藤原道綱の母、というひとがいます。
有名な平安時代の女流文学作品のひとつである、「蜻蛉日記」の作者ですよね。
父は伊勢守正四位下藤原倫寧(ともやす)、夫は有名な藤原道長の父で藤原氏最盛期の基礎固めをした藤原兼家。
一介の国司の娘の右大臣の御曹司との結婚なわけですから、彼女の結婚は結構な玉の輿だったのでしょう。結構な美女でその才媛ぶりもなかなかのものだったそうです。
そんな彼女なのですが、
それにしても、「道綱の母」っていう呼び方しかないのもあんまりな気がしませんか?
もちろん、彼女にもちゃんとした名前はあったのでしょう。しかし宮仕えをしてその才媛ぶりを世に知らしめることもなかった彼女には清少納言や紫式部のようなニックネームさえ後世に残こすことはありませんでした。
その結果として、彼女の妹の娘である菅原孝標の娘(「更級日記」の作者)と同様に、公文書に名の残る男性との関わり(「~の母」や「~の娘」のような表現)によってその個人を識別するほかはなくなってしまったのです。
それは中学生のときでした。
「じゃあ、どうして『道綱の母』は『兼家の妻』とか『倫寧の娘』というふうに呼ばれなかったのでしょうか」
と先生が質問したことがありました。
答えることが出来ず困惑する生徒を前に先生はこう続けます。
「当時は一夫多妻の時代。『兼家の妻』では当てはまる人物は複数です。そういう意味では『倫寧の娘』もひとりの人間をあらわすのは不適当ですよね。そういう点で『母』というものはどう考えてもひとりしかいないわけで、そんなところからも『道綱の母』という呼び名が適当だったのでしょう」
今ならば、
「じゃあ、孝標の娘はどうなの?結婚しなかったの?子供いなかったの?」
なんて屁理屈をこねるところですけれど(実際孝標の娘も結婚して子も儲けていますが、「橘仲俊(孝標娘の子の名)の母」なんてのは聞いたこともないです、結局名を使ってもらうのにもある程度の知名度も必要なのでしょう)、
中学生のころは疑うことを知らなかったのでしょうね。
この先生の説明を聞いて、私は「なぁるほど」と思ったものでした。
しかし、
それと同時になにやら子供の悲哀のようなものも感じたわけで・・・
(ひとりの人間の母というものはこの世にひとりしかいない。
しかし母親にとっての子供は、産んだ数だけいるのだ)
そう思うと、
なんだか子供というものが何やら哀れで、
どんなに想っても決して完全には報われぬ片想いを見るような気がしたものでした。
(つまり、親子関係は一対複数のある意味バランスの偏った関係なのだ)
そう思った私は
(それじゃあ、絶対的な「一対一の関係」ってどこにあるのかなあ・・・)
ふと、そんなことを考えたのです。
結婚による夫婦の関係は今でこそ一対一が原則であり当たり前ではありますが、
それも人間同士が決めた決まりごとあってのこと。
重婚こそはないけれど離婚・再婚が珍しくなくなった昨今、
夫婦が未来永劫につながる絶対的究極の一対一関係だとは、残念ながら言いがたいですよね。
結局
(生物学的に完全なる一対一の関係というのは、親とその一人子の関係だけなのだ)
そんな結論に辿りついたような気がします。
今、子供はひとりで十分と考える親御さんが多いようですが、
「子供はお金がかかるから」とか
「少なく生んで限られた子供をよりよく目をかけてやりたい」とか
様々な理由の他にもひょっとしたら
安定した「絶対的一対一の関係」への無意識の憧れのようなものがあるのかもしれませんね。
実際、自分を振り返ってみると
ひとりでふたりの子供を「同時に分け隔てなく相手する」というのは、
これでなかなかのストレスを感じたりするものですし。
私自身が体験できなかった、
絶対的究極の一対一。
それが、一体どんなものなのか、
なんだかいまとなっては分かりようもないのですが、
ちょっと覗いてみたいような気もします。
子供は果たしてその安定した関係をどのようにとらえるのでしょうか?
より充実した安心をもたらすものとして喜びを持ってとらえるのでしょうか?
それとも、
その絶対的過ぎる関係を逃げ場のないものに感じ、辛くなったりすることもあるのでしょうか?
・・・・
もちろん、そんなことはあくまで想像に過ぎませんけど。
それでも
いろいろな弊害があったとしても、
その「絶対的一対一」に憧れる
そんな気持ちを否定できない私がここにいます。