2008/03/27

サイトというものは夜空の星に似ている

たとえば
どこかで何かの拍子に開いたページがあったとして、
それがこの私自身にものすごくピッタリくるものだったとして、

どんどんどんどん
その文章に引き込まれ、
読みすすんでいくわけなのだが、
そのうちにひょいと気が付くことがある。

それは、

「ああ、
これはもう打ち捨てられた過去のサイトなのだな」

ってこと。


もう更新されることはない。
この文章を発する光の元は
とうの昔に途絶えてしまったというのに
今私の目の前にあるのは
つい先程書かれたかのように
イキイキと活気に溢れた文章だ。

そのちぐはぐな様は
何万光年も離れたところから光を放ち
今はその存在すら確かめられない
遠い遠い彼方の星にどこか似ている。


・・・


インターネットが普及して十数年・・・
星の数はどんどん増え続け、
その中に実態を失った星の光も
雨あられのように
地上に私に降り注ぐ。


最早過去のものであるにもかかわらず
今更それを知って
ひどく感動している自分。

その間の抜けたタイムラグに
なんとなく
ため息が出た。


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2008/03/21

4年目の家族旅行記サイトの行方

・・・
昨日
管理していた家族旅行記のサイトを更新した。
ほぼ1年ぶりのことだった。


さほど手のかかる更新であったわけではない。
昔の旅行の写真を数枚UPしたのと、
子供つくったページをリンクしてやったぐらいのこと。

本当のことを言うと
このサイトの管理については
モチベーションが下がりまくりだったから
このまま放っておかれて
インターネット上無数にある
管理放置サイトの一つになってしまうのも
時間の問題だったのかもしれない。

だが、
娘がココに来て
急にホームページ作成意欲に燃え上がってしまったもので。
まあ彼女のページを付け足すなら、
前々からUPを予定していた古いベルリンの写真も
ついでにUPしちゃおうか、
という極めて覇気の無い更新だったわけなのだ。


そんな更新とはいえ
久しぶりに開く自分のサイト。
ソレを眺めているうちにこんなことを考える。


そもそも
家族の海外旅行なんてものは
やたらめったらに行われないイベントであるから、
新しい旅行記でコンスタントに更新していくなんて
なかなかできることではない。
だから私も
昔の独身時代の旅行の思い出なんぞを
窮余の一策にUPしたりしていたわけなのだが、
そんな昔の古ぼけたサエない写真をUPしてみたところ
誰かの興味を引き付けられるなんて
とてもじゃないが思えない。
そうしてどんどん下がっていくモチベーション・・・
そうこうしていくうちに、
なんでこのサイトを始めたんだろう
なんてサイト自身の存在意義にまで思いが及んでいく・・・

もちろん、
公開直前はこんな殊勝ぶった記事を書いているが
そんなことはタテマエにしか過ぎず、

誰かの役に立てたら・・・とか、
誰かに面白く読んでもらおう・・・!

などという
おこがましい野心が
皆目なかったわけではないのだ。

だが、
こうして月日を重ねて冷静な目で眺めてみると
もはや色あせた役にも立たない情報や
誰でも体験する陳腐なハプニングやその感想などが
書き連ねられているに過ぎない我がサイトの真実の姿に突き当たる。

正直辛い・・・

「いやぁ、
 ある意味サイトを公開するというのは
 公害を撒き散らしてしまうという危険も
 はらんでいたのだなぁ」

と苦笑したくなる。


・・・


そこでふと
「ヨソさまはどうなんだろう?」
と思い立って、
リンクさせてもらっているところをはじめ
さまざまな家族旅行記サイトさんを
お邪魔してみた。


ああ、
当時は
きっと活気に溢れていた各サイトだったろうに、
今や静かにそこにただあるという感じのところがほとんど。
(もちろん今も精力的に更新をつづけている
 エネルギッシュなサイト管理者さんも
 いらっしゃるにはいらっしゃるが―
 その熱意や工夫には驚くべきものがあり敬意を表します!―)


