2011/05/27

「いまなにをならっているの?」

その旧友の言葉に私たち3人は一瞬固まった……

前回の書いた旧友との再会から10日あまり。
実はそのとき、
その15年ぶりの旧友から発せられた

「皆、いまなにをならっているの?」

という言葉が今も頭を離れないのだ。

この言葉を発した彼女は、
今でこそ転居のために失職中だが、
それまでは「主婦業の傍ら勉強を続け、大学講師という職を獲得した」努力の人。
一方聞き手たる我々
―専業主婦1名、SE1名、そして私の3人―は
仕事だの家事だの子育てだのPTAだの、
とまあ要はそういう雑事に追われているのを言い訳に
同じような日々を重ねてきたごく普通の人たちである。

思い出話と家族の話、
話題がほぼそれにとどまっていたのは
「本当の友達」云々もあるのかもしれないが、
話すような「私自身の『なにか』」がないのも事実。


……


いやいや、わかっている。

習い事に血道を上げること=充実した人生

という図式がいかにも短絡的かつ陳腐なことも。
「カルチャー主婦」という言葉に
揶揄のニュアンスを多分に含んでいることにも
それは如実に現れている。


でも、
それでも、
何かを始めたい

そんなふうに思う心を抑えることは出来ないのだ。


では何をやる?

楽しんで長く続けられる、
しかもほどほどの努力による達成感もある何か

そういうものって
ありそうでいてなかなか無い。


うーん


とりあえずは
やはり音楽、楽器、それから読書かな。
今聴いているオペラの歌詞から、語学もすこし齧れるかも。
語学なんて
若いころの野心が無くなったあとだから
逆に純粋に娯楽として楽しめるような気がするし……


……

いや、楽しくなってきた。

あとは三日坊主にならないこと、だね。

というわけで
電子辞書のドイツ語カード、買っちゃいました(汗)。

現在「Toristan und Isolde」」で楽しんでおります。

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2010/06/23

実験は苦手でした……

子供が理科の質問をしてきた。
光合成の実験についての問題だったか。

その実験内容のレポートが書かれた子供のノート、
それを見ているうちに
「ああ自分は実験が苦手だったなぁ」
という記憶がつくづくと思い出された。

実験が好き、という子は昔から結構いる。
確かにじっと座って先生の言うことを黙って書き写す普段の授業より
目先は変わるし好奇心も満たされる実験は、
楽しいものなのかもしれない。
そして
本当の学問好きの子というものは
そういう子供なのかも……


でもなぁ……

それでもなぁ

私には
そういう実験の学習に対する効果、
科学の真理を発見した喜びみたいなものが、
感じられることがまるでなかった。
どちらかというと
「教科書に書かれたわかりきったことを
どうしてこんなに七面倒くさい手順(=実験)をふんで
再確認しなくちゃならないのか」
というシラケた気分でその場に臨むのがほとんど。
だから
張り切って実験を仕切る優等生や
悪ふざけをしている悪童たちのやることを
ぼんやり傍観しているのが常のことだった。


そういう「傍観しているだけの子供」って、なんか情けないよね


自分のことながら、それはよく感じていた。

そこそこ真面目であるゆえに普段の受身の授業には
それなりに成果をもつことが出来る自分だった。
だからこそ尚更
能動的な学問への取り組みが苦手な自分を
「ダメなやつ」と思う気持ちは強い。
レポートの評価は
どんなに気合を入れて作成したものでも
いつもB以下。
ちゃんと丁寧にまとめていたつもりだったのだが
何かが足りなかったのだろう。
それは
ひょっとしたら
自然科学への興味とか好奇心という
根本的欠点だったのだろうか?


