移転致しました
当ブログはこの度、下記のアドレスへと移転致しました。
http://stern-sanchi2.cocolog-nifty.com/
当分の間はこちらのサイトも残しておきますが、
以後は新サイトでの更新となります。
今後とも拙ブログをどうぞよろしくお願い致します。
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久しぶりの更新です。
1年近くもの間ブログも書かずに一体何をやっていたか、
というとドイツ語でメール書いたり
歌を歌ったりしていました。
人生の折り返しもとうに過ぎての「手習い」というわけです。
それはそれで楽しいけれど
やっぱり外国語って母国語と違ってそうそう
上手く扱えるわけじゃないんですよね。
語感やニュアンスまで伝わっているかと聞かれる、
多分自信ない……
で、たまには日本語で文章も書いてみようかな、と。
ドイツ語に疲れた頭を休ませ、
音符とメトロノームもあっちへうっちゃって、
放置していたここに再ログインです。
……
昔、「『第3の脚』を換えるとき」という題で文章書いたことが思い出されますな。
最早ここはわたしにとって
「第3」どころか「第6」か「第7」の脚に成り下がってしまっているのですが
力が抜けたところで書くものにも
何か見るべきものもあるかも……
そう思っての、恥ずかしながらの再開です。
ではまた…
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実は今年の私は「受験生の母」で、ある。
そういえば、
そういったテーマのブログがかつてはいっぱいあった。
今もあるのかもしれないが、
ブログ自体が下火の傾向にあるので
なんとなく過去形の表現になってしまうが。
考えてみると
受験生の母というテーマだけではない。
他にも
家を建てるとか、資格を取るとか、
そういう経験をした人というものは多かれ少なかれ
そこで得た知識を誰かに伝授したくてたまらなくなるものなのかもしれない。
「その知識が誰かの参考になればこんなうれしいことはない」と。
だが、
本当のところは
こういう体験談というものは
「読んでくれる誰かの参考になる」というよりは、
書き手のストレス発散こそが最大の効用なのであろう。
ちょっと前まで
「なんでこんなプライベートなことまで書き連ねているのだろう」
と疑問に思ったりしたものだが、
要は「ストレス解消が目的なのだ」と
知った今では合点がいく。
さて、
現在のところ
私自身は受験生の母らしいことは特に何もしていない。
提出物の不備や期限について
多少神経を使っているぐらいのところだろうか。
というわけで
「受験生の母」というテーマで何かを書くことは
これから先もないだろうが、
……親って大変だな
と思わない日は、
受験あるなしにかかわらず
親となって以来、一日としてない……
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前々から、気にかけているサイトがあった。
管理人は女性で
事実婚しており妊娠、出産、子育てを経験された方。
どこかのリンクリストから見つけたサイトだったのが
「事実婚のまま子供を産むこと」に対し
友人の痛烈な非難をうけて凹んだ・・・
という記事を読んだのはそのサイトを知ってまもなくの頃だった。
「結婚という型に縛られたくないなんて言って
格好つけていたくせに
無計画にも「妊娠」という結果を招いて
その事態に戸惑っているなんて、『甘すぎる』んだよね」
そんな感じだったか、
とにかくその友人の言葉は
他人の私が読んでもびっくりするほど辛辣で非情な言葉。
初めての妊娠で、
しかも婚外子として産むかもしれない
そんな状況はもちろん耐え難い不安やストレスを感じるものなのだろう。
その只中にいる友人に
こんなひどいことが言えちゃうなんて
その友人は「ひどい人」としか言いようがない。
……
……でも、
でも、それって「真実」、なんだよね……?
だからあなた、凹んだんだよ、ね……?
そう、それを読んだとき
そう思った私も相当「ひどい人間」だ。
その罪悪感か、
それとも単なる野次馬根性か、
その後のもそのサイトには時折訪問を続けている。
しかし
それ以後
その非情な友人と何某かの遣り取りがあったかは一切なかった。
お子さんは順調に誕生し
月並みながら母となった喜びに溢れる
穏やかな記事が続いていたのだ。
が、
あるとき訪問すると過去の記事が全て消されており、
その後更新される記事の内容は
現在は自らの家庭については一切触れないものになっている。
最近これを読み始めた読者には
この管理人に子供がいて家庭があるとは
まるで想像できないような
おしゃれで有能な独身ワーキングウーマンぶりだ。
なにかがあった?
