
だから
張り切って実験を仕切る優等生や
悪ふざけをしている悪童たちのやることを
ぼんやり傍観しているのが常のことだった。


そういう「傍観しているだけの子供」って、なんか情けないよね


自分のことながら、それはよく感じていた。

そこそこ真面目であるゆえに普段の受身の授業には
それなりに成果をもつことが出来る自分だった。
だからこそ尚更
能動的な学問への取り組みが苦手な自分を
「ダメなやつ」と思う気持ちは強い。
レポートの評価は
どんなに気合を入れて作成したものでも
いつもB以下。
ちゃんと丁寧にまとめていたつもりだったのだが
何かが足りなかったのだろう。
それは
ひょっとしたら
自然科学への興味とか好奇心という
根本的欠点だったのだろうか?


「賢いひと」になりたい

そう思って
がんばってきたつもりだったけれど
何か
大事なものが私には欠けていたのかも……


それでも
負けず嫌いで何でも人のせいにする私は

実験=自主的な学習という看板、に
「それが得意な子は独創的で柔軟なあたまの持ち主」というイメージに

若干の胡散臭さ、のようなものも感じずにはいられない。

いや、これは
だたの私の根性捻じ曲がっているから、なんだろうが……

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2010/06/07

残酷な心を満たす記事

前々から、気にかけているサイトがあった。
管理人は女性で
事実婚しており妊娠、出産、子育てを経験された方。
どこかのリンクリストから見つけたサイトだったのが

「事実婚のまま子供を産むこと」に対し
友人の痛烈な非難をうけて凹んだ・・・

という記事を読んだのはそのサイトを知ってまもなくの頃だった。


「結婚という型に縛られたくないなんて言って
格好つけていたくせに
無計画にも「妊娠」という結果を招いて
その事態に戸惑っているなんて、『甘すぎる』んだよね」

そんな感じだったか、
とにかくその友人の言葉は
他人の私が読んでもびっくりするほど辛辣で非情な言葉。


初めての妊娠で、
しかも婚外子として産むかもしれない

そんな状況はもちろん耐え難い不安やストレスを感じるものなのだろう。
その只中にいる友人に
こんなひどいことが言えちゃうなんて
その友人は「ひどい人」としか言いようがない。


……


……でも、

でも、それって「真実」、なんだよね……?

だからあなた、凹んだんだよ、ね……?


そう、それを読んだとき
そう思った私も相当「ひどい人間」だ。


その罪悪感か、
それとも単なる野次馬根性か、
その後のもそのサイトには時折訪問を続けている。

しかし
それ以後
その非情な友人と何某かの遣り取りがあったかは一切なかった。

お子さんは順調に誕生し
月並みながら母となった喜びに溢れる
穏やかな記事が続いていたのだ。
が、
あるとき訪問すると過去の記事が全て消されており、
その後更新される記事の内容は
現在は自らの家庭については一切触れないものになっている。
最近これを読み始めた読者には
この管理人に子供がいて家庭があるとは
まるで想像できないような
おしゃれで有能な独身ワーキングウーマンぶりだ。


なにかがあった?


いや、
何があったというよりも
あまりに自分をさらけだすことに嫌悪を感じた
結果なのかもしれない。

確かに、当然のことだ。


でも
さらけだすことのなくなったそのサイト、
口当たりのいいフュージョン音楽みたいになった
そのサイトに
私は最早以前の魅力を感じない。
残念ながら。


本当に残酷で勝手なもんなんだな、

人間って。


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