「賢いひと」になりたい

そう思って
がんばってきたつもりだったけれど
何か
大事なものが私には欠けていたのかも……


それでも
負けず嫌いで何でも人のせいにする私は

実験=自主的な学習という看板、に
「それが得意な子は独創的で柔軟なあたまの持ち主」というイメージに

若干の胡散臭さ、のようなものも感じずにはいられない。

いや、これは
だたの私の根性捻じ曲がっているから、なんだろうが……

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2010/04/22

「幕末かぶれ」対決

龍馬ブームの昨今である。

火付け役である某公共放送の看板番組だけではない。
それが始まる前の昨年の末ぐらいからの、
マスメディアへの坂本龍馬の露出は全く大したもんなのだ。
その人生についてを語る関連書籍から
果ては彼とは全く関係のない製品のCMまで、
「龍馬」の名が流れない日はない。

去年の
割と地味目のヒーロー(しかも脚本も「?」な作品)と比べても
しょうがないのかもしれないが、
つくづく、龍馬っていう人は歴史上人気のある人物としては
間違いなくトップクラスには入る人なんだろう。
私たちがイメージするその「人なり」は、
豪快な性格、神出鬼没のフットワーク、奇想天外な発想……
ああ、もう絵に描いたようなヒーローと言うしかない。

でもなんだかなぁ……

龍馬みたいにステレオタイプな英雄って
私はダメなんだよね。

なにせ昔、
職場の友達が
「幕末で一番好きな人って誰?」と聞いてきたとき、
大村益次郎」なんて答えて、
相手を白けさせちゃったことがあったぐらいだから。
(大村益次郎って昔大河の主役にもなったとはいえ、
そんなにメジャーな人じゃないから仕方ないのだが)

ただの天邪鬼ってやつなのかもしれないけど、、
でもその天邪鬼から言わせると
誰も彼もが好きになるような坂本龍馬好きの男の人って、なんだか可愛いい。
きっと素直に「好きなものは好き!」って大声で言えるような人なんだろうなと思う。
まさに「龍馬かぶれ」だ。

この「龍馬かぶれ」って言葉、
あるCMで使われていたけれど、
あれは本当に上手く「愛すべき龍馬ファン」を言い表していると思う。
「私は龍馬かぶれです」っていう開き直りっているサマ。
本当のファンっていえるのは
「○○かぶれ」と胸を張っていえるような御仁じゃあないのだろうか。

と振り返って自分を見つめてみると、
自分は残念ながら
自らを「大村益次郎かぶれ」とはとてもいえないことに気づいた。


いやはや……

すみません、
幕末好きとしての私は、
「龍馬かぶれ」さんたちはに完全なる敗北、のようです。

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2009/10/23

ディバイデド バイ ゼロ だからじゃないんだ

この記事を読んだのは
遅まきながら昨日の夕方のこと。

 「2と1は等しい」 数学界で論議

Math_4


(すみません、2乗の表現ができなかったのでリンク元より画像も貼らせて頂きました)


つまり

左辺と右辺に同じ数(a、bの2乗、a-b、,b)を掛けたり引いたり割ったりしていくうちに
a=bは
2=1に変わってしまうということ

へぇーすごい
確かにこうやって式をこねくり回していくと
2=1になっちゃうね。


うーん?

でも、でも?

a=bなんでしょう?

ってことは、(a-b)ってことは100%、0(ゼロ)ってことでしょう?
じゃあ、
4行目の(a-b)を両辺に掛けた段階で、
もうこの「=」は全ての場合に当てはまるものになっちゃうんじゃないんですか?

△×0=□×0(両辺とも答えは絶対0になるから)

っていうのと同じことで。

さらに付け加えるなら
その0である(a-b)で両辺を割ることは、コレ、0で割るってことでご法度なんではないんでしょうか?
それ、いいんですか?

リンク元の記事によると
「世界中の数学者がこの論文の反証を試みたが、9月現在いまだに完全な解答と呼べる論文は出ていない」
「論文自体はいたってシンプルで、掲載された式だけならば中学生でも理解できる。しかし、それが誤りであることを証明するには非常に高度な数学の知識を必要とするため解明にはまだまだ時間がかかるだろう」
と権威のある方がおっしゃっていらっしゃるようです。


へえ、そうなんだ……

「0で割ってるから誤りだよ」じゃ済まないってことなんですね?


