2013/09/09

世界は誰の都合で動いているのか

2020年夏季オリンピック・パラリンピックの開催地が東京に決まった。

いや、関係者の方々おめでとうございます。


とはいうものの、
実は
私は東京招致には反対組、でした。
(さすがにこの期に及んでは「反対組です!」と
現在形で言い放てない程度のヘタレ反対組ではあるのですが…)

まあ、私の反対の理由なんて、
「やれ財政が…」とか
「やれ理念が…」とかいう立派なものではなく、
言い出しっぺのご老人が大嫌いだからという
まったくもって感情的且つくだらない理由なので
その願いが砕かれることなど
屁でもないのです。


でも、
でも、
今回のニュースを聞いて
これをブログに書かずにはいられなかったのは、
東京が選ばれたその理由……


……


やっぱ2024年を100年ぶりのパリ開催にしたいから、なんでしょ?


……


確かに
候補地3つの中で
一番経済的、政治的には安定した都市が東京だっていうのは、
まぎれもない事実なのだろうけど、

お初物が大好きなIOCが
初のイスラム圏開催のイスタンブールを捨てたのは、
政情不安とか要因があるにせよ、

もう3度目の正直とばかりにほぼ施設が完成しているマドリードを捨てたのは、


「20、24とヨーロッパで続けて開催するわけにはいかん」
という事情以外考えられんのですよ。
だって
「スペインは信用不安だから」とかいっているんなら、
なおさら開催させて景気刺激をしたほうがいいんでないの?
もう箱モノはほぼできちゃっているんだし。

真偽のほどはさだかではありませんが、
こんな裏事情がささやかれているそうです。

2008の北京が民主化弾圧などの不祥事でオリンピックをポシャった場合の
代替地としてもしもに備えてIOCに恩を売ったパリ(フランス)、
結局代替地は不要に終わったので次の2012に満を持して立候補したそのパリを
イラク派兵に反対したという理由で潰したアメリカ、
漁夫の利で2012を獲得したロンドン(イギリス)…
2024は前回パリ大会からちょうど100年、
今度こそパリ開催をという流れは堅いらしい


ああ
なんだかんだいって相変わらず
世の中はあのあたり―米英仏―の都合で動いているんだなぁ、と


それを痛感した日曜の朝のことでした。


しかし、
石原前都知事が「オリンピック構想」をぶち上げたのが
2006年だとして、
ここまでの展開を予想していたのだとしたら、
大したもんですな。

てっきり
(北京がやるくらいなら東京が2度目やったっていいだろう
もうそんな時期だろ?)

程度の思いつきかと思っていましたから…


もしそうだとしたら
相当優秀な先の読めるブレーンが存在したんでしょうね?

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2010/07/02

「いい雰囲気」を報道する前に

……
またも、
サッカーネタで失礼いたします。

夕べはご多分にもれず繰り返し、
我らが日本代表の
あたかも凱旋のような帰国報道を
私も視聴しておりました。

大会が始まるまではあんなにも冷たかった人々が
ヨン様もびっくりの大歓呼と熱狂で彼らを迎えたことについては
別になんとも思いません。
私も迎えにこそ行かなくても全く同じ気持ちでしたから。
手のひらを返すように態度が変わる無責任さは
大衆の性(サガ)みたいはものなのですから
それをどうこういうつもりもない。


でもどうしても気になってしまうのは、
二言目には

「本当にいい雰囲気のチーム」
だとか
「家族のような結束」

とかいう言葉を出して、

こんなに団結しているから結果がだせたんだよねー!

みたいな短絡的な思考を露呈するマスコミ連中の薄っぺらさです。


おいおい、違うだろ?

団結しているから、
いい雰囲気だから
家族みたいだから

だからベスト16なんじゃないだろ?

勝ったから
結果出したから
どん底から這い上がることが出来たから

だから「いい雰囲気」なんだろ?