いや、
何があったというよりも
あまりに自分をさらけだすことに嫌悪を感じた
結果なのかもしれない。
確かに、当然のことだ。
でも
さらけだすことのなくなったそのサイト、
口当たりのいいフュージョン音楽みたいになった
そのサイトに
私は最早以前の魅力を感じない。
残念ながら。
本当に残酷で勝手なもんなんだな、
人間って。
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マイミクの人たちに、
あくまで一般論としてのつもりだったんですが
「何の変哲もない日記、
毎日更新するという義務感だけの日記。
そんなのつけていて虚しくないのかな」
なんて言っちゃったら、
そのマイミクたちの日記更新が途絶えちゃいました。
失言だったかなぁ
なんていう相談をネット上で目にしました。
「あらまぁ、私と同じこと考えている人がいる」なんて思っていたら、
それに対する大方の意見はこんな感じ。
そりゃ失言です、
貴方がどんなふうに思っていても構わないけどそれを口に出してはいけません。
あなただって面と向かって「つまんない」って言われたら
いやな思いするでしょう?
ありゃりゃ……
これはすみませんでした。
確かに「お前の文章なんて全然面白くないよ」と言われると
少なからず凹みます。
そんなことを不用意に口にするなんて
思慮深い人間なら慎むべきなのでしょうね。
でも、ね
やっぱりつまらないものはつまらない、
これは仕方のないことです。
もっと友達だけじゃなく不特定多数の読者が読んで耐えうるサイトこそが
増えることが望ましい
そう思う私は思いやりのない人間なのでしょうか?
なんて
偉そうに書き綴ると
そういうオマエのサイトこそが
淘汰されるべき存在の癖にえらそうなことを言うな
と
そんな声が聞こえてくるようです。
なるほど
確かにそのとおりです。
というわけで
良識を持って黙ることにしましょう。
つまらないものはつまらない
なんて
決して言っちゃいけない言葉です、
良識ある人間なら、
心にとどめておくべき……
ですよね?
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世のブログの2大ネタというと
やはりこの2つにつきる。
その一、旅行記、もといお出掛け日記
(グルメ情報、料理写真満載のもの含む)
その二、本、映画、舞台のレビュー
(その作品から派生する思想や社会問題提起も含む)
もちろん、
日々の生活のちょっとした出来事や趣味の作品の発表っていうのも、
決して少なくはないのだろうが、
どうしても何年も続けていると
そういうのはネタ切れしてきちゃうもんだ。
そうそう面白い出来事が世の中でころがっているわけじゃないし、
作品発表だってほどほどのところ飽きてくる……
自分の生活信条や「こんな世の中おかしいよ!」っていう主張も
そうそう変わるわけじゃないから
「生き方」云々なんてネタも
書物や映画などの何のインプットもなく生み出されたものでは
いつかどこかで書いていたことの繰り返しに過ぎなくなる……
となると、
数年にわたりブログを続けるのには
コンスタントにお出掛けをし、
コンスタントに書物・映画・舞台にふれていることが必要になってくるのは
ある意味仕方のないことなのかもしれない。
そうして
ブログネタさがしのための旅や読書が、始まるのだ。
この世の中には
そうやってきりきり舞いしているブロがーさんが
みんなが思っている以上に多いんだと思います。
そういや、
ここもレビューネタ、増えたかもネ。
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ネットの住民を二種類に分けると、
この世界に
友人とのつながりの場(=コミュニティー)としての役割を求める人と、
自分の考えや文章を公表する場(=ステージ)としての役割を求める人の
2つに大別できると思われる。
当たり前のことだが、
ネットの世界にはこの2種類の人種がまったく無秩序に混在しており、
それがなんだか私につまらぬ居心地の悪さを感じさせるのだ。
いや、どっちがどうだというわけじゃない。
コミュニティー系がヌルくて
ステージ系が読み応えがあるってわけじゃ
必ずしもないし、
要は単なる好みの問題でしかないのだけれど。
コミュニティーはコミュニティーとして
ステージはステージとして
厳密にこの世界を分けることができれば、
つまらぬストレスを感じずにすむのに……
こんなことを考えるのは私だけ?
私は
心が狭すぎるのだろうか?
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そもそも、
エッセイというものを好んで読むようになったのは、
一体いつごろからだったのだろうか?