皆さん、
てこずっていなさるんですね・・・


西暦2000年前後あたりから
雨後のタケノコのように
ネット上に無数に生まれた家族旅行記サイト・・・

拙サイトを含めこれらが
この先どのようになっていくのか

なんとなく
そら恐ろしいような気分になる私・・・


とにかく、
自分は細々とでも続けていくことにしよう・・・

まだ、
削除はできないのだから、

それしか道はないようです・・・

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2007/08/02

リンクを外す日、外される日

今日のテーマは
サイト運営者の多くが作成しているリンク集について、です。

まあ知人のサイトであるとか、
仕事上関連のあるサイトであるとか、
いろんな性質のものもあるのでしょうが
私の場合は
そのサイトの内容が気に入って

「みんなも読んでみてね、ここ面白いから・・・」

という「お薦めサイト紹介コーナー」的なとらえ方をしていることが多いですね。
実際
今愛読している多くのサイトも
どなたかのリンク集から知りえたものであるのがほとんど。
この存在は結構ありがたいものなのです。


だが、そんなリンク集も運営に当たっては
ちょっと厄介なことがある・・・
それはリンクの整理。

最初は極々少数だった我がリンク集も今や結構な数に上ってきています。
ここらで整理をしてすっきりさせたいものだと思っているのですが
実はこの整理がなかなかできるものではなく、
それが今現在の私のちょっとした憂鬱になっています。

つまりそう、
ありていに言うと

リンクって一度貼るとなかなか外すことができない・・・のです(苦笑)。


だって、
単なる気にしすぎなかもしれないのですが
やっぱりそのサイトの運営者に悪いような気がしますし・・・
わが身に置き換えてみても
自分のサイトへのリンクが削除されることはあまりいい気分ではないですから。
大体
「リンクさせてください」などと申し込んで承諾いただいた方には
「すみません、やっぱりはずしますね」なんて言えない、
そうかといって
黙って外すのだって小心の私には余計勇気がいるのですよ。


そんなこんなで最近は
我がリンク集では新規での追加がとんと無くなってきています。
とりあえず「お気に入り」に入れて楽しむほうが
余計な世話がなくていいから。
他のひとへの紹介が出来ないことは確かに残念ですけど、
確かに気は「楽」ですしね。


ああ、

気に入ったらそのサイトをリンクし、
思ったような魅力を感じなくなったら
さらりとはずす、
お互い変な遠慮はなしに、ね!

だなんて、
なかなか出来ることではありませんね。


顔が見えない
今も繋がっているか、いないかもわからない
そんな微妙な関係・・・ネット。

だからこそ、
そういう気遣いは
ひょっとしたら実社会よりも多いものなのかもしれません。

それらの気遣いの
全てを否定するわけでもないのですが、

我が小心ぶりになんだか情けなさを感じる、
今日この頃なのです・・・


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2007/07/03

無名なる人の肖像権

ふと通りかかった写真のサイト。
いや、
味のあるいい写真が掲載されている素敵なサイトだったんですけど、ね・・・
それに見入っているうちに
ふと疑問に思ったことがありました。
それは、

そこに写し出されている
名も知らぬ老若男女の方々は
自分がここに載せられていることを
知っておられるのかな、

ということ。


写真に写っている人々は皆
本当に自然で構えがない、
写されていることすら気付いていないかのような素朴な表情をしています。
多分撮影者は
被写体に気付かれぬままにシャッターを押されているのでしょうね。
だからこそ
見る側をもほっと和ませるような写真が撮れる。
疲れた我々に
潤いを与えてくれるような逸品に仕上げることができるのです。

だが、
問題となるのはその後なのでして、
その自然な表情を撮影したことを
撮影者は被写体となった人に伝えているのでしょうか?
それを伝えて尚且つ
「これこれこういうサイトに掲載する」という了承を得ているのでしょうか?

多分、私なら「やらない」んでしょうね。
お年寄りなんて説明してもわかってもらえないかもしれないし、
女性なんか絶対嫌がりそうですしね。
(かえって無断で写真を撮ったことに
不快感を持たれるかもしれない・・・
わからなきゃいいんだし・・・
黙っておこう・・・)
きっとそう思うことでしょう。


肖像権

なんて言葉が確かありました。

何を言い出すやら!
有名人でもあるまいし!

