2013/11/30

「親子で決める!」っていったい…

今私の目の前にある雑誌…

「親子で決める!大学選び」云々。

まあ、よくある受験生の親向けの受験ハウツー本なのだろうが、
全くなんなんだろうか、親子で決めるってのは。
決めるのは受験生自身じゃないんですか?

なんか親も必死すぎ、
「子供に任せとけよ」ってかんじ。

親としてやってあげられることと、無理なこと。

それだけ伝えときゃいいじゃん。
それじゃダメなの?


わたしは正直じぶんのことで手一杯。
今の複雑(そうに見える)受験システムとか別に理解したいとも思いません。
自分の親だってそうだったと思うし、
親がそんなに精通している必要って本当にあるのでしょうか。

どっちかというと弊害のほうが多い気がする…

そんなわたしって、
親として
おかしいのでしょうかね。


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2012/10/16

「桐島、部活やめるってよ」

青春小説は苦手だ。
というか青春とか学校ってもの自体がどうも苦手……
なぜかと言ったら、
それはやっぱり

私が「さえない子」だったから、

なんだろうと思う。


「桐島、部活やめるってよ」

この小説で言うところの目立つ「上」の子ではなく、
大人しい(即ちダサい)「下」の子。

当時のことを思うと
その頃は決して自分を「下」だなんて思ってはいなかったし、
目立つ「上」のグループに入りたいとか
その人たち対する憧れみたいな気持もそんなになかったと思う。
むしろ
「規則は守ったほうがいい」とか
「必要以上に異性の気を引くような行動はちょっと…」という衿持ちみたいなものがあって、
その結果、大人しい=ダサい子になっていただけ、なのだ。

多分、目立つグループにしてみれば
それはバカみたいな価値観なのだろう。
私達にとって彼・彼女たちの価値観が今一つ理解できないのと一緒で。

それでも
互いに干渉せず教室の中央と片隅とに住分けることで
それなりにクラスとしてまとまったりしていたのだ。
そこには目に見えるような反目や虐げもなかったはずだ。


それなのに、
あれから30年もたったこの本を読んだ今、
どうしてこんなに心がえぐられるのだろう…


………


それは
私達が実際のところ「下」だったから、なのだろうか……?

とどのつまりは
「上」の人たちはその高みから私達を見下ろして憐れんでいたのか?

そしてそのことを「下」は十分知りながら
それに気付かぬふりをしていただけなのか?
己がプライドゆえに?


実際のところ、
いわゆる「下」の人だって
1年365日そんな惨めな状況にあったわけでもないだろうし、
[一人の人間でも「下」になるときもあれば「上」になるときもあった]っていう状況のほうが現実には近いんだろうけど…


だけど
青春小説って、やっぱり辛い。

その辛さが
ウリなんだろうが。


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2011/09/28

初、村上春樹

村上春樹を、初めて読んでみた。
理由は特に無いのだが、
私の好きな文章を書く人に村上春樹ファンがいたので。

図書館で選んだのは「スプートニクの恋人」。
ご多分にもれず、
「スプートニク」という
ソ連の人工衛星の名前に惹かれて選んだものだった。

読み始めてまず、

……失敗した

と思った。


多分村上春樹のファンなら好きで好きでたまらないであろう
その知性的な文体が、鼻についてならない。
知識、薀蓄に溢れ、感受性の豊かさに満ちながら
どこか「斜に構えた」登場人物たちも気に入らなかった。

結果、
まだ前半の1/3ぐらいから
「この本は結局つまらなかった」と確認するためだけに
ページをめくることになる。
だって最後まで読まなければそう公言する権利は失われるから。
そして
それはいかにも癪なことだ。


というわけで
ほとんど速読に近い状態で私はこの本を読了。

最後の最後になって
ようやくこころ惹かれる登場人物(「にんじん」と呼ばれる子供)に出会えたのは
ここまで読んだ御褒美のようなものだったのかもしれない。
だが、それにしても遅すぎた。


読み終わって
アマゾンのレビューに目を通してみる。

……星2つくらいの人の感想に共感。


結論としては

村上作品「読まず嫌い」から
「読んだがやっぱり苦手である」ことを確認した

ということなのだろう。


…………


また、何年か後に
村上春樹を読む日がくるかもしれないが、

(そのときもきっと
また同じように思うのだろうな

でもまた手にしてしまうかもしれない)