うーん、数学の世界って奥が深い……


と、思っていたら虚構新聞って・・・?

ん?担がれたってこと?

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2009/06/11

言葉が文字となる前の記憶

とある外国の方と話したときのことです。

その方はかなり流暢に日本語を話していたのですが、
日本語の読み書きのほうはさっぱりだとか。

えっ?
こんなに喋れるのに書けないの?

と、
それを聞いた私は
随分不思議な気分になったものです。

だって
私たち日本人にとって外国語教育は
「喋ること・聞くこと」と同時に「書くこと・読むこと」を平行して進行していくのが
ごく当たり前のことになっているものだから。
そして
「喋ること・聞くこと」より「書くこと・読むこと」のほうが
能力として長けているのが一般的傾向です。
(あなたも
原語上映の映画に原語の字幕がつくと
その内容がずっとわかりやすくなり
うれしくなった経験がありませんか?)

外国語だけじゃありません。
母国語にしたって
識字率が100%に近いこの国にあっては、
喋っている言葉を文字に表せられないなんていう人は、
特殊な事情のある人を除けば3,4才の幼児ぐらいなものでしょう。


つまり
私たちにとって文字というものは
その言語の発音や意味と緊密に結びついているものなのです。
いや、
その言語と文字を切り離して考える人がいないこの国においては
最早、文字と言語はほとんど同じものといってもいいのかもしれません。


でも、
世界的レベルで考えてみると
それは必ずしも当たり前の考えではない―

完全に文字と切り離されて使用されている言語は
この世界に存在するし
文字というものを使うことなくその生涯を終えるひとも
決して少なくはないはずです。


そう考えると、
言語(言葉)と文字は必ずしも一緒のモノもではなかったのだな、と

文字とは
言葉を記録し保存するために
便宜上形作られた後付けのオプションだったのだな、と

そんな当たり前のことに
今更ながら気がついたというわけなのです。


だからって
字なんて知らなくてもどーってことないじゃん!!
って開き直るわけでもないのですよ。
ただ
文字を知らなかった頃のことを
試しに思い起こしてみようかと思っても
これが全くといっていいほど記憶にない……
3、4歳のころには
「字が読めたらなぁ」なんて思ったこともあったであろうに
そんな思い出の断片もない……


だからなんでしょうか。

自分の言葉を記す文字というものを読み書きすることなく
生涯を全うする人々の感覚っていうのはどんなものなのか、と
かなり興味がわいてきます。

もちろん
その人にとってはそれは当たり前の人生なのでしょうが、

記録に残らない自分の言動や感情、知識を
惜しんだり執着することもなく、
さらさらと
流れていくような日々なのかも、とも。


文字を知ることで
私たちは数々のものを得たけれども
ソレと同時に
また失うものもあったのかも……


なんて
そんなことを考える今日この頃です。

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2008/05/23

正しい日本語表記

それは、
子供が小学校に上がったときのこと。

30年の時を経て
今また触れる「こくご」という教科に私は、
かすかな衝撃を受けたのです。

それは
今やすっかり忘れ去っているかのような
日本語表記の基本規則を改めて知らしめられた、という驚き。

たとえば、

チョロチョロとかカンカンなどの擬声音はカタカナで書く、とか

長音の記号「ー」はカタカナの表記の単語にのみ使い
ひらがなでの長音は母音「あ」「え」などを使う
(つまり「うーん」と正しくは「ウーン」か「ううん」と表記する)
、とか。


まあ、
言われてみれば確かにそうだったような気もしてきます。
私も子供のころはそれを守って正しくきちんとした日本語を書いていたのでしょう。
そうしないと先生に赤ペンで直されてしまいますからね。
でも今や
私は極当たり前に「ちょろちょろ」って書いたり、
「あー、そうなんだねー」なんて書いているのですよ。
しかも
それは私だけが独創的に書いているわけでもない。
いわば誰だってやっていること、
つまり「かなり市民権の得られた表記の仕方」だったりするわけで……