4年前のあの超雰囲気悪そうな代表だって
初戦のオーストラリアに勝っていれば
事情が違ったはず。
今や「唯我独尊で協調性ゼロ」の代名詞みたいなナ○タだって
メンバーを思いやる気配りの出来るリーダーであるかのように
賞賛されていたかもしれない。


結局、「結果」が全てなんですよ。
勝ったからこそ笑顔が出る余裕が生まれるのです。

マスコミだって国民だって
みんなそんなこと気がついているくせに

「結果云々じゃなく
人間性にも優れている我らの代表に惜しみない拍手を!」

みたいな方向にどうしていっちゃうのかなぁ?
そういう友情とか結束とかいった人情話を
望んでいる人がこの国にはそれだけ多いってことなんでしょうか?

わたしゃサッカーのことはほとんどわからないけれど
こんな賞賛の仕方をしているうちは
まだまだ茨の道が続くと思いますよ。


あーあ、
いつになったら
もっと冷静で沈着なスポーツ報道ができるような国になるんでしょう。

少なくとも
感動の裏話=浪花節的ウェットさはもういらない

みんなだってそう思っているんじゃないんですか?

それとも
そんなドライな人間はわたしだけなんでしょうか?


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2010/06/30

「感動をありがとう」という厚顔無恥

「感動をありがとう」

夕べのサッカーを観て、
きっとこんなタイトルの記事が
山ほどUPされているんじゃないかと思いつつ……

なんだろ、
この

「感動をありがとう」

って言葉、
どうしてもなじめないのだ。
他にも
「パワーをもらった」とか
「元気をもらった」とかも同様なのだが。


スポーツ選手などが
自分の限界に挑戦している姿を見て感動する

それはものすごくわかることだし素晴らしいことだとも思うけれど
それに感動したり
それに触発されてヤル気を起こすっていうのは
あくまでその「観ていた人=観衆」の個人的なことのはず。
それなのに
触発されたということを強調して
その気分の高揚が
アスリートたちに関係があるかのような言い回しが気になるというか、
ある種の嫌らしい馴れ馴れしさが鼻について仕方ないっていうか……


当然のことながら
アスリートたちがぎりぎりのところで気の遠くなるような努力しているのは
私たち一般大衆を勇気付けるためではない。
彼らは自分の限界に挑戦するという自分の戦いをしているわけで
それによって周りの観衆が感動するのは
彼らとしても喜ばしくないわけではないだろうけど、
あくまで彼らの目標達成の副産物に過ぎない。

たとえ
感動を与えるようなプレーをすることを目標としている
アスリートたちだって
やはり大衆を満足させる以前に自分自身が満足のいくプレーを目指して
精進しているはず。
そういう意味で
孤高に耐えられるような強さを持つ彼らは
大衆とは決して馴れ合うような関係をもってなどいないはずなのだ。

そもそも
何の努力もせず冷房の聞いた快適な部屋で
ただただ眠い目を擦って観ていた私たちが
一時の陶酔に浸って
「感動をもらった」「やる気がでた」「元気をもらった」
なんて大仰に言い立てる、
全くこっぱずかしい限りではないか。


いや、
私だって夕べは眠い目を擦りつつ観戦していたのが
PK戦のときにはその緊張感に耐え切れず
座布団で顔を抑えながらもその隙間からこわごわ見ていた口だし、
終わった後の選手たちの泣き顔や
悔しさを抑えつつも淡々と語るその口調に
柄にもなくジーンときたのも事実なんだが、
でも
この気持ちは
あくまで受け手である私だけのものであり
パフォーマンスをした彼らとは無縁のものと思いたい。


つまり

私は彼らに感謝はしない、
ただただ驚愕し感嘆するのみ……

それで十分だということ、である。


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2010/02/17

オリンピックは好きですか?

あなたはオリンピックが好きですか?
そう、今カナダでやっているヤツ、です。
テレビでも新聞でも盛んに取り上げられていますね。

私ですか?
私はオリンピックが好きです。
特に普段見られないような種目を目にするのは楽しい……
いつもなら日の目を見ないような地味な競技が脚光を浴びる
オリンピックは楽しいだけでない、
マイナースポーツの選手にとっては特に有意義な祭典だとも思います。

でも
オリンピック自体は好きなんだと思うのですが、
それに付随する
各国のメダル数争いや
オリンピックを必要以上に盛り上げようと
躍起になっている人たちを見るのは
好きではありません。
正直見苦しい。
多分本当のところ全然興味がないと思われるタレントがしゃしゃり出てきて
馬鹿の一つ覚えのように言う「感動をありがとう」とか
熱戦に興奮を装うスタジオの風景など
そういうことを見聞きするたびに
うんざりします。