そうとも思えるのが
ひょっとしたら村上作品の特徴なのかも。

(あまり認めたくは無いのだが。)

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2010/10/13

「告白」―身を蝕む「鋭さ」について

夕べ、
図書館から「予約本届いてます」という連絡がありました。
というわけで、300人以上の順番待ちの後
今更の感が無きにしも非ずですが、
湊かなえ氏の「告白」をその晩読了。

内容は言わずもがな。
ページの隅々にまでぎっしりと入り込んだ
悪意とか
嫉妬とか
思い込み、
優越感、
そして劣等感に圧倒されながらも、
一気読みせざるをえない作品でした。

以前読んだ「グロテスク」もそうなんですが
私はこういう読後の後味の悪さ、
そんなに嫌いではない。
それは
多分に私が何食わぬ善人面をしながら内面では悪意に満ちた心を抱えてるから
なのだと思うし
そういう自分を認識した上で
「でも綺麗ごと言ったって人間の本質ってそんなモンでしょ」
っていう開き直りがあったから、
なのだと思うのですよね。


結局、人間の中には

自分こそ
誰よりも深い考察をして認められたい
誰よりも真理に近づき
その知的な自分を
誰よりも正しいと認めてもらいたい

という欲求が少なからずあるものだと思うし
その結果
周りのくだらないことにうつつを抜かす連中を
軽蔑し愚鈍と忌み嫌うのも
ある意味自然の成り行きなのかもしれません。

つまらぬ噂話に嬉々とする女たち、
くだらぬジョークにゲラゲラ笑う子供
どこかのウケウリを
まるで自分のオリジナルのように得意げに披露する見栄っ張りな男たち
そういう輩に鋭く反応し
嫌悪感や侮蔑、怒りを感じることは
自分の知性、品性のためにはむしろ当然のことなのだ、と
その意識をナイフのように鋭く研ぎ澄ます……

思春期以降
そうやって生きてきたことに
何の恥じるところがあるものか、

そうずっと私は思ってきたのです。


でも、
登場人物の大部分がどろどろとたぎるような悪意を抱えている
本作を読んで、
ちょっと考えが変わりました。

この作品には
子供の小狡さや未熟さや、世の理想論の虚しさなどに敏感な女性教師と
大人たちの怠惰さや見せかけの誠意の薄っぺら加減を鋭く見分ける生徒たちが
登場します。

彼らの辿った悲惨な軌跡を見るにつけ
他人のくだらなさ、俗っぽさ、卑小さなんてものに
鋭く反応する感受性なんて
人間が賢く幸せに生きるのには、
全然必要ないんだってことに、
今更ながら感じ入ったのです。
それらは知性や品性とは全く無縁の、
私たちを蝕む毒でしかないのだ、と。

私たちに必要なのは
他人の汚さを暴く鋭い目でも、
それを赦すことができるような、人間離れした寛容さでもない。
そんなものより
ただただそういうものに

鈍感になること

まさにそのことではないかと
そんな気がしてならない……


とりあえず
今日から
くだらないテレビ番組にでている芸能人たちに
イライラするのはやめる、

そんなところから
まずは、始めてみようかと思います。

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2010/08/11

誰もが覚える感覚を
誰もが表し得なかった表現で……

そもそも青春小説は苦手なのですが……

中2の娘も読むかと思い、
借りて来た一冊「夜のピクニック」を読みました。

とある高校の恒例行事「歩行祭」を舞台に
高校生たちの迷いや揺れといった心の動きを丹念に描いた佳作です。

読み始め、
主人公たちの少女マンガ張りの人間関係を目にしたときは
若干引いてしまったのも事実なのですが、
その後はその陳腐さにが全然気にならなくなった、
これは
「主人公たちの心の襞に迫る作者の筆の力」、
によるものなのかもしれません。


