2012/09/14

「炎上」という名の新しい楽しみ

3年ほど前にこんな記事を書いたことがあった。

「突っこみたいから、つい……」

あのときは「ひょっとして…」という程度の危惧であったが、
今やそれは確信に変わった。

某公共放送の朝の連ドラは完全にこれを狙ってやっている!!

わざと

有り得ない設定、
有り得ない時系列、
ずさんな人物造型、
お寒いギャク

等々をちりばめて、視聴者を煽るのだ。

そして
視聴者たちは
そのアラを見つけては狂喜してネットにカキコミ、
その連帯感に浸るというわけ。


まあ、
製作側としては
盛り上がるコミュニケーションの場を提供するという感覚なんでしょうな。

テレビがネットに追従した結果生まれた「新しい娯楽の形」。

確かに双方向番組とか称して
つまらん情報番組やクイズ番組で視聴者参加型の娯楽を目指すより

よっぽどエキサイティングでより刺激的な娯楽、

と言えるのかもしれません。

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2011/08/11

苦難を選んでしまった息子と
親馬鹿になりきれない父の話

スタジオ・ジブリの宮崎駿氏とその息子吾朗氏。
この夏封切られた映画「コクリコ坂から」の製作の日々を描いたドキュメンタリーを観ました。

いまや日本のアニメ界の巨匠である父駿氏と
その大きすぎる存在に圧倒されながらも自分の世界を模索する息子吾朗氏。
このふたりのぶつかり合いと葛藤がこの番組のメインテーマだといっていいでしょう。

ただ「ぶつかり合い」としては…
結果は吾朗氏の完敗といっていいのかもしれません。
彼が模索する主人公のキャラクターは「魅力がない」の一言で切り捨てられ
結局いつものジブリのヒロインどおりの「明るい元気な少女」に変えられていく。

自分の世界を描くことを目標にはじまった映画製作なのに
自分のカラーで物語を作り上げる予定だったのに
出来上がってみれば
それは父の作り上げたものの踏襲に過ぎない……

でも
それは映画製作というビジネスのなかでは
ある意味仕方のない当然なことなのでしょう。
観客はジブリのアニメを観に劇場に足を運ぶのですから。
宮崎駿氏のブランドに期待をしてチケット買うのですから。
厳しいことを言うようですが
宮崎吾朗氏の自主制作映画を見に来るのとはわけがちがう、のです。


ドキュメンタリーは結末を大団円風にもってってましたが、
その方針の変更は
問題解決の方向へ進むというよりは
ある意味残酷な最後通牒のようにも見え、
吾朗氏の悲痛な苦悩が痛々しく感じられたほど……

まあ

偉大な親と同じ道をいくという苦難

これを選んでしまった以上
それは仕方のないことなのでしょうが。


最後に
この番組の中で私の最も印象に残ってい父駿氏のこの言葉を。

「(僕は)長島監督や野村監督みたいになりたくないんだ」

実力の足りない自分の子供を引き立てる(口利きも含む)
という行為を忌み嫌う駿氏の心情、信念を表した言葉です。
要は
「自分は親馬鹿には絶対なりたくない」ってことなのでしょうが。
でも、世間はやっぱり、
息子に対する彼の態度に「親馬鹿」の片鱗を見つけてしまうと思うんですよね。
そして、どんなに駿氏が否定してもそれは避けることはできない。

結局親はみんな親馬鹿なんです。
程度の違いこそあれ。


ほんの数年前は
私も絶対親馬鹿にはなりたくないと思っていました。
こんな記事を書いたぐらい……
でも
今は親馬鹿になってもいいかもと逆に思っています。

だって
私の子に「親馬鹿できる人間」なんて
この私以外にこの世にいないんだから。

「全く親馬鹿なんだから」って陰で嘲笑われる?
いいじゃありませんか。
上等ですよ。

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2010/10/29

誰のために…

実はこれは、
前々からうすうすは感じていたことなのだが、

……どうやら
テレビっていうものは
観る人のためというより出る人のためにあるもののようだ

ということを最近確信した。


この

「出る人」たちにお仕事を与えるため

に作られているような番組が、多すぎる。


それに気がついちゃうと
もう観ちゃいられないよねぇ……


……


確かに…
テレビ離れが進むのも、仕方の無いことだ…

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2010/09/30

最もポピュラーな裏切り者、ユダ

「駆け込み訴え」、
イエスを裏切った弟子、イスカリオテのユダの独白のみで綴られた太宰の短編。

その中には
息苦しいほどのイエスへの愛憎が語られている……


今週はじめ、
この作品を女子高生たちの映像で表現する番組を観ました。
それで、ああ上手いなぁと……
女子高生の集団って
なんかそういうカルト教団っぽい変な息苦しさのイメージ、あるじゃないですか。
そういう中で一人の人気者に向けられる異常なる執着、愛、嫉妬。