5年ぐらい?いやもっと前から?
ここのところ、
特にこの1年ばかりか、
面白いエッセイを読むということが、
トンと少なくなった気がする。
ネットでも、もちろんその他紙媒体のメディアでも。
かつては、
あんなに新鮮で斬新で歯切れのいい魅力的な文章を書いていた人が、
今は自己満足の陳腐なダラダラ文ばかり書いている。
新聞雑誌でも
以前どこかで誰かが書いていたような二番煎じの主張や、
ノスタルジーを売り物にした手垢のついた感傷的文章ばかりが目に付く。
…………
一言で言うと
「飽きた」
ということなのか?
そもそも
こういうものを読んだり書いたりし続けることというのは
自ずと限界があるということだっただろうか?
そして
私の中のエッセイ嗜好がすでに飽和状態になっているとでも?
それでも
今も思うのは、
かつてのように面白い文章がどこかでまた読めれば、
ということ……
その希望を捨てきれずにいる。
ああ、
気負いなくストレートで正直な文章に出会うことができたら……!!
自分を(そして自分の文章を)省みずに
わがままを言わせてもらえば、
それが今一番の望み、である気がする。
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いつのころからだろうか。
コメントへの返信のないブログに魅力を感じるようになった。
たとえどんなコメントであっても、
読んでくれた人からの反応は
それが悪意に満ちたいたずらではない限り
無条件に嬉しいもののはず。
その嬉しさを感じながらも
自分の書いたものへ某かの反応を示してくれた人に、
返事を書かないことは
ある意味非常に潔いことのような気がするのだ。
つまり、
私の書きたいことは本文にて既に完結しているのだと、
それ以上の蛇足はつけることを良しとしない
思い切りのよさ、というか。
ある人たちには、
それは単なる「傲慢」にしか見えないかもしれないし、
そのコメントを書き込んだ人たちは、
返事の無いのを落胆して
「二度と書き込むまい」と唇をかみしめているのかもしれないのだけれど。
でも私には
その一方通行のコメント欄が
つながっているようでつながっていない、
そして
つながっていないようでつながっている
なんとも危うい人間関係を
ものの見事に表しているようで……
そういうブログをみるとなんだか嬉しくなる。
いいなぁ
そういうの……
すごく、いい。
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例えば、自分の友達について書くとして。
いかにこの人が私にとって魅力的であるか、
仕事への姿勢・情熱、
どれをとっても怠惰な私を
いやがおうにも啓発させざるをえない存在である素晴らしい友人。
その素晴らしい友人とお互い自立しながらも
本当に必要なときにはともに支えあえる信頼関係を築けたのなら
人生の大半の目的を果たしたといってもいいのかもしれない。
などなど、夢中になって書き綴ったとしましょう。
でも、
冷静にみると
そんなことをここに書き散らしたとしてなんになると?
実際のところ
その友人の素晴らしさ、この友情のもたらす幸福感は
おそらく誰にも伝わらないのです。
ここを偶然にも訪れ、
たまたまこの文章を目にした人々にとっては
そんな友人はどこにでもいるただの見知らぬ人であり、
そんな友情もごく当たり前のどこにでもある関係。
それを特別のように書き立てるのは
客観的に見れば
ただの失笑をかう自己陶酔の文章にしかならない……
いや、友人だけではない、
私が大切にしている思い出や貴重な体験も
愛すべき家族も
大変だがやりがいもある仕事も
人生に張り合いを与えてくれるかけがえのない趣味も、
それに並々ならぬ思い入れをしているのは、
世界でただ一人、この「私」という人間のほかには誰も居ないのです。
悲しいことに、
寂しいことに、
それが現実というもの。
きっと、
私たちは発信者となった日
―即ち、自分の書いた文字が
公のモニターに映し出されるようになった日―から
その現実をだんだん失いつつあるのかもしれません。
その結果
自分の心の中では
確かに
誰もが作家であり
誰もがアーティスト、評論家、ジャーナリストたりえる今がある。
だが、それはあくまで自分の心の中でのこと。
冷静に判断してみるに
そう思ってくれる読者は、
多分知り合いの中ですら極々少数であり、
全くの見知らぬ他人の中ではほとんど皆無なのでしょう。
全く
悲しいことながら、
やはり
それが真実なんだと私は思うのです。
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