2013/08/30

俗悪かつ醜悪な…

ちょっと前に、流れたニュースに
大学の名誉教授がその妻に殺されたというものがあった。

医者に止められている酒を飲み、浮気もしたと妻は夫をマグカップで
殴ったらしい。


これを耳にした時
なんだか、モヤっとした。


やっぱり
このニュースの中で一番キーになるのは
この殺された夫が国立大の名誉教授ってことなんだろう。

その辺のサラリーマンや商店主夫婦が
こんな事件を引き起こしたとしてもさほど人は興味をひかない。
多分マスコミの扱いは新聞の片隅に小さく載るぐらい…


痴情の果てに妻に殴り殺される名誉教授、

そういう要素は
いわゆる「キャッチー」なんだろう、
センセーショナルで人目を引く。

視聴者の食いつきを予測してマスコミ側はニュースを流す。

こういうものを見聞きするたびに
事件とは無関係の一般大衆(もちろんそこに自分も含まれているのだが)の
俗悪かつ醜悪な面を垣間見るようで
非常にもやもやする。


なんとも、
嫌なもんですな……

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2013/01/31

片思い?上等です

ツイッターのフォロワーという存在がついに2人になってしまった。

(もっとも
私がフォローしている人(?)もたったの7人なので、
あまり数のことは言えないのだが…)


多分、

「コイツほどんとつぶやいてないし…
そもそもせっかくフォローしてやってんのに
なんでフォローし返してくんないんだよ。
ケッやめたやめた、フォローなんてヤメ!」

ま、そんなかんじで外されたんだろうな…


その気持ちもわからんでもないのだが、
でもだめなんだ、
そういう「お返し」っぽいお付き合いってどうしてもなじめない……


贈与応酬の日本的な風習って
どうも義理っぽいっていうか
虚しさが先立ってしまうんだよね。


というわけで
私のひとづきあいの基本は、「片思い」なのである。
これは
サイト上だけでなく実社会でも同じこと。

所詮
人の一生なんて
「自分の認識」という繭の中から一歩も出ることないものなんだから、

だから
相手の思惑に右往左往せず
「自分が好き」
という気持ちだけで完結してもいいのではないか?

求めず…
追わず…
だが気にかからずにはいられない


「友情なんて大げさなものじゃない。おれは、ただお前が好きなだけだ。」
(「俺たちの旅」鎌田敏夫)


……
そんなふうに生きていきたいものである。


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2012/10/04

「どっちがいい?」と問われて

もしもあなたが、
誰かに「どちらがいいと思う?」尋ねられるようなことがあったら、

ひょっとししたら
その誰かをおこらせることになるかもしれませんが、
こう言ってみてはいかがでしょうか?


「『どちらがいいか』と尋ねるとき、
たいていの人は
選びたいほうが既に決まっていて、
その後押しをしてもらいたいだけだったりするから、

だから、
あなたは私になんて言ってほしい?

私はそのとおりに応えるよ」と。


……


随分と人を食った失礼な言いようかもしれません。

が、
かの人の決断を促すには、最も即効性はある……

こう言われることで
尋ねた側はあらためて自分の心の奥底を覗きこむはずです。


気心の知れた人にしか通じないし、
そのあたりを見誤り下手をすると友情の終焉を招くかもしれませんが、

私は
このアドバイスの仕方をとても気に入っています。


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2012/02/29

理解し合えないという点でのみ
理解し合えるというジレンマ

少し前にこんな文章を読んだ。

「人と人とは最終的には理解し合えないものである。
ただこの「理解し合えない」という点においてのみ、人は互いを理解できるのだ」


読んでいて、
それは本当のことなのだろう、と思った。
確かに本当…
だけれども同時に「絶望的に寂しい言葉」だと思った。


「理解し合えない」のは確かなことだ。
己を振り返ってみるがいい。
振り返ってみて
かつて誰か他の人を完全に理解したことが一度でもあっただろうか?
また、一度でも
誰かに心の底から理解されていると感じたことがあっただろうか?

答えはNO。


なんと寂しいことなのだろう。

しかし、
「理解し合えない」のが当然のことであり、
当たり前のことなら
何故こんなにも寂しい気持ちにさせられるのか。


……

人は、
それほどまでに自分を理解して欲しいものだから……


「理解しあえないもの」とわかっていても、
自分がかつて誰も理解したことが無いことをその経験上よく知っていたとしても
それでも
この「自分をわかってほしい」という願いを止められないでいる。

わかってもらうために
私たちは生きているといってもいいくらいに
この願いは切実な思いなのだ。

「理解しあえないと知りつつ、理解してもらいたがる」
このジレンマこそが
人間というものなのかもしれない。
もっと言えば
この願いに突き動かされて
人は社会を作り上げてきたのだ。