最初にこうした掟破りをした人は
きっとその表記を「斬新だなぁ」と思ったのかもしれませんね。
確かに、
「ああ」という感嘆詞を一つとってみても、
「あぁ」や「あー」「アー」「アァ」さらに漢字の「嗚呼」と書くのとでは
全てニュアンスが微妙に変わってくるものだから。
その中にで最もピッタリくる表記を選んだ結果がいわゆる掟破りの方法だったとしても、
あえてそれを使うことにしたのはある意味冒険だったのかもしれません。

でもいまやすっかり手垢のついた表記となった感のある、
「そーゆーこと!」や
「ぢゃ、ヨロシクね」なんて言葉たち。

ここはひとつ
いにしえの規則にのっとって書いてみるのも
また新鮮でよいのかも……

なんて思ってしまいました。
書いたら書いたで
きっと書きにくさも感じるとは思うのですけれど、ね。


しかし、
それにしても30年もたつと

毎日書いている日本語なのにその書き方って忘れることって結構多いものだと、

つくづく痛感させられました。
(漢字の書き順なんか
結構アヤフヤなものも多いってこと、子供にも指摘されちゃったなぁ・・・(汗))

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2008/05/20

「知っている」ことの価値

ネット環境が整い始めてから結構言われていることなんですが、
たとえばこんなこと。

インターネットが普及して
誰もが簡単にさまざまな知識を引き出す現代、
「何かを知っている」
という価値はもはや急速に低下している。

そんな言葉を見聞きしたことはありませんか?


確かに。
ネットの普及により
難しい本なんぞ読破しなくても
例えばwikiなどを使えば
上滑りとはいえ手軽に知識を手に入れることは
はるかに容易にできるようになりました。

今まで
そのただ「知っている」ってことの
量の多さや質の獲得に血道をあげていた人間としては私も、
「そんな(知っているって)ことは最早当たりまえなんですよ、
それプラス独創性がないとねー」
と言われてしまうのは正直なとこ愕然とされられる気分です。
「その知識を踏まえて新しい知識を生み出す」なんて
とても凡人には叶わない偉業のような気がしてしまいますから。

が、
しかしこんなふうにも思うのです。
考えてみると
そもそも知識ってもの自体、

とうの昔か最近かとにかく以前に、
自分ではない他人が
発見したことであり、思いついたことであり、創りだしたことだった―

ということなわけでしょう?
そう考えると、
それらを謂わばただのウケウリとして
「知っている」ということは
果たして本当に価値のあることだったのでしょうか?
いま賢いと言われるような誰かさんがよくやるとおり
得意満面に披露するほどのものだったのでしょうか?

いや、価値は確かにあるのでしょう。
「新しい知を生み出す」には
それまで積み重ねられた知を知っていてこそ、なのですから。
それでも、
それを「知っているだけ」ということは
他者に対して誇らしげにひけらかしたりできるほどのものではないはずなんですよね。
だって、
それをひけらかした瞬間に、
その相手と自分は「知っている」という点ではもはや同列になり、
ただ「先に知っていたか」「後で知ったか」というだけの違いしかないじゃありませんか。
(そして当然この2つにそれほどの差があるとは思えないのですよね)。

でも、
今周囲を見回してみると
知っている者が知らない者にその知識を披露するのは、
たいていの場合
そこはかとない優越感に溢れてるものだったりします。
(そのほとんどはどうでもいい優越感なものなのでしょうが)

どうしてなのでしょう。
どうして人は
知っているという状況を
こんなにも特別視したがるものなのでしょうか?


知識中心の学歴偏重主義の影響なのか?
それとも
そもそも人間は知識というものに特別の価値をもっており
知っている人には無条件の尊敬の念を抱くものなのだからか?