ホント
そんな堅苦しいことを言い出すなんて
この場合全く無粋なことなのかもしれません。
実際
そんなことで目くじらを立てて訴訟に持ち込む人なんていないのでしょうから
余計な心配とも言えます。
でも、
もしも無断で撮られた自分、
それも寝起きのような素のままの顔がインターネット上に載せられていたら、
正直心中穏やかならざるのも当然なのではないでしょうか?
そしてその不快感を表に出さない―いちいち訴えない―からといって、
それは「その肖像権を放棄した」というのとイコールではないのです。
このあたりは著作権とも通じるものがありますね・・・


いやはや、
インターネットなんてものがない頃は
著作権にしろ肖像権にしろ
一部の有名人とマスコミの間だけの話だと思っていたのですが・・
今やいわゆる

芸術(=表現の自由)とプライバシーの問題って
ごく身近な問題なんだ

なんてあらためて考えさせられちゃう午後、となりました・・・


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2007/04/12

国民の本音

ネットというものに触れるようになって、3年。
最初は
各個人がマスコミを通さずしかも匿名にて自分の考えを掲げることのできる
この新しいメディアに随分驚かされたものです。

ありていにいうと
いわゆるタカ派で民族主義的な思想の人が
この国には私が思っていた以上に多くいるらしい
ということ。


マスコミというものは
基本的に政府を批判する立場にあるもの(これも随分妖しいところであるが)だから、
多少の各社の右左の傾向はあったとしても
極端な国粋主義を匂わせるような意見は
そこでは取り上げられることはほとんどありません。

でも
ネットではそうしたフィルターを通さずに
直に自分の意見が載せられる、
だからそういう意味では
掛け値なしの「国民の本音」がここにはあるのでしょう。

そしてそこにある、数々の次のような発言。
(それらが今
これまでの私の「日本人観」を大きく揺るがせているのです。)

どこの国だって
自分の国を誇りに思っているし
その自分の国を悪し様に批判することは
相手が誰であれ許してなどいないじゃないか。
これこそがグローバルスタンダードなのであって
今までの戦後の日本こそが異常だったんだよ。
いくら日本が敗戦国だからって
一体いつまで卑屈になってればいいというのだ?

なるほど。
その通りなのかもしれない。
私が思っていたのは
結局左よりのマスコミによって
刷り込まれた異常な国日本だったのかも。


でも、
でも、ごめんなさい・・・

私には
柔和で気弱で遠慮深く
周りと上手くやっていこうと四苦八苦している人々が
まだ
この国の主流を占めていると信じたい気がするのです。

そんなことではダメだ!
そんなことでは悪意の国に飲み込まれてしまうんだよ!

という声も十分届いているのですが。

・・・
どうも
既にどうしようもなく
私は何者かに洗脳されてしまっている・・・

それだけなのかもしれませんが。

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2007/03/22

「mixi読み逃げ」問題の底にあるもの

 こんな記事をみかけました・・・
 題して
 「mixi読み逃げ」ってダメなの?
 (Yahooのトップページから見つけたものだから
  目にした方も多いことと思います。)

 要は

 一部のmixi参加者の間では
 「お友達なのにコメントも残してくれないなんて!」
 という不満が
 「読み逃げ」=マナー違反・常識無さ過ぎ!
 という糾弾につながっているらしい

 という記事のようなのですが。
 もっともこの記事の元となった相談投稿と
 その回答が自作自演の茶番だったという説も浮上しているのだとか・・・
 まあ、事の真偽はともあれ
 いずれにせよこれだけの短時間にこの話題がこれほど盛り上がったのには、
 ソレ相応の理由があったのでしょうね。

 つまり、
 mixiをはじめとするSNSとは、
 相当魅力はあるが
 同時になかなかやっかいな社会であるらしいというイメージ
 (しかも外部から覗けないことがそのイメージを益々増幅させます)、
 それを
 外から面白がってみている連中には
 格好のエサがばら撒かれたと言うのが
 今回の騒ぎの本当の姿なのではないでしょうか。


 例えばmixiへの入会というシステムひとつとってみてもです。
 そもそも招待状がないと入れないなんて聞くと、
 人間なんて勝手なものだから
 別にそこに入る気がなくても何となく面白い気はしないもの。

