2016/09/23

とあるクラッシックコンサートにての雑感

先頃、あるコンサートを聴きに行きました。

友人が、そのコンサートに合唱で出演するもので、
彼女の舞台姿を見に行く、というスタンスでの鑑賞だったのですが…

いや、アマチュアとしての参加でありながら
その舞台のきらびやかなことと言ったら、
びっくりするほどのゴージャスさです。

さすが、
総務省統計局のデータによるところの住民の平均年収トップ高級住宅地エリア。

隣に座った奥様方もなんとなく上品で、
耳に入ってくる会話の端々にもヨーロッパのオペラハウスの名前が出てきたり
そこはかとなく漂うセレブの香り…

でも、ね…
なんとなく普通のコンサートっぽくないんですな。
たぶん観客の9割方がその合唱団の関係者っぽいっていうか、
発表会のような様相が会場全体に占めている。

たとえば、
先ほどのオペラハウスの名前を嬉々と話していた奥様は、
彼女の大切な人が出ていないであろう前半の管弦楽演奏中では
ガサゴソとパンフレットを音を立ててめくるし、
他にもピアニッシモでの演奏中にもかかわらず遠慮ない咳が聞えたり…
(これはまあ生理現象ですから目くじら立てるのも何なんですが)


たまたまそのコンサートに来ていらしたらしい普通のクラッシックファンの感想が
後日ネットにUPされているのを拝読したのですが、
その方もそれについて書いていらっしゃいましたね。
「定期演奏会に来る聴衆とはまったく違う客層だ」と。

まあ、かくいう私もこのオーケストラには全くなじみのない、
いわば友人を見るために来た
まさに「まったく違う客層」に属す聴衆のひとりです。

ソリストがどんな有名人でも、
コンサートマスターがどんなに優れたバイオリニストであっても、
所詮自分にはあまりかかわりのない人。

だからそのオケのコンマスが出てきたところで何の感慨もないから
型どおり指揮者が出てきて挨拶して初めて拍手ということになるし、
それが済んだら曲が終わるまでは何が起ころうとも絶対拍手はしない。
楽章の合間にソリストたちが登場しようが何しようが、
それがマナーだと固く信じて沈黙を守ります。
(考えてみると普通の演奏会では違いますよね。
コンマスが登場したり、楽章と楽章の間にソリストが登場したりすると
そのたびに彼らへの拍手が確かに沸き起こるようです。)

その代わり、
感動の如何にかかわらず、
曲が終了すればもう割れんばかりの拍手を
指揮者に、オケに、ソリストたちにと惜しみなく注ぐ…
通路側の奥様達に遠慮して
休憩時間にロビーで身体を伸ばさなかったことがタタり、
後半は腰がつらいことになりましたが、
それでも懸命に拍手を続けました。

まさに日本的儀礼の喝采。
もちろん素晴らしい演奏だったことに間違いないのですが、
その演奏より、(私を含める)聴衆の雰囲気の違和感のほうが気になる、
そんな舞台になってしまったことは確かです。


友達の舞台姿をみるのはとても晴れがましく
誇らしい気持ちいっぱいになったのですが、
なんだかちょっぴり惜しいかんじ。


なんなんでしょうね、
この感覚は……


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2013/02/07

劇場のマナー

子供が出る音楽会に行って来ました。
平日だったので半休取って…

休暇の申請をした時、上司がこう言ったんです。
「(非常事態の場合の)連絡はつくんだよね?」


……すみません、

「いえ、ダメだと思います」って言えなかったの私の気の弱さゆえです。

だって、
事務所はたった一人の常駐者である私がいないと(=休業)になっちゃうし…
子供の学校行事の参観ごときで
一企業の活動を停止させるのはどうも気が引けて…


というわけで
携帯の電源を切らずにマナーモードの状態で客席に着かざるを得なくなった私。

(マナーモードのバイブって
 接触しているものによってはものすごい音になっちゃうし
 何よりあの着信したときのライトは結構に目につくんだよね、
 特に客席の暗がりでは。)

