「感動をありがとう」という厚顔無恥
「感動をありがとう」
夕べのサッカーを観て、
きっとこんなタイトルの記事が
山ほどUPされているんじゃないかと思いつつ……
なんだろ、
この
「感動をありがとう」
って言葉、
どうしてもなじめないのだ。
他にも
「パワーをもらった」とか
「元気をもらった」とかも同様なのだが。
スポーツ選手などが
自分の限界に挑戦している姿を見て感動する
それはものすごくわかることだし素晴らしいことだとも思うけれど
それに感動したり
それに触発されてヤル気を起こすっていうのは
あくまでその「観ていた人=観衆」の個人的なことのはず。
それなのに
触発されたということを強調して
その気分の高揚が
アスリートたちに関係があるかのような言い回しが気になるというか、
ある種の嫌らしい馴れ馴れしさが鼻について仕方ないっていうか……
当然のことながら
アスリートたちがぎりぎりのところで気の遠くなるような努力しているのは
私たち一般大衆を勇気付けるためではない。
彼らは自分の限界に挑戦するという自分の戦いをしているわけで
それによって周りの観衆が感動するのは
彼らとしても喜ばしくないわけではないだろうけど、
あくまで彼らの目標達成の副産物に過ぎない。
たとえ
感動を与えるようなプレーをすることを目標としている
アスリートたちだって
やはり大衆を満足させる以前に自分自身が満足のいくプレーを目指して
精進しているはず。
そういう意味で
孤高に耐えられるような強さを持つ彼らは
大衆とは決して馴れ合うような関係をもってなどいないはずなのだ。
そもそも
何の努力もせず冷房の聞いた快適な部屋で
ただただ眠い目を擦って観ていた私たちが
一時の陶酔に浸って
「感動をもらった」「やる気がでた」「元気をもらった」
なんて大仰に言い立てる、
全くこっぱずかしい限りではないか。
いや、
私だって夕べは眠い目を擦りつつ観戦していたのが
PK戦のときにはその緊張感に耐え切れず
座布団で顔を抑えながらもその隙間からこわごわ見ていた口だし、
終わった後の選手たちの泣き顔や
悔しさを抑えつつも淡々と語るその口調に
柄にもなくジーンときたのも事実なんだが、
でも
この気持ちは
あくまで受け手である私だけのものであり
パフォーマンスをした彼らとは無縁のものと思いたい。
つまり
私は彼らに感謝はしない、
ただただ驚愕し感嘆するのみ……
それで十分だということ、である。
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