 「仲間内でなんだかごちゃごちゃやってて閉鎖的でドロドロしていそう。」
 「私は入っていなくてよかった、なんか怖い世界なんだね。」

 そんなイソップの「ぶどうを食べられないキツネ」的な不満解消には
 持って来いの話題だったようです。

 もちろん
 現実問題としては、
 「あしあと」機能(訪問者の履歴が残る機能)に
 正直きりきり舞いさせらる
 小心なる参加者も少なからずいるのでしょう。
 (私も参加したらそうなっちゃうかもしれません。)
 でもその反面
 そんな「mixi疲れ」なんてものとは無縁に
 精力的に交友関係を築いていらっしゃる方や
 己を良く知りSNSの特性を熟知して
 上手く自分の生活に部分的に取り込んでいる方も
 数多くいらっしゃいるはずなのです。
 しかし
 そんなひとたちが楽しく充実したmixi生活を送っているっていうのじゃ、
 周りはつまらない。
 結局
 自分が食べられないぶどうが甘いんじゃ面白くないわけですよね。

 つまり、
 少なくともあんな投稿にとびついて騒いだネット愛好家も
 その騒ぎを大真面目に取り上げて記事にした記者さんも
 その記事を読んでブログに取り上ようとした私も
 同じ穴の何とかってやつかな、と。

 ああ、ネットって本性がむき出しになりやすい

 本当に怖い世界ですねぇ・・・

 自分自身の品性も含め、
 ご用心ご用心。

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2006/07/06

顔文字の効能

 あの、あれですよ、
 いわゆる(^_^)のような顔の表情の記号のことです。
 顔文字っていうんですよね。
 今やメールにしてもネット上でも至るところで目にします。
 この記号、
 なかなか便利なものなのですね。

 例えば
 文字だけの交流はどうしても堅くなりがち。
 それに文字だけだと伝わりきれないものも数多くあるのも事実です。
 「すみませんでした」という言葉をひとつとっても、

 すみませんでした( ^_^;)
 すみませんでしたm( _ _ )m
 すみませんでした( ToT )

 と、微妙に伝わるニュアンスが変わってきます。
 へたすると文の脈絡から

 まったく、すみませんでしたねぇ!(ブチブチ・・・)

 と不満顔で言っていると受け取られかねないときなど
 この顔文字をひとつ付け加えるだけで、
 要らぬ気遣いから解放されるような気分になり
 ついつい使ってしまうのかも。
 結局はまあ、気休めみたいなもんですけれど、ね。

 画面に映し出された文字だけの交流、
 でも昔の書簡とは違い瞬時に伝い合えるこの新しい交流は
 直接の、面と向かい合っての会話に段々近づきつつあります。
 そこに
 今まで以上の情報量を盛り込みたくなるのは当たり前。
 そう思うと
 この顔文字が生まれたのも必然だったのかもしれません。


 しかしながら、
 便利なこれらの顔文字なのですが、
 私自身はどうも苦手で使ったことない。
 多分頭が固いからなのでしょう。
 最初は「こどもが使うもんだ」なんていう偏見もあったりして、
 で、こんなふうに広まった今となっても今更使うのにはテレがある。
 でもその効果はわかっているで
 その代わりとして私も使っているものがあります。
 「漢字」です。
 (笑)、(涙)、(汗)、(怒)、(苦笑)などなどなど。

 顔文字もこれらの漢字も基本的に使う目的は同じ。
 どちらを使うかは、これはもう好みの違いだけのことでしょう。
 両者に共通して言えるのは、

 自分の気持ちを読んだ相手に誤解されることのないように・・・

 という繊細で柔和な配慮。
 しかし、
 これは裏返して意地悪な言い方をすれば、

 文章だけで思いを伝えきれない自分の自信の無さ、や
 読み手の受け方に任せきれない自分の思い切りの悪さ、を

 表しているようで・・・

 たまには
 そんな小細工をせずにズバっと書いてみろよ!

 なんて
 衝動にかられるのも
 事実だったりするのです(苦笑―そしてさらに苦笑)。


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2005/12/15

時を越えて

 実はよく考えることなのです。

 ある日何らかの理由で突然、
 自分自身でのサイトの更新がこれ以上できない状況に陥ったら
 これらのページはどうなるのだろうか?と。
 (もちろん、現実にそんなことになったとしたら、
  サイトよりももっと深刻な問題が山積することは
  確かなのですが。)

 サイトを存在に気付いた周りが
 閉鎖の措置をとればなんてこともないのでしょうが、
 そうでもされない場合
 多分管理者を失い放置されたサイトはそのままにされることでしょう。
 また自分にしろ周りにしろ
 思い出のためとして
 敢えてそんな措置をとらないということも大いに考えられますから
 ネット上にそのサイトが残る可能性というのは
 案外大きいのでは?なんて考えたりします。