よくわからないのですが、
苦労せずして知識を得ることの出来るインターネットの出現により、
とりあえずの借り物的知識という存在が
ますます如実に表れてきたこと、
そしてそれにより
知識一般というものへの人間のもつ信仰が
揺らぎつつある過度期に
現代はさしかかっているのかもしれません。


もちろん
私は古い人間だから
物知りな人に対し無条件の尊敬の念を感じずにはいられないし、
あわよくば
そういう人の仲間になりたいなんて
欲望をいまだに抱いていたりする人間ですが、

そういう「知っている」ことのみに価値を感ずる人間も
これからは
だんだん
少なくなっていくものなのかもしれませんね。


余談ですが

個人的には
博学を披露する知者よりも
自分の無知を必要以上に卑下しないおおらかなる無知者に
人間としての器の大きさを感じます。

多分
自分にその器が無いのを自覚しているから
なのでしょうけど・・・


そういう人に
なれたらいいのになぁ・・・と

こっそり思ってる毎日です。


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2008/03/13

自分に酔ってはいけない

実は1年ほど、
密かに俳句をやっている。

去年は結社なるものにも所属して
ない頭を捻りつつ
月末までに投句するということを繰り返していた。
その句を
選者であるエラい先生に批評していただく。
その評価の良し悪しに一喜一憂していたものだった。

もちろん
その批評や選には
選者の方の好みや考え方があり
それに常に納得できていたわけでもなかったのだが。

それにしても
この投句によって
とても勉強になったことはあった。


それは、

決して、自分に酔ってはいけない

ということ。


これは季節を詠む俳句だけではない。
ちょっとした
雑感のエッセイにせよ、
感性の赴くままに・・・なんて書いた文章には
ほとんどの場合自分への「酔い」が含まれがちである。

「こんな感性をもっている私って素敵」的な自己陶酔・・・


だが、それを
「そんなふうに思っているのはアンタだけだよ、
読んでる人にとっちゃ不愉快なだけ!」と、
バッサリと歯に衣着せぬ毒舌で切られると
正直かなり、凹む。
ほんのぽっちりあった自信も何もかもが
ガラガラと音を立てて崩れ去る。

でもそれが真実なのだ・・・・

(例えば誰かのそういう酔いしれた文章を目にした事のあるアナタなら分かりますよね―苦笑)


もちろん
この「自分に酔ってはいけない」という鉄則は
俳句だけでなくどの創作活動にも共通して言われていることなのだろう。
だが、
特に五七五の十七文字という極めて短い言葉の中で
季節感というとてつもなく漠然とし広がりのあるものを表現せねばならない
この世界においては
ことさら厳しく要求されているもののように感じられる。


というわけで、

どうもこのブログにも
最近「感傷的な呟き系」が漏らしにくくなってしまったような・・・


・・・


「いや、
そんなこと全然ありませんよ、
相変わらず自己陶酔型文章は健在、
読み手としては毎度シラケさせてもらっています」

とのご意見の方がいらっしゃったら、

すみません、
まだまだ修行が足りないようです。

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2007/10/12

私の見ている赤とあなたの見ている赤

我が家のとっている夕刊のコラム執筆のメンバーが
また9月から一新されました。
それにより脳科学者池谷裕二氏の文章が毎週読めるようになったのですが、
これがなかなか面白い・・・
以前このブログでも
彼のラバーハンド・イリュージョンについての文章にも触れましたけど
(詳しくはこちらを参照)、
先週のものは、
匂いを発生させるある物質が、
人によってまるで違う感覚を引き起こしているという
現象について述べたものだったんですよ。

どのような現象なのかと言うと
人によっては
吐き気を感じるほどの嫌悪感を感じさせる匂いが
別の人にとっては甘く心地よい香りに感じられる、
ということのよう。
もちろん
それは「人の好み」などという
個性の問題ではなく
もっと科学的な脳への作用という領域の話なのです。

