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2012/11/28

受け入れられる「意見」と
受け入れられない「意見」

誰かと何かを話していて、
「ああ、これはもう…」と思うときがあります。
多分この先話を続けていっても
きっと平行線のままに終わるんだろうなという予感です。

相手は一生懸命語るのだがその言葉は私には届かない。
多分相手も全く同じなのでしょう。

人の意見を聞きいれるという行為は意外と難しいものです。
特に今の自分の考えとは相反するものである場合は。


でも考えてみると
その「今の自分の考え」というのだって
かつて見聞きした「誰かの意見」の受け売りであったりしたわけでしょう。
つまり
そのときはその「誰かの意見」をすんなり受け入れていた、
ということじゃないですか。

どうしても受け入れられない「意見」と、
いとも簡単に受け入れられた「意見」。

このふたつにはどんな違いがあるというのでしょう。

そもそもの自分の考えに近かったから受け入れられた
ということもあるでしょうし
科学的根拠に裏打ちされているから受け入れられた
ということもあるでしょう。
しかし
言っている人の話方がなんとなく気に入ったから
なんていう情緒的理由によるものもあるかもしれないし、
または今まで考えてもいなかったことを「目から鱗」的に指摘されて
そのショックで受け入れたなんてこともあり得ますよね。

つまり精査を重ねた上に受けいれた意見もあるのでしょうが、
その場の成り行きなんとなくで受け入れたものも大いにあるというわけ。

ところが
そんなあやふやな根拠で受け入れた意見でも
ひとたび身に着くとこれを切り離すのは難しい。

馴れ親しんだものというのは
恐ろしい執着力をもつのです。


ここはひとつ
自分が固執している自称「自分の考え」について
考え直してみるのもいいのではありませんか?

本当にソレは「自分の考え」なのか?
誰かに共感してただけなのだとしたら、
その根拠は一体なんだったのか?

これを考えるだけで
大分頑固な自分から解放される様な気がします。


……


オリジナルの意見なんて
この世にそんなにあるはずもない…
そもそも借り物だったかもしれない意見に固執して
一体何になるというのでしょう?

そう思えば
もっとフレキシブルに柔軟に生きていけそうな気もしませんか?


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