という経験から、

(携帯は
 ダウンコートのポケットに入れその部分をしっかり握って、
 座るのは
 中座しやすいドア付近の端の席…)

そんなことを気にかけながら音楽ホールに向おうとしたのですが、
結局、出かける前にまさかの仕事のトラブル発生。
それを片づけた後、
遅ればせながらホールに駆けつけ
なんとかぎりぎり開演に間に合ったのでした。


先に行っていた
夫が取っていてくれた席はなんと桟敷の一番奥の「端の席」。

私:確かに「端の席」だけど、これじゃ意味ないじゃん!
夫:え、だってもうトラブル片付いたんでしょ?
  午後には戻るんだし、いいんじゃないの?

……
もう面倒だから携帯の電源切っちゃいましたよ。
おかげでゆっくり音楽を楽しむことができました。
(ちょっとは心配だったけど)


……


ちなみに
夫の隣の方は演奏の間中、ipadをいじっていたそうです。
(多分自分の子供の出ている時は、聴いていたんでしょうが。)

もう、そんなんなら来なくてもいいのにね!

なんて思ったけど、
あんまり他人のことは言えないか。


携帯の電源を切れないヤツは劇場になど来るな!

という辛口のご意見に、

「光もバイブを自分だけにしかわからないように配慮するし
 すぐそっと離席するから、勘弁してよ」

と辟易していた自分を思い出して、思わず苦笑してしまいました。


結論:人は皆自分に甘く、他人には厳しい

ってことですかね。


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2007/06/14

音楽を奏でる生活

子供のころ、
ピアノを習ったことがあった。

多分自分から習いたいと言ったのだと思う。
あまり裕福ではなかった我が家であったが、
親はだまってその要望を叶えてくれた。
家での練習用には、
母は少し無理をして電子オルガンを買ってくれた。

だが、
そこまでしてもらいながら
私のピアノのお稽古は長くは続かなかった。
バイエルの上巻、
両手で同じ調べを弾く練習あたりで私は敢無く挫折。
練習嫌いで家ではほとんど練習しないのだから、
さすがにレッスン中も肩身が狭い。
そんな日が続くと教室へ向かう足も重くなるのが当然だ。
教室に行く振りをして家の片隅にこっそり隠れているのが見つかったとき、
母は私にピアノをやめさせることにした。

不思議なことに、
母はこのなりゆきにほとんど非難めいた言葉をもらさなかった。
それどころか、
「やっぱりピアノを買ってやらなかったから、
・・・悪かったわねぇ」
などと自分を責めたりする。
己のことを親に対ししみじみ「情けない」と思ったのは、
人生においてこのときがが初めてだったのかもしれない。

こうした「情けなさ」が私に
ピアノへの未練を残したのだろうか。
矛盾しているようだが、
こんなにもあっさりと辞めてしまったくせに
私の中のピアノをはじめとする楽器への憧れは
その後も消えることはなかった。

・・・


月日は流れ、
今、我が家の居間にはピアノが置いてある。

結婚して娘が生まれたころ衝動買いしたもの。
もちろん自分で弾くつもりで教本なども用意したのだが、
乳飲み子を抱えているとピアノなんて優雅に弾いちゃいられない。
結局成長した娘もピアノを習わなかったから
誰も弾ける人のいない我が家には不似合いなピアノだけが残されているといった感じ。

それでもポツリポツリと子供たちは弾く。
学校の音楽の教科書などをひろげ、
指一本で弾いていたりする。


最近になり、
私もまたピアノを弾き始めた。
家族が出掛けてしまったあと、
自分の出勤前のほんの短い時間、CD付教本で練習する。
不器用な私に
右手と左手が別のメロディーを奏でるなど
絶対できないと思ったものだったが、
不思議と練習すればなんとかなるのだ。
(どうして子供の頃はそれが気付かなかったのだろう・・・?)