 そうしてネット上にぽつりと残されたサイト。

 更新されぬことをいぶかしく思う訪問者たちも
 徐々に数が減り、
 そのうち訪れるひともなくなる。
 たまに何かの拍子にページをひらくひとがいるかもしれない。
 検索にちょっとひっかかったってところでしょうが、
 その人の目にはこのサイトはどのように映ることでしょう。

 まずは最終更新日の古さにこのサイトが既に過去のものだということが知られる。
 そして続いて思うのは、
 打ち捨てられた空き家のような侘しさでしょうか。
 または「なんといい加減な管理者だ」という
 ちょっとした怒りもあるかもしれません。

 でもどんな感情であろうとも
 見ず知らずの他人が
 自分を一瞬であれ、
 時を越えて知ってくれたということは
 インターネットのない時代にはほとんど考えられなかったことなのでしょうね。

 もちろん、
 これからどんどん増え続けるサイトの波に呑まれて
 更新の無い過去のサイトが尚も存続していける可能性は
 今後の情勢によっては消え行くものなのかもれませんが・・・


 周囲の迷惑にはならないためにも
 そんな日が来る前に
 多分自分できっちりけじめをつけられるはず。

 そう思いながらも、

 何かの間違いで自分のサイトが残ってしまい
 遠い未来の誰かの目に触れる、
 そんなのも悪くはないかな

 とまあ、
 不謹慎なことを考えてしまったりする私、です。

 けしからん奴、です。

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2004/12/03

匿名の功罪

 さまざまなblogを読んでいると、実に多様な人々がいろいろな考えを書いていることにいつもながら驚かされる。そんな中でもズバッと切れ味のいいご意見や批判を読んだりすると、自分の文章がいかにあやふやで中途半端なものかを思い知らされるわけだ。
 こうやって文章を書きながらも、読み返して「うーん、ここは断定的でちょっと強引な語り口かなあ」などと思うと、早速婉曲の表現を使って「のように思われる」とか、「あくまで私の意見だが」などと逃げ道を作っている。我ながら小心者の姑息な手だなあと苦笑しながらだ・・・

 はっきりと良し悪しを主張する、しかも有る意味では過激とも思われる意見を、実は私だって持っている。ただ、それをここで載せるのは・・・というためらいがそれをさせないだけなのだ。
 なぜそうしないのか?
 小心者であることももちろんだが、実はこのblogを読む人のなかには、この「ぞふぃ」という人間の正体を知っている人もいるからだ。

 「なーんだ、そんなの自分も一緒だよ」って思っていらっしゃるサイト運営者の方ってどれぐらいいらっしゃるものなのだろうか。
 私が考えるよりも多いのかな?全く誰にも知られず(それこそ家族にも知らせず)密かにサイト運営している人っていうのも少ないような気もするけど、でもちょっとした知人にまでオープンにしている人もそんなに一般的ではないのではなかろうか。

 私の場合、何人かの友人たちにこのblogの存在を教えている。理由は簡単。読者の獲得のためだ。
 立ち上げ時には私もそれこその存在を誰にも家族にすら告げずに始めたわけなのだが、それは、アクセス数もつけていないしコメントだって滅多にないこのblogのこと。続けるのがあっという間に寂しくなってしまい、夫を皮切りに何人かの友人たちにURLを知らせることとなった。このいきさつは、新米営業マンが、とりあえず自分の知り合いのところに泣きつくのにどこか似ている気がする。

 しかし、知人たちに教えれば教えるほど読者は獲得されるのだが、記事を書く際に「あ、こんなこと書くとまずいかなあ」というブレーキがかかる回数が増えていくのである。
 「へえー、こんなこと考えている人だったんだあ」とか
 「随分極端なこと思っているんだなあ」とか
 「なんかいい子ぶって偉そうなこと書いているじゃない」
 そんなふうに思われるのが怖い・・・・・・怖いのだ。

 その結果、結局反感を買いそうな意見や主張はひっこめられ、当たり障りのない意見が小奇麗に小さくまとめられて載せられることになる。
 それはなんだか、自分を少し偽っているようであまり後味の良いものではない。