……


で、
この作品に触れてみて思ったのは、

人間ってなんだかんだ言って
イエスを売った裏切り者「イスカリオテのユダ」が好きなんだ、ってこと。

いや、「好き」というのには語弊があるか、
兎に角「気になってならない人」であることは確かのようです。

古より
彼はさまざまな描かれ方をしていますよね。

いわゆる子供向けの聖書物語に出てくるような
「そこの浅いケチな悪人」から、
「イエスの教えに限界を感じた行動の人」、
または
「イエスの犠牲の手助けをした最も忠実な弟子」……


でも
ひとに最も好まれるのは
この「駆け込み訴え」のユダ、なんじゃないでしょうか。


イエスに恋焦がれるように異常なほどの愛情をもち
嫉妬ゆえに裏切りに至る、
この自意識過剰で臆病な男に
世の自意識過剰で臆病な多くの人々は共感し
その物語をむさぼり読むのです。


愛する人の素晴らしさに比べて
自分はかくも卑しい存在であることへの
身もだえするような苦悩、
可愛さあまって憎さ百倍、
結果、愛しすぎたゆえの背信へと繋がる。


うわっ、こう書いていると
気恥ずかしくなるぐらい少女趣味の世界ですね。

太宰の素晴らしいところは
かくも耽美で虚無な少女世界を
おじさんおばさんも受け入れられるような文学として
形にしたところなのかもしれません。


いやむしろ、

人はみな、
たとえ男であれ女であれ

残酷で勝手でもろい「少女の部分」を抱えて生きている

ってことなのでしょうか?


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2010/05/20

「命の大切さ」に潜む欺瞞

テレビを見ていたら、
「命というものはそんな軽いもんなのかー!」っと
二枚目さんがドラマで嘆いている……

ソレを観ていて、
ふぅー、なんだかなぁ
とため息が出て仕方なかったのは私だけだったのでしょうか?


……


もちろん、命は最も大切なものなのです。
間違いない。
但し、それはあくまで
「自分の命」あるいは「愛するものたちの命」に限ってのこと。
それ以外のかかわりのない人の命については
正直なところそれは「建前」でしかありません。

このドラマが、
いや、最近のこの手のドラマが鼻についてしまうのは
「その『建前』があまりに前面に出すぎる」からなのでしょう。
実際
生き死にが隣り合わせのようなそんな動乱の時代に
「仲良く」とか「理解しあって」なんて
現代的な価値観が大手を振っているのは
ものすごい違和感を与えるのです。


などと
モヤモヤしていた私の頭に、「ブタのいた教室」という映画の
以前目にしたあるレビューが浮かんできました。

<以下部分的に抜粋>
…そもそも「命の大切さ」なんて人間の作った幻想であり偽善であり傲慢でしかない…(中略)
「人間だけに生きる権利がある」というのは傲慢な話で、
「全ての動物には自分や仲間に危害を加える他生物を殺す権利がある」
というのが私なりの正解です。
だから「他生物を殺す」という業は実は物凄い返り討ちのリスクやストレスや恐怖を感じることで、そこを清潔で安全な教室で「かわいい」「かわいそう」というコンセプトで「生殺与奪」を議論させることが「命の大切さ」を教育する事だと本気で考えている事に、私は逆に物凄い肌寒さを覚えます。…


文中の「他生物」を「他者」と置き換えてみれば
この言葉は
一映画のレビューを超えて
そのまんま
昨今のメディアにおけるヒューマニズムや博愛観、
そして「命の大切さ」という価値感への痛烈な批判になる、と
私には思えてならない……


……


これを書かれた「はち-ご=」さんに

「ただただ感服」

するのみです。

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2010/04/15

「くだらない番組が許せない」本当の理由

……こんな文章を目にしました。


くだらないテレビ番組が腹立たしいわけではないのだ、
本当に腹立たしいのは、
そんなくだらない番組を観て人生を無駄に過ごしている人間がいること、
そんな人間が身近に存在するということ
そのことに
とてつもないストレスを感じるのだ・・・


ああ、すごくよくわかる。

本当にその通りなわけで、
私の最近のイライラはその辺に起因しているのです。

まさに目から鱗の提言。


でも、
その方はこう続けていくのです。

しかし考えてみるとそれは自分の傲慢さに他ならない。
ソレを「くだらない」と思うのは自分の嗜好の問題であり、
ソノ「くだらない」ものを好んで観賞することは、
必ずしもその人にとっては人生を無駄に過ごしているとは言えないのだ。
それに気が付くことにより
このストレスは大分解消することができる……


ええっ?
そうなっちゃうんですか?
それだけ?
それだけで
このストレスから逃れられるの?
本当に?