そういう余計な装飾ははぎとって
素朴に観戦のみさせてもらいたい

それだけなんですけどね、私の望みは。

でも
そんな機会はほとんどなくなった昨今は
なんだか
オリンピックそのものも
以前ほど楽しくなくなったような気がします。

正直どうでもよくなっちゃったような。


まあ、それはそれでいいんですけどね。

世の大騒ぎから一線退いて
心静かな日々を送るのも決して悪くはないものですから。

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2008/08/27

メダルの価値は
種目によって異なるものなのか

最早お祭り騒ぎも過ぎたというのに
こんなテーマを掲げて恐縮なのですが……

オリンピックの最終日、
あるテレビ番組のコメンテイターがこんなことを言っていたのです。
「みんなも思っていることだけど、
メダルの価値は種目によって全然違う。
(世界中でしのぎを削る争いをしている)競泳や陸上の金と、
(一部の国でしか盛んに行われていない)マイナーな競技の
金の重さが同じわけないんですよ」


ああ、と思ったのですよ。
「競技によって金の重さが違う」なんてそんなこと、
電波に乗せて喋っちゃう人がついにあらわれたのか、
という感覚。


言いたいことはわかります。
多分メダル数で大躍進し国威発揚を遂げた某大国のことを
暗に否定しているつもりなのでしょう。

「卓球だの跳び込みだのそんなマイナースポーツで
ちまちまメダル数を稼いでるんじゃねぇよ。
もっと日本を見習って競泳だの陸上だのメジャーなところでも
成果を挙げてから物言ってみろ。
だいたいセコイんだよ、
メダルが獲れそうなものばかりここぞとばかり強化しやがって。」

とまあ、
こんなところでしょうか。
(ちょっと、というか大分表現は下品ですが―)


このコメンテイター氏だけではありません。
こんな考えを持つ人、この国にかなりの数がいるはずです。
実際私の家庭内にも
こういうスポーツナショナリスト、約1名おります。
(もちろん、言い方はもっとソフトですが)

でもなぁ……
それは、
家族相手にお茶の間で愚痴交じりに話す程度に
留めておくべきことではないのでは?

確かに
アジア人では勝負にならないと分かっているような競技でも
果敢に挑戦する姿を誇らしく思うのは当然のことなのですが。
それでも、
「メダルの価値は違う」なんて乱暴なことを
公然と言いはじめちゃったら、
己の卑しさを暴露してしまうようなものですよ。

だって、
そう言ってやりたいのは、
「メダル争いの一位だ!」と得意満面になっている某国一般観衆にであって、
その「価値の低い」メダルを獲ったアスリートたちにではないのでしょう?


ベタな言い方でしらけさせるかもしれないけど、
やっぱり
ただ観戦して熱くなっている観衆に過ぎない私たちには
メダルの価値云々なんてのは公の場では
間違っても言ってはいけない言葉なんではないでしょうか。


結局

メダルの価値について公然と語れるのは、
そのメダルを獲得した者のみにしか許されないこと


正論過ぎてつまらないことかもしれませんが、

そこを踏み外してしまうのは
その人の品位を疑われるような失態だと

私には思われてなりません。

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2008/08/21

美人アスリート花盛りの昨今に思うこと

オリンピックも酣(タケナワ)である。

がんばっている選手たちを見るのは、
スポーツとは無縁の生活を送るこちらにとっても
なかなか気持ちのいいものであるが、
どうも今回のオリンピックはそれ以上にも気になってしまうことがある。
それは
「美人アスリート」
と言われる一部選手たちのマスコミによる過度のもてはやし。

いや、
これは私が今まで気付かなかっただけで
今回に限らずどの大会においても同じだったのかもしれないのだが、
とにかく
いつのころからかは知らないが
美男美女のアスリートたちが雨後のタケノコのように
わらわらと生まれてきて
テレビ画面を新聞雑誌紙面を占めるようになっている。
要は
マイナースポーツの関係者が
自分の種目の注目度を挙げるのには
簡単にはいかない国際大会での成績の向上などよりも
選手たちの美男美女振りをアピールするほうがずっと手っ取り早いことに
気が付いた所以のことなのだろう。


その安直な発想には
なんだか厭きれるものがあるのは確かだが、
それに我々一般人まんまと乗ってしまっているだから仕方がない。
確かにどういうわけだか
美人や美男子に一般ピープルの目はついつい惹きつけられてしまうものだ。
好き嫌いは別にして
いわゆる容姿に恵まれた人が出てくると
はっとしてついつい注目してしまうのは如何ともしがたいことのようである。

だが、
どうして私たちは、
こんなにも「美しい人」が好きなのだろうか?