「ピアノが弾けるお母さん」
それが長いことの私の夢だった。

だが、
弾けなくとも
(=人様にお聴かせする腕がなくとも)
自分の楽しみで「ピアノを弾くお母さん」になることは簡単だったのだし、
弾けるのに「弾かないお母さん」も多い中
それが出来るのは大変貴重なことなのではないか。

だから、
というわけではないのだが、
私の夢は変わった。


「ピアノが弾けるお母さん」から
「ピアノを弾いてるお母さん」へ、と。

そうして、

音楽を奏でる生活って
案外手近にあるものだった・・・って

遅まきながら
今頃やっと気が付いたというところなのである。


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2006/01/27

モーツァルトはお好き?

 ラジオから、ちょこちょことモーツァルトの楽曲が流れてくる。
 それを聴きながら私は
 「このメモリアルイヤーはクラッシク音楽業界にはちょっとしたビジネスチャンスの年になりそう」
 という先日の新聞記事を思い出す。
 2006年1月27日、
 今日はモーツァルトの生誕250年目の記念日だ。

 数ある作曲家の中でもモーツァルトを好む人は多い。
 軽やかで聴きやすい、癒しの効果もある。
 クラッシック音楽を聴いてみようかなんて思ったときとりあえず手に取るには最適なのかもしれない。
 だからってビギナー向きのみの作曲家ではもちろんない。
 クラッシクに精通した人もまたこの軽やかで心地よくとっつきやすい音楽に、
 聴けば聴くほどに、奏でれば奏でるほどに深みを感じるらしい。

 それほど多くの人を深く魅了するモーツァルトの音楽。
 しかし、私自身はさほどモーツァルトの曲には夢中になれないでいる。

 もちろん私だって、トルコ行進曲やアイネクライネナハトムジークを鼻歌で歌ったりもする。
 映画「アマデウス」も好きだし、その中でかかっていたレクイエムもいいと思う。
 でも素晴らしいと言われるオペラ「フィガロの結婚」の伯爵夫人のアリアなど、注意して聴いているにもかかわらずいつのまにか終わってしまっていたり、
 「魔笛」の夜の女王のコロラトゥーラなんて「すごい」とは思うけれど「鳥肌」なんて立たないし・・・
 つまり私が比較的興味あるジャンル、オペラについては好みの作品がモーツァルトにはなかったということだけなのかもしれないのだが・・・
 だが、それプラス「私が好きにならなくたって他にいっぱい好きな人はいるんだからいいよ!」みたいな気持ちもあるのだ。
 生来のあまのじゃくのせいで、超メジャーなものにはどうも食わず嫌いの傾向が私にはあるらしい。


 しかし、今月の初めに読んだあるエッセイにより、
 私の中にはそれについてのちょっとした変化が生じたのだった。

 「・・・モーツァルトを経ずに他の作曲家のファンになっている人たちには、どこかつっぱった突拍子もないところがあるように思われる。
 何か無理があるというかというか・・・
 一方モーツァルトをよく聴き込んだ上で改めてその他の作曲家の愛好家となった人には、余計な力が抜けている・・・」

 こんなような内容の文章が、
 とある雑誌の新年号でモーツァルト特集に寄せられていのである。
 モーツァルトを経ずして他の作曲家を密かに愛好している私には当然あまり面白くはない。

 (ええぇー、なんか納得いかないなあ。
 そんなにすごいの、モーツァルトって?
 それじゃあまるで音楽の規範か神様みたいな扱いじゃない?)