……


なるほど。

考えてみると、そうなのかもしれません。

とりあえず
人との付き合いで何かの番組を観るのはやめにします。

自分が観たいものだけを、観るようにします。

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2010/03/16

アカデミー賞にみる友好度?

たとえば
トヨタのプリウスの欠陥問題とか。
それから
普天間飛行場の移転先問題とか。

どうもねぇ……
最近どうもあんま上手くいってないって感じなんだよね、日米間。

ってトコに先週のアカデミー賞ときた。
長編ドキュメンタリー賞は日本のイルカ漁を扱ったモノ。
あーあ、やっぱりって感じだ。


「今年だったら絶対獲れなかったよな。」
と、ニュースを見ながら夫がぽつりと言う。

ああ、「おくりびと」か、そうだよね。
外国語映画賞ってのは、友好国の間に順番で与えているっていう印象もあるし。

アカデミーのお偉いさん曰く
「そろそろ日本作品にも獲らせてやってもいいじゃないか?
そういや、なんかあったじゃないか、
葬式かなんかのオリエンタルでエキゾチックなヤツが。
アレにしといたら?」
って感じ?
確かに今年だったら絶対無理って雰囲気だった。


夫「なんだか、そう思うとなんとなく癪だよな。」

……ん?
何が癪なの?それってアメリカに対してってこと?

夫「……今年だったらよかったのにってさ。」

??
それって?
あの映画の受賞が癪ってこと?

私「もっくんが癪に障るの?」
夫「いや、もっくんはいいんだけど、さ……」

と言葉を濁す彼の気まずそうな顔に
私は全てを察知した。
そして、
去年レッドカーペットをはにかみながらも誇らしげに歩いていた
国際派女優のしなやかな美しさを
思い起こす。


日米関係の先行きではない。
動物保護と独自の食文化の問題でもなかった。

彼の頭の中にあったのは、
その後
どういうわけだが助演女優賞を獲ったわけでもないのに
アカデミー女優の肩書きがついてしまった彼女の得意満面の笑顔―

それゆえの舌打ちだったのだ。


……そこかよ!

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2009/12/11

突っこみたいから、つい……

……
世の中には、あるんですよね。
突っ込みたいから、つい観ちゃう番組って。

ネット上にレビュー板が現れてから、
ますますその傾向が顕著になったっていうか……

某公共放送の看板番組は
「スイーツ大河」とか陰口をいわれてから久しいですが
先月最終回を迎えたものもあちこちから非難轟々のわりには、
視聴率は結構よかったみたいですし。


まあ、
これはテレビや映画だけではなく連載小説なんかにもいえるのでしょうけど、
「その展開にイライラさせられながら」も
「つい惹きよせられちゃう」っていう
矛盾した視聴者や読者っていうのも少なからずいるもんなのでしょうね。

そして、
以前「不倫純愛至上主義?」という記事にもかいたことですが、
そういうひとたちも
実は売る側にしてみると立派な購買層なわけで、
むしろ数が限られる「善良なファン」よりも
そういう大多数の「意地悪なアンチ」をターゲットにするほうが
商売としては手堅いものなのかもしれません。
良質な作品より
陳腐なもののほうが手っ取り早く量産できますから。

つまり、
「心を震わせる感動」や
「やられたという驚嘆」も売り物なら、
「誰かとの『イライラするね!』との共感の対象を提供すること」も売り物。

もちろん、
後者の場合あまり度重なると
本当に愛想尽かしされてしまうことになるので
あまり安易な商売にばかり走るのはお勧めできないのでしょうが……

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2009/09/15

究極の安楽なる生活

既に随分前になりますが、
今年の初めに
「ウォーリー」という映画を観たことがありました。
人が汚して見捨ててしまった地球を
ひとりひたすら掃除をし続けるロボットの物語。
話としては
それほど目新しいものもない
ごく普通の心温まる家族向けムービーだった気がします。