テレビや映画でだって
主人公の容姿がイマイチだと
どういうわけだか不満を感じる。
現実世界では
どちらかと言うと美男美女は
屈折した羨望から妬まれたりすることも多いのに
純粋なる鑑賞の対象となると
美しいものへの憧れはよりストレートに表れる。

どうして?

ただ、その人を見るだけでなんだが嬉しくなるなんて、
その人と仲良くなるとか、
その人と結婚するとか、
そんなこと全く考えられないことなのに。
「自分の子孫繁栄のために
よりよきパートナー獲得の能力―美―のDNAを獲得したい」
という欲望とは、
この欲求はあまり関係ないように思われてならないのだが、
それも
「美」というものへの憧れの習慣がなせる業なのであろうか?


そう思っていた私はこんな本をあることを知った。

「なぜ美人ばかりが得をするのか」

パッと人目を引くその題名(邦題)は
あくまで商業的価値を付加させるために付けられたもののようで
内容は極めて硬く、
学術的に「美」というものを掘り下げているらしい。
曰く、
「認知科学の最新研究と、進化心理学の知見をもとに、古代の美の定義から、男女の性戦略、育児の秘密、美容整形事情にいたるまで、広範なエピソードをまじえて美の本質に迫り、美しさの謎を解く画期的な本。」(「BOOK」データベースより)だとか。

へぇー、読んでみたいな。


夏も終わりに近づくことだし、

オリンピックが終わって
静かになった夏の夜を

「美」の効果の探究

に使うのも悪くなさそうですし、ね……

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2008/03/12

谷亮子選手の
「高橋失速」へのコメントに寄せて

今更ながら
気の抜けたような話で申し訳ないが・・・
日曜日の名古屋国際女子マラソンで
高橋尚子選手が27位に終わった件に絡んで。

あれから2日たった夕べ(11日夜)のこと。
―そのとき柔道の野村忠宏選手の
ドキュメンタリーがTVに流れていたからだろうか―
急に隣にいた夫がこう言い出したのだ。
「それにしても、あの谷亮子のコメントはないよなぁ」。

その谷選手のコメントとは、
フジテレビのスポーツ番組「すぽると」で語られた
高橋選手の名古屋の結果に対するもの。
確か、
「長期にわたりずっと好調を維持することは大変なんです」
みたいなかんじの内容だったか。
そのコメントが
夫には「それが出来なかった高橋選手に対し自分は出来ている」
っていう

(なんだよ、自慢かよ?)

との不快感に繋がった、とのことだ。


うーん・・・
実は
私もその言葉を聴いて
「・・・ん?」とひっかからなかったわけでもなかったのだが、
(まあ実際彼女は出来ているわけだし・・・)と
さらりとスルーしていた。
だが
夫に聞いてみると
私には流せたこの言葉も、
彼には相当カチンくるものだったらしい。


まず、
はじめに断っておくが
彼は決して谷選手のアンチファンではない。
「ママになっても金」という彼女の目標も
心から応援している極当たり前のオリンピック好きのひとりだ。
その彼が
偉大なるヤワラちゃんを批判する。
私はちょっとびっくりした。
(それほど、Qちゃんに期待していたってこと?)