それでも
やっぱり私がもっともいいなぁと思ったのは
そういった悩みとか不安とか、
実際に彼らの抱えている問題についての描写ではなく、
もっと脇の

普段気がつかなかった日常の再発見

についての記述でしょうか。

例えば

昼の光がどんどん夜の闇に押されて少なくなっていく様子―
いつの間にか「割合が反対になっている夜の空と昼の空」
に気づく主人公の驚き、とか。

くたくたに疲れてもう一歩も歩けないと思うときの
目標への距離感、とか。

疲労困憊時における甘いものを摂取したときの
身体の無条件な喜びのさま、とか。

そういうものが
本当に上手く表現されています。


ああ、そうなんですよね。

誰もが感じる感覚、
だけど誰もが言い表しえなかった表現を持って
それがページ上に繰り広げられると
ひとは無条件に感動してしまうものなのかもしれません。


正直
この小説の肝であろうクライマックス
―わだかまりを抱えた若者たちの和解―ついては
ほとんど何も感じ入るものはありませんでしたが

この感覚の再現には
ちょっと心が震えました。


……いい本、です。

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2010/03/10

小説家の書くエッセイ

最近ハマッてた小説家のエッセイ集を読んだ。

アマゾンでのレビューもまあまあの評判だったし
第一こんな面白い小説がかけるのだもの!
エッセイだって面白いはずだ!

なぁーんて思っていたところ
なんだろ、悪くはないんだがなんだかイマイチなのだ。
ちょっと説教くさいっていうか……
わざとワルぶっているっていうか……


読み進めていくと最後のほうにあとがきがあり、
そこで著者はその点を素直に認めていた。
曰く、エッセイを書くのは苦手だ、好きじゃない、と。
本当にその通りだ。
このひとは小説でこそ輝くひとだったのだな、と思う。


そう考えると
エッセイってなんだか不思議な存在だ。
書くにしろ読むにしろ、一見小説よりもずっと敷居は低い気もする。
それでいて秀逸のエッセイに出会うのって
ものすごい稀なことであるのも事実だ。

よく文学賞を受賞した作家が
その○○賞作家の肩書きを振りかざしながら
「どこかで誰かも言ってたな」みたいなエッセイを書いてる。
内容はともかくその文章力なんかでなんとなく読ませちゃうという、
明日になれば綺麗に忘れ去られるようなシロモノだ。
でもそのなんとなくサラリと読ませられちゃった「どこかで誰かも言ってたな」的エッセイも、今回のこの「魚の小骨を飲み込んだような違和感」を感じされられたエッセイ集より優れていたのかもしれない。
(少なくとも私には合っていたっていうことなのだろう)


エッセイの良し悪しっていうのは文章力や着眼点だけじゃないんだな

と、今更ながら気付く。

もちろん思索の深さや論理の明確さっていうのもあまり当てにならない。
それらは必要不可欠な要素ではあるけれど、
それが満たされるだけで、そのエッセイがいいエッセイになるわけでなないのだ。

いうなれば
フィーリング?感性?


なるほど、
こんな怪しげなものを
しっかりした骨子で書き上げる件の小説家が追求する訳ない。

このひとが書くのは小説こそがふさわしい。

そう悟った私は
「今後この作家の書いたエッセイには一切興味はもたないようにしよう」
と、
心に決めたのだった。


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2009/12/15

「子羊」の幸せ、「ひと」の幸せ

実は
ちょっと前に読んだ篠田節子氏の短編小説「子羊」が頭から離れないのです。
(以下ネタバレもいいところですのでお気をつけください)

近未来の貧富の差が著しく広がった世界の物語。
外の貧しい世界とは隔絶されたある施設で
「神の子」と呼ばれ大切に育てられている少女たちのひとりが主人公なのですが、
その生活はストレスや悩み苦しみは一切排除されたとても心地よい生活でした。
唯一の苦しみは時折スクリーンに映し出される外の世界の悲惨さへの同情くらい。
しかし、それすら自分たちの生活とは全く無関係のものと割り切って
多くのシスターにかしずかれて暮らしています。
何故、彼女たちはそんなにも大切に育てられているのか…
それは彼女たちが結局のところ「人間」ではないから
彼女たちは自分たちを所有する資産家に提供をする「臓器」を培養する容器にしか過ぎない存在であることが徐々に分かっていく……