 と不満たらたらに最初は思ったものだった。
 が、しかし、
 それから半月たった今でもその言葉が頭にこびりついて離れないでいるのも事実なのだ。
 それは

 「・・・どこか無理がある・・・」

 というその指摘に対して認めたくないながらもある意味真実をつきつけられたような感覚があったからなのだろう。
 他の人はさておいて私の場合に当てはめてみると、
 この言葉はまんざら出鱈目ではないようなのだ。


 では、とりあえずモーツァルトの中で好きな曲でも探してみようか・・・

 ちょっとそんな気になってきた。

 ひょっとしてモーツァルトには人を素直にさせる何かがあるのだろうか?
 それが、
 彼の音楽の魅力であり
 多くの人に愛される理由なのか?

 それはまた、
 モーツァルトをじっくり聴き込んだその後でということで。

 今年の終わりごろ、
 私の中の「つっぱったところ」がなくなっているとしたら、
 そのことについてはまた書いてみるとしましょう。


 ところで最後に
 これを読んでくださったあなたへ、

 あなたはモーツァルトがお好きですか?

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2004/08/24

オリンピックの密かな楽しみ

子供と一緒に眠ってしまい、はっと気づくともう1時をまわっていた。
階下に下りていくと夫がオリンピック中継をテレビで見ている。
起きてきた私に向かって彼はうれしそうにこう言った。
「ハンガリーの国歌、初めて聴いちゃったよ。」
へえー、ハンガリーの国歌?
「珍しくマイナー調の寂しげな始まりなんだよね。でもだんだん盛り上がってきて、元気が出でくるんだ。なかなか感動的だよ。『いろいろ苦労したけど最後はみんなで頑張って幸せになりました』って感じだな。」

彼は、ハンマー投げの表彰式を見たらしい。
室伏選手を抑えて金メダルを獲得したのは、確かハンガリーの選手だった。
マイナー調ということはチゴイネルワイゼンみたいな感じ?
東欧の荒涼とした風景やそこを彷徨するジプシーたちの姿が目に浮かぶ。
ああ、聴きたかったなあ!

こんな風に書くと、いかにも私が国歌フリークで、数十カ国の国歌を知っているかのごとき人物のようだが、そんなことはない。知っているのは極々わずか。
ご存知のアメリカに始まり、荘厳なイギリス、『自由・平等・博愛』の象徴だが勇ましげな軍歌でもあるフランス、統一への憧れに溢れたドイツ、民族色の薄い共産中国、唱歌風の懐かしさのある韓国、それにちょっと変わったところで、チリなんてぐらいだ。
なぜここにチリが出てくるかというと、何回か前のサッカーのワールドカップで2度ほど聴いたことがあるから。エンディングが3回繰り返されるというクドさがとても気に入り、その大会で決勝トーナメント進出ならずして敗退したときは、「もう当分この国歌が聴けないのか」ととても寂しく思ったものだった。
事実それ以降1度も聴いていないのだが、今回のオリンピックでチリはなんともう2個も金メダルを獲得しているらしい。つまり2度もあの曲がアテネの空にかかっていたのだ。うーん、聴き逃したのはまことに残念。(もっともそのシーンがテレビで放映されたかどうかは定かではないが・・・)

そもそもオリンピックのようなスポーツの祭典でもなければ、なかなかそういった国の国歌など聴く機会はないものである。
国歌にもその国の個性のようなものが表われる。
先ほどのハンガリーしかり、チリしかり。
特に南米の国歌は結構オペラ風でドラマチックなものが多い。
熱きラテンの血のなせる技か。
そういうところでその国に触れたような気になるのも、「また楽し」だ。

今まで迂闊にも日本の金メダルラッシュに浮かれて、未知の国歌に触れる絶好の機会を逃し続けていた。
これはいけない、日程も後半になったこれからは表彰式のシーンには気をつけていなければ・・・


さて、そういえばロシア国歌をまだ聴いていないことに、今気づいた。

今頃になってこんなこというのも恥ずかしいが、
もちろん、ソビエト国歌じゃなくなったんでしょう?

もしご存知の方がいたら、ご一報くださるとありがたいです。

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