 匿名で運営するblogであってもこの不安や思いは同じなのかもしれない。見知らぬ人とは言え、不特定多数の人々に対して自分の意見を真っ直ぐ押し出すことは勇気の要ることなのだから・・・批判や非難を浴びることも場合によっては覚悟しなければならないことだろう。
 では、見知らぬ人ではなく知っている人に対してそれをするのが、どうしてことさらに勇気や決意が要るのだろうか。
 多分、その知人の持っているであろう「自分のイメージ」を崩すのが怖いからなのだろう。
「 そんなひとだと思わなかった」というふうに思われることへの恐れである。

 匿名でものを書くということは、そういった「普段の自分」からの解放を意味しているのかもしれない。それぞれの事情から被らざるを得ない、その仮面からの解放だ。

 だがその魔力を自ら手放してしまった私である。
 最早あとは、人を傷つけない最大公約数の意見を婉曲の表現に包み込んで書くより他はなかろう。

 ただ・・・
 仮面から解放されるということは、ややもすると自分の言葉に対する責任からも解放されると勘違いしてしまうことに繋がりやすい。
 それに対し、名を明かしてものを書くということは、否応なくその言葉の全責任が現実の自分に覆いかぶさってくること、そしてそれに対する覚悟が常についてまわるのである。

 「自分の言葉には責任をもつという当たり前の原則、その原則を守るためのさらなる重石を自らに科した」ってことにもなるのかな・・・

 (でもその考え方には、ちょっと己を美化しすぎたきらいがあるようだが・・・)

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2004/09/29

自己満足でいいじゃない?

前回のblogで書いたとおり我が家は18日から26日までの子連れスイス旅行に行ってきた。
とっても楽しかった旅の思い出はまた別の機会にゆずって、
今回はちょっとした私の決意表明のようなものを書いてみよう。

もともとこのblogは、そのスイス旅行記HPのエッセイコーナーを想定して、HP立ち上げ前の見切り発車として始まったもの。
でもすっかりエッセイを書くことのほうに夢中になってしまい、特に旅行前などはHP作成は滞りがちだったのだが、
そうこうしているうちに「どうしてHPを作るのか?」という疑問にもぶち当たるようになった。

子供2人連れの家族4人ヨーロッパ旅行、しかも毎年行っている様な旅馴れた家族の旅行記ではなく四苦八苦して準備したそういう旅行記がネットにないかなあと探していた私は、「じゃあ自分でつくればいいじゃないか」とハタと思いつき、そしてこのネットの世界に入り込んだ。
読むだけではなく読んでもらう側になった今になると、「なんと数多くの情報がこの世界には溢れていることか!」と驚くばかりだ。
私がないと思っていた、家族旅行初心者の複数子連れヨーロッパ旅行記だって、こうして立ち上げに手間取っている間にも公開されて、私が提供しようとしている情報より有益なものを既に提供しているかもしれないのだ。実際私が見つけられなかっただけで、既に何年も前に存在していることだって有得ることだ。

じゃあ私がHPを立ち上げる理由などないではないか?
読者をひきつけるような魅力的なHP作成など土台私には荷が重過ぎる。
自分がつれづれに考えたことはもうこのblogで表現することができるし、それで十分満足もしているじゃあないか。

HP作成をする必要は本当にあるのだろうか・・・?


でも旅行を終えてみて、やっぱりHPは公開することにした。

理由は、至極簡単。
旅行が本当に楽しかっからだ。
我が家のHPは、まず第1の目的を自分たちで楽しむことにしよう。
旅の思い出をHPに整理して残し、後々まで見て楽しめるようにすること、それに主眼をおくこととしよう。
誰かがそれを見て、「ああおもしろいなあ」とか、「おっ、役立つかも・・・」なんて思ってくれることは、その自分たちの楽しみについてくる付録ののようなもの。
そう割り切るところから始めないと、小心者の私には、アクセス数に一喜一憂して自分がぼろぼろになるのは目に見えている。

実はこう考えるようになったのも、このblogサイトの運営を通じてのことだ。
こんなつぶやきblogでも反応がないことは当初非常に孤独を感じたものだった。
その孤独感は今も消えたわけではないけど、
「自分が自分のblogの第1の読者になろう」と私は思うことにした。
だから、思い切り「自己満足」を目指す。

・・・それでいいじゃないか!


なにやら決意表明というより、番宣番組and言い訳のような文章になってしまったが、
次回はもうちょっとちゃんと書くのでご勘弁のほどを・・・


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