というのが大まかな筋なのですが、
SFとしてはそれほど目新しいものでもないのかもしれません。
「読み始めた途端先がわかっちゃった」なんていう感想も
どこかのレビューで見かけましたし……
それでも、
私が興味をもったのはそのストーリーというより
その「神の子」たちの育てられ方、
その中に人間と人間の形をした別のものを分ける何か
―それは人間の本質というものなのかもしれませんが―
それを見たような気がしたからなのです。

彼女たちの生活は至極シンプルです。
一切のものごとに対し努力や鍛錬というものを必要としない生活をしている、
例えば、勉強はする必要はなく、
音楽を奏でようとすれば、楽器のほうが自動的にすばらしい音色を出すように仕組まれている―といったふうに。
これは一体どういうことなのでしょうか?

神の子たちが余計なストレスを感じることで生じる
肉体(すなわち提供される臓器)へのダメージを恐れてのことなのかもしれません。
でも、
それ以上に
この「神の子」を「人間」として成長させたくない
あくまで「臓器の入れ物」といういわば「家畜」として育てたい
という施設運営側の意図のほうが強いような気が私にはしてしまいます。

人間とは、努力し達成感を味わいつつ幸福感を味わい生きていくものだから…

だから、
「この子たちは人間ではないんだから
努力すること得られる達成感や
悲しんだり喜んだりする心の成長などさせる必要ないんだ」
「そう、この子たちは人間ではなくだたの臓器の容器にしか過ぎないのだから
 そこから臓器をとりだすのに何の問題もないのだ」
こういう
「自分の行為」の正当化や言い訳を感じるのですよね。


物語の終盤、
もうすぐ儀式(実は臓器を摘出される手術)を控えた主人公は、
慣例の最後の娯楽として
以前心打たれた笛を吹く詩人を呼んでもらいます。
詩人の演奏に感動しこっそりのその笛を吹かしてもらった彼女は
自分が詩人のように巧く吹くことはおろか
実はまともな音すら出せないことに驚き愕然とする、
その彼女の様子に
詩人はただの「臓器の容器」としてではない音楽を愛する「普通の人間」の顔を見出し、
真実を告げ自分と一緒に逃げ出すよう薦めます。
しかしその真実に驚きながらの彼女はそこから逃げ出すことを躊躇する。
逃げたところで貧しく不潔で悲惨な外の世界で生きることが
果たして自分にはできるのか?と。

そういいながらも
彼女は儀式の直前に意を翻してたったひとりで逃亡することを選ぶのです。
彼女を決心させたのは、
このままでは身体を切り刻まれて臓器を取り出されてしまうという恐怖ではなく
もう一度努力してあの笛を吹きたい
という音楽への熱望だった……


振り返って
私たち自身はどうなのでしょうか?
苦しくても何事かを達成しようと努力する道を選ぶことができるのでしょうか?

昨今の安易に喜びを手に入れようとする風潮を目の当たりにするに

心地よい生活にどっぷりつかって
臓器の容器のように生きる道を選ぶひとも
決して皆無ではないような気が…

そんな気が、
私にはしてならないのですが……

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2009/11/13

女性作品の生々しさ

図書館に行きました、本当に久しぶりに。

実はお目当ての本があったのですが、それは全て貸し出し中。
仕方なく予約の手続きをして帰ろうとしたのですが、
そのまま帰るのもなんだかもったいなくて。

というわけで篠田節子の短編集を1冊借りたのですが
これがなかなか面白い。
この作家さんの作品は新聞に掲載されていた「薄暮」を読んだことぐらいしかないのですが、
読み始めるとあっという間に読んでしまい、
結局その後の1週間で
この作者のもの次々と4冊ほどの短編集を借りる羽目になりました。

この作家は容色の衰えた女の描き方が、非常に巧いのです。
その女たちの痛々しさが気に入って次々にページを繰る。
それでも、
さすがに3冊目以降になると食傷気味になりますね。

自分が女だからなのかもしれませんが、
女性作家の作品はどうも生々しすぎて
長く続けて読む事できないのです。
この篠田さんはあまりオンナオンナした作風ではないとは思うのですけれど。
でも
女性ならではの襞の細やかさってどうしても湿っぽさもともなってしまうから。