一方私はといえば
正直な話
マスコミが「何かにつけて持ち上げたがる高橋選手」の扱いには
疑問をもっていたから、
今回の結果も
あまり彼女には同情していなかった
(彼女のほうだって
私を含む一般人なんかに同情してもらいたくも無いだろうし)。

だから
谷選手にしろ高橋選手にしろ
結局はマスコミに取り上げられた特別な存在であり、
同じような存在なんだから、
二人の間でどんなコメントを出し合おうと
それほど興味はないのである。
(むしろ私としては
同じ金メダリストでありながら、
マスコミには冷遇されている野口みずき選手を贔屓にしいる関係から、
「彼女にもQちゃんと等しく光を当ててやってくれ!」
という希望はあっても
Qちゃんにはその結果に見合った扱いをしたほうがいいのでは?
という批判に似た思いぐらいしかない。)

まあいずれにせよ、
谷選手が分野違いにもかかわらず
同じ有名アスリートとして名を馳せているだけという理由で
こんなところに担ぎ出されてコメントを引き出さされ
挙句の果てには
買わなくても良い反感を
何人かの人に買ってしまったかも、という事態には
同情こそを感じるとしても
反感のようなものは微塵もないというわけだ。


結局、
夫としては、
陸上というスポーツ界の花形競技にて
女子初の金メダルを獲得した高橋選手に
並々ならぬ畏敬の念を持ち期待もしていたのだと思う。
その存在は
たとえ五輪4連覇がかかっている谷選手であろうと
見下して欲しくない・・・
と、そんな気分だったらしいのだ。

・・・
もっとも
実際に谷選手がQちゃんを見下していたかどうかは
また別の問題だけれどね・・・


それにしても
あの場合谷選手としては
ああいうコメントしか言えないんじゃないかな、
と私には思えてならない。
それなのに
わざわざ門外漢の彼女にコメントを取りに行った
すぽるとスタッフの神経を
むしろ疑うべきだろう。


まあ今となっては
このコメントによって
また谷さんのアンチファンがひとり増えてしまったことに
ちょっと
同情しちゃうかも・・・

あ、
もちろん私は
別に谷選手のファンってわけでもないのですけど、ね。

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2007/07/17

イチロー選手のインタビュー

何を今更!という話で恐縮であるが・・・
今日の話題は
MLBで日本の誉とも言える活躍をしているイチロー選手のことである。

その実力については最早誰も文句の付けられるようなものでもなく、
一部の人間にとっては「尊大だ!」という不快感に繋がる彼の態度も
別に
彼的なユーモアを含んだ「サービス」の一種なのだろうと解釈すれば決してめくじらを立てるほどのものではない。
確かに、
インタビュアーの質問の幼稚さ―
特にコレコレこういう答えを導かせたいという誘導尋問っぽい質問は
傍で聞いている素人である私ですら「あーあ」と思うものが多い。
だからそういう質問への彼のややシニカルな答えは、
当然と言われこそすれ非難されるものじゃない、と私も思う。

ああでも、
それでも
私はイチロー選手のインタビューを見るのが苦手である。
「出たじゃない、出したんです」
なんていうオールスター後の発言など
もう何度も聞いたためか
チャンネルを変えてしまいたくなるぐらい辛かった。

・・・・

・・・何故なのだろうか。

そういう彼を見ていると
なんだか辛くなってくるのである。

いっぱいいっぱいのところで頑張っている
そのめいっぱいな様子が
彼を取り囲むいつもピリピリとした空気に現れている。
笑顔でチームメイトと談笑しているときですら
なんだか
「ムリしてんじゃないかな」
というふうに見えてしまうぐらいに、
彼の周りには常に異様な緊張感が存在する
―少なくとも私にはそう見えてしまう・・・

だからこそいい成績が出るのだと言われれば
返す言葉もないのだし、
そうやって常にぎりぎりのところで限界に挑戦するのが彼の生き方で
それ以外の生き方をしろと言われたところで、
そんなことはできないものなのだろうが、

そんな
張り詰めた人の姿を見るのって
結構ツラくないですか?
そんなこと思うのは私だけなのでしょうか?


というわけで
先週は夫がハシゴするスポーツニュースを
隣で見ているのが辛かった。

彼の姿は
その素晴らしいプレーだけで十分。
それが
実際いちばんノビノビと自然に振舞っているように見えるのだし、

案外
イチロー選手自身も
それを願っているんじゃないですかね。


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2006/08/31

52年ぶりの五輪?