でも、
そのありがちなストーリーの中に
ひとつだけ私に強烈な印象を残したものがありました。

それは
地球を捨てたあと快適な宇宙船の中で送っていた
人類の生活のさま…


彼らはね、
皆ホバークラフトみたいな動くカウチに座ったまま
テレビを見ているのですよ、
朝から晩まで。
全然動かないから丸々と太って、
シェイクのような流動食を飲み込みながら
日がな一日画面を見続けている…


ああ、
なんだかなぁ

(これが人間が望む究極の安楽な生活ってものなのか)

って、涙が出る思いがしました。


完全に他の人との関係を絶った
孤独な安楽。


確かに
他人と触れ合うことは
楽しいこともあるけれど面倒なこともある。
時には深く傷つくことも…
一方
テレビやゲームに情報や娯楽を与えられるのみの
完全に受身の生活には
そんな面倒はないし危険性もない。

結局
「そんな他人に傷つけられるかもしれない」
というリスクを侵してまで
みんなで団子になってくっついて生きてきたのは
もちろんそうしないと「生きらなかったから」に
過ぎなかったのでは?
そうだとしたら
本当に豊かになり
―即ちもう
 人類が最後の一人までちゃんと生きられる食糧や環境が
 既に全て整備され尽くされ
 飢餓や病の心配から完全に解放された―
としたら
人は一体どうするのでしょう?

人間は純粋に自分の安楽のみを追及し
このような孤独な安楽を
果たして選ぶのでしょうか。


実際
こんな生活を送るようになるなんて
多分絶対有り得ないはず…
人間はそこまで受身にはなりきれないし
他人との触れ合いや他人に認めてもらうことに対する欲望も
捨てきれるようなものでもないとも思うのですが。


それでも
じっと下を向いてゲームにのめり込んでいる子供の姿や
起き抜けにまずスイッチを入れ
服も着替えずに
そのあと何時間もダラダラとテレビを見続ける若者の姿をみるにつけ

ああ、
この人たちにとっては
恋愛とか友情とかも面倒な部類に入るのかもな

なんて
そんなことを思っちゃったりするのです。


生きる力ってものが
どんどん少なくなっている
人間という種の衰退ってヤツなんですかね。

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2009/01/28

あの白人女性の涙は永遠のものか

映画「クラッシュ(2004)」を観た。

人種のルツボ、自由の国アメリカの抱える病―人種差別。
その忌むべき存在は
決して悪人の中にあるだけではなく、
世界中の正直で優しく善良な人々の中にも潜んでいること。
その善良な人々がひとたび理性のバランスを崩すと
ムクムクとそれは頭をもたげてしまうこと。
そして
衝動的に見せてしまう彼らの本性に
差別される側はどうしようもなく叩きのめされ、
善男善女自身も自分の正体に愕然とする……


結局、
言い古させた言葉だが、

「善人悪人というものはこの世には存在せず、
ある人が行ったことが良いことだったり悪いことだったりするだけ」

……ただそれだけなのだ。


……


この映画を観ながらふと思い出したのは、
先日のオバマ大統領の就任式のとき
テレビに大写しにされていた
ひとりの白人の女性の顔。
彼女はその感動のあまり涙を流していた。

この歴史的に新たなる一歩に涙した彼女も
もしもこの先自分が失業や病、災害などの不運に見舞われたとしてその際に
白人であるが故の逆差別に遭遇したら、
自分たちより優遇されてしまっているアフリカ系同胞に
「ニガーめ!」と心の中で罵るのだろうか?
また
不運にも自分の愛する家族が犯罪に遭遇した際に
その犯人がアジアあるいはアラブ系だったりした場合においては
この国における有色人種の存在そのものを
忌々しく感じ、彼らに侮蔑の目を向けるのだろうか?


アメリカの可能性と未来への自信を取り戻した
あの日の感動の涙をも忘れて……?


それもあるかもしれない。
また、ないかもしれない。


ただ
人間というものは、
天使にもなり得ればその次の瞬間悪魔にでもなる、
もちろんその逆もありうるということ―

それだけは確かなことだ。


そして、
もうひとつ言える確かなことは、

それを再認識させるには
この映画はかなり上質な媒体であるということ―


「クラッシュ(2004)」

この映画を未見の方は
オバマ新大統領という初のアフリカ系アメリカ大統領誕生を機会に
是非一度ご覧になってみるといいかもしれません。

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