「次にこの人の物を読むのは、
こういう人間ドラマの短編集より社会派っぽい長編にしよう」
そう心に決めて4冊目を閉じたところで、
図書館からの予約図書入荷情報が。

というわけで
ようやく最初のお目当てだった「利休にたずねよ」を借りることが出来ました。
水曜日から読み始めていま1/3ほどのところ。


たとえば、百個ならんだ竹筒のなかから、あの男が花入を、ひとつ選び出す――。
その竹筒は、たしかにまちがいなく美しいのだ。
節の具合にしても、わずかの反り具合にしても、えもいわれぬ気品があって、
どうしてもその竹筒でなければならぬと思えてくる。
棗にしたってそうだ。同じ職人が作った黒塗りの棗を百個ならべておくと、
あの男は、かならず一番美しい一個をまちがえずに選び出す。
何度ならべ替えても、あやまたず同じ物を手にする。
――なぜだ


利休が極めようとした「美」

それを描く
このような緊張感あふれる文章が
湿った心を軽やかに乾かしてくれることと思います。

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2009/07/23

節子さん

節子さんは学級委員だった。
が、目立つタイプのリーダーではない。
むしろ地味な印象だ。
もちろん勉強はできる。
常に落ち着いて冷静な判断をする彼女に
クラスの皆の信頼も厚い。

何か問題が起こったとしても節子さんはあわてない。
話し合いの場になると、伏目がちにゆっくりと自分の意見を言う。
考え考えしゃべる節子さん。
淡々と、淡々と。

基本的に節子さんは孤独である。
クラスの全員と仲良しだが、同時に全員と疎遠でもある。
満遍なく誰とでも友達であるが特定の親しい友人もいない。
しかしそれをさびしいとは思わない。
そして「それを平気だ」とする力みも意地もない。


節子さん、
昔読んだ児童書「小説の書き方―一子の創作ノート」の、主人公ではなく脇役の少女。


当然彼女の描写も主人公のそれに比べると少なく
本当のところどんな子だったかなんて誰にもわからない。
上に綴った彼女の「ひととなり」も
ただ、
小学生のころの私が
想像を働かせて創り出したにすぎないものなわけだし。


それでも
その「節子さん」は私の憧れだった。

その後
節子という名を見聞きするだびに
彼女のことを思い出すほどに……

節子、というその名も
大好きになるくらいに……


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2009/06/26

「乱紋」-偉大なる鈍重な姫の物語

人というものは、
一見劣っていると思われがちな者が、
実はその人を嘲笑っていたような連中を凌いでしまうような、
そんな話が好きなもののようだ。


たとえば
永井路子の「乱紋」。

戦国時代に滅んだ浅井氏の遺児である三姉妹を
3人の中で一番不美人といわれる三女おごうを中心に書いた物語。

この中で
そのおごうは鈍感で緩慢な姫として
幼い頃より常に
彼女よりも美しく気の回る姉たちの嘲笑の的とされてきた。
が、実は
その鈍重とも思われる腹の据わり方や
「自我」を滅却させたがゆえの「達観」の境地もつ彼女には
目先の勝ち負けにこだわる姉たちをも凌ぐ栄達がもたらされる。
ほとんど自分の意思を表に表さぬ彼女にとって
その人生は果たして「幸せ」であったかどうかさえも疑問ではあるのだが…


おごう―
先ごろ発表されたところによると
この戦国の姫が再来年2011年の大河ドラマの主人公だとか。

題名と脚本家までは発表になっているが、
原作はとくに定まっていないよう。
だとしたら特に原作を定めずオリジナルの脚本なのかもしれない。

またあるいは
ドラマ化にあたっては
戦国美女オールスターによる豪華絢爛絵巻の「美女いくさ」(諸田玲子著)の小督のほうが適しているのだろうが…

でも
そういう女性たちの戦国歴史劇はもう十分観た気もするから。

だから出来れば

鈍重にして不動、
だが水の流れのようにしなやかでとらえどころのない、

この「乱紋」のおごうイメージで
やっていただきたいものだと
つい思ってしまう。

そんな気の早い私、である。

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