更に池谷氏はその事象について語ったあと、
こうも続けるのです。

古来より哲学において問題となっている
「私の見ている赤とあなたの見ている赤は同じ赤なのか」
(即ちそれは発展させると
 「私の認知する世界とあなたの認知する世界は同じなのか」
 ということ)

というテーマは、
脳の研究が解明されるにしたがって
その可能性は低くなりつつある、と・・・


うーん、
しかしそれが本当なのだしたら

私たちはバラバラの世界をそれぞれ抱えて生きており、
あなたの世界を私は一生知ることもなく、
あなたも私の世界を決して垣間見ることがない、

ということになりはしませんか?
それにもかかわらず、
私たちはその世界を共有しているのかのごとく
笑いあったり喧嘩したり共に慰めあったりしている・・・

・・・ちょっと愕然とします。

私たちの世界とはそんなにも「孤独なもの」なのでしょうか?


ひょっとしたら
その孤独さに耐えかねるあまり
共通世界なるものを私たちは無意識に作り出しているのかもしれません。
自分が
暗い宇宙に一人隔絶された存在ではないことを
確信できるように・・・


ひとつひとつが遠く完全に切り離された私たちの世界。
それをつなげるのは
ただひとつ「互いに共感を求める心」それだけ。


・・・


こういう話って
ちょっと寂しく
それでいてなにやら心温まる話じゃありません?

私としては決して嫌いではないのですが、
みなさんはいかが思われるのでしょうか。


・・・やっぱり寂しいだけ?ですか、ね・・・

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2007/09/21

幻覚の支える社会

一昨日の夕刊のコラム欄にて、
脳科学者池谷裕二氏の文章を読んだ。
載っていたのはある実験の話。

その実験とは

1.片方の手を机の下に隠して、机の上にはゴム手を用意する
2.そして本物の手とゴムの手に
  同じ刺激を同時に繰り返し与えつづける 
3.するとだんだん見えない本当の手ではなく
  目の前のゴムの手のほうが
  自分の手のような錯覚を抱くようになる

というのものだ。
(この「視覚のみによる触覚情報が”幻覚的”触知覚に与える」
という現象は、
ラバーハンド・イリュージョンと呼ばれているらしい)

この話から
池谷氏は
「脳による認識の中では
『自分と他者との境界』は意外とあいまいなもの」と続けられる。
それは動かし難い絶対的なものではなく、
その場の状況や与えられた情報により流動的に揺れ動くものであると。

私はかつて拙記事「自分から生まれ出る他者」の中で
「自分か他者か」という概念とは
「自分の精神の支配する範囲かそれ以外か」である、
ということを書いたことがあった。
自分とはあくまで認識をする側であり
その認識に主観を抱くものである。
一方他者はその自分の外に存在するものであり
常に認識の対象であって認識の主体たる自分とは全く別のものであるのだ、と。

しかし、
この現象によると
その2つを分ける決め手となる「自分の精神が支配する範囲」の認識自体が
をきわめてあやふやな基準を元に動いているということになる。
自分と他者の識別がこのように
いとも簡単に混乱するということは、
意外でありとても興味深い。

こんなことを聞くと、
ありえない話ではあるが、

個としての意識を訓練次第で
世界規模の意思への変える事ができるのではないか?

例えば
他者の痛みを
世界の痛みを
地球の痛みを
自分の痛みのように感じることができるようになるのか?

などという
そんな妄想も浮かんでしまいそうだ。


そういえば
池谷氏も
このあやふやさをむしろ
「人がただ個としてのみ生きるだけではなく
他者への共感や共通目的への努力という公への意識を生む」ものだとして
あってしかるべきものと評している。


言い換えるならば
こうした幻覚がなければ

社会というものは成り立っていかないもの・・・

実はそういうものなのかもしれない。


・・・
しかし、

「幻覚」が社会を支えているとは、

なかなか皮肉の利いた話のような気もしてくるのだが・・・・


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