 昨夕、2016年の夏季オリンピックの国内候補地が東京都に決定した。
 (詳しくはこちら
 実現すれば52年ぶりの東京五輪が開催されることになる。

 「ほっとしてますよ、そりゃ。こんなに選挙でハラハラしたのは久しぶりだ」
 というのは石原都知事の談。
 夕べのニュースではしつこいぐらい繰り返し流されていた。

 ライバル福岡市に比べると大分優位とされていた東京都だったが
 票分けは33対22と意外に僅差。
 行政主導で一般の関心も低い東京よりも
 熱意のある福岡市に入れた有権者も多かったということのようである。

 つまり
 「心情的には福岡オリンピックを推したいけど、
 現実問題となるとやっぱ東京かなー」

 という判断がこの結果を生んだということなのだろう。


 実は私も、
 この問題に関心があまり無いと言われる都民の一人なのだが、
 どうして「一般都民がもっと熱心になれないのか」ということを
 つらつらと考えてみた。

 まず考えられるのは、
 あくまでこれは「国内候補地」として決定しただけのことだ、
 という点。
 正式決定でもすれば盛り上がろうが、
 いくつもある世界の有力都市とまだまだわたりあわねばならないのだ。
 もしダメだったら熱心であればあるほどなんか恥ずかしいし・・・ネ

 それから、

 やったらやったでいいけれど、
 それより開催すれば発生する問題を指摘するほうが、
 なんかかっこいい気がするし・・・ネ
 (反体制って感じかな)

 そういう都会人(もしくは都会人ぶるひと)にありがちな
 変なスカしたところがあるからなのかな・・・?

 東京って大きくて便利でいい街なんだけれど、
 その反面、
 「顔の無い巨人」のように捕らえどこらがないというか、
 10何年暮らしても仮住まいのような素っ気無さがある。
 実際都内に住むようになっても
 私は高校野球で東京代表を応援したことが一度としてない。
 あたかも田舎者がそこを故郷と感じることへの畏れ多さ、というか。


 などとアレコレ考えて、
 その人生の2/3を東京暮らししている夫に聞いてみた。

 「ねえ、やっぱりこういうイベントって騒がない方が
  都会的なものかしらね」

 「・・・そんなことないでしょ?
  むしろ陣頭の都知事への反感から
  さめたこと言っているひとが多いんじゃない?」

 ・・・・!
 うーん、なるほど・・・

 そういえば、
 冒頭の「ほっとしてますよ、そりゃ」発言に、
 なんとなくイライラっとした自分を思い出した。

 案外、
 その辺りが盛り上がりを妨げる
 一番の原因だったりするのかもしれない・・・


 この結論、
 極端過ぎますか、ね・・・


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2006/07/04

空を仰いでいた彼

 昨日の
 突然の現役引退表明の文章を読んで。

 多くの人がまず思い浮かべたのは
 ブラジル戦が終わったあとの、
 ピッチに寝転んで空を見上げていた彼の姿だったのではなかろうか。

 そのとき
 彼は長く長く寝転んだまま、起きようとはしなかった。
 そんな彼のそばに、
 ひとりふたりのチームメイトは近寄り声をかけたのだろうが、
 彼は基本的にひとりだった。
 ひとりで、仰向けになって空を見つめていた。

 ひとりになることを、
 多分彼自身が望んでいたのだろう。
 そして
 それをまわりも知っていた。
 だから彼はひとりで空を見つめ続けていた。


 が、
 その映像を私と一緒に見ていた人は、
 数日後、こんなことを言っていた。
 「その光景が今の日本代表の姿を表している」。

 個人を尊重し、互いに必要以上にズカズカと入り込まない。
 常にクールでナイフのように鋭いリーダーに、
 生半可な言葉など全く不要であることを
 心得ている仲間達。
 そしてその仲間達に対し、
 「能力を十分持ち、
 それを各々が引き出すことも出来るはずなのに
 そのことを上手く伝えることが自分にはとうとう出来なかった」
 という彼。


 もちろん、
 それが日本敗退の全ての原因というわけでもないし、
 全ては結果論に過ぎないのだが。

 それでも
 あのひとり寝転んでいる姿こそが、
 彼という人を如実に表しているような気がしてならないのだ。

 少なくとも
 彼を個人的には全く知らぬ一観客、
 サポーターというにはあまりにもおこがましい、
 一観客としては。

 良くも悪くも・・・

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