そして

この無謀な願いをなくしたときは

人はその一生を終えるか、
人ではない別の存在になるか、


どちらかいずれかなのかもしれない。

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2011/05/19

思い出以外を語る関係

旧友に会う。
約15年ぶりの再会だった。

ま、話の内容は

・互いの家族の話
・共通の知人の消息

この二つに尽きるわけだが、
さすがに15年ぶりというわけで
約4時間の会話は途切れることはなかった。


うーん
考えてみるとすごいよ。
たったこれだけの内容で4時間ももつなんて。

でも
今回は久しぶりだったから
新鮮さもあったわけで
度重なればそうそう話題も無くなっちゃうもんなのかもしれない。

思い出話のためだけにわざわざ時間を割く……
それを数回重ねるにはみんな忙し過ぎるのだ。


……


それでも、

単なる思い出ではなくて
今まさに動いている現在進行形の日々のこと
それも家族がらみのことではなく自分自身のこと

新しく体験したこと
こんな感動をしたこと
期待感に胸膨らませたこと
反対に夜も眠られぬほどの悔しい思いをしたこと

そんなことを話してみたい、
そうして相手がどういう反応をするかを知りたい
または
その反応を心に思い描くだけでわくわくするような

そういう人も、稀にいるのだ。


一生のうちに何人も出会えない、そういう相手。


こういう存在が
気恥ずかしい言い方だけど
「本当の友達」ってもんなのかもしれない。

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2011/02/10

「つながり」たがる人たちへ

少し前から言われていること。

―無縁社会

今の時代をさしてそう言うらしい。


隣に誰が住んでいるかわからない集合住宅、
誰も手助けにこない一人暮らしのお年寄り、
核家族化で孤立し密室で子育てする若い母親たちなどなど

そういった無縁社会についてのレポートがあると、
それを「味気ないもの」とし、
そこから脱却するために新たな繋がりを求める動きについてが
必ずといっていいほど語られる。
そして
その動きを好ましいものとする報道は後を絶たない。


もちろん、それは当然のことなのだろう。
人は一人では生きていけないものだから。


でも、
でもちょっと待って……

地縁、血縁のムラ社会、
つまり、
皆が顔見知りで誰がどこで何を買ったか、今日は何処に出かけているか、
誰もが知っている社会。
そういうかつての社会に
少なくない人が息苦しさを感じていたはず。
それでもその共同体に所属していたのは、
「そこを離れては生きていけない」という経済的な理由が
多分最も大きかったはずなのだ。
それが今、その経済の呪縛から人々は解放された。
それによりこの無縁社会にみずから飛び込んだ人は確かにいたのだ。
それもかなりの人数……

それを後悔しているというのだろうか?
やっぱり息苦しくても孤独でいるよりはマシだといいたいのか?


……


どうも「つながる」「つながる」と連呼している人々には
私は胡散臭さを感じてしまう。

かつての「つながる」ことによる息苦しさを除いて
美味しいところだけでつながることを目指しているんじゃないかっていう……


とにかく、
安易に「つながり」たがるなよ…
だいたい
そんな安易な「つながり」で本当の不安や孤独なんて解消されないんだよ。


最後に
ある女性作家の言葉を引用させていただく。
正直その著作や言動についてはあまり好きなタイプの作家ではないが、
彼女のこの言葉には真実があると思うから……

無縁で死んでいく方が「かわいそうだ」と思う動きがありますが、
そうではないのでしょう。
その方は、それを自分で選択されているのですから、
自分自身にも原因があるのです。
ですので、周りがそれほど心配することでもないのだと思います。
……
人間は、本来孤独なのです。
生まれる時も、死ぬ時も、一人です。
家族で、家庭で暮らしていても、一人です。
孤独なのです。


「つながっている感じがしていいですよね~」
などという能天気なコメントより

ずっと深く突き刺さる「言葉」だ、と思わないか?


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2011/01/05

イラつく「年賀状」はバロメーター

1月4日。
帰省先から帰ってくるとまず覗くのは、郵便受け。
その中には
取り置きしてもらった新聞の束と、年賀状が入っています。

年賀状。
この年に一度の旧交を温める遣り取りが昨今、
実は結構な情念の遣り取りでもあることが
取り沙汰されているらしい、
ということはもう皆さんご存知ですよね。
そう、「写真入年賀状」ってヤツによって……

どうも写真入の年賀状の評判とは
一般的にみてあまり芳しくないもののようです。

子供のみの写真の場合、
「一度も会ったことのない子供の『どアップ』なんてもらっても正直困る…」
「まだ赤ちゃんか幼児なら微笑ましいけど
高学年以上はとんだ親ばかにしか見えない」
などという辛口の意見。

「せめて自分の知り合いも写っている家族写真ならうれしいんだけど」
という言葉を信じ家族一緒の写真を貼り付けると
「仲良し家族の見せびらかしのようでイラつく」
「容色が衰えた自分を晒すなんていい年して恥ずかしくないのかな」
というご意見も出てくる。

その他、
「こちらは子供が出来ずに苦しんでいるのに、無神経すぎる」
「これ見よがしで自己満足な幸せの押し付けにしか思えない」
などなど……


あの…
その年賀状は
一応「年に一度は葉書を遣り取りする」ような
ある程度の親交のある方たちからの
便りなんですよね……?


結局
その年賀状に不愉快になるのは、
写真がついていようがいまいが
関係ないんじゃないですか?
だって、
写真がなくてもあるでしょうよ、
家族のこの一年の業績を逐一長々と印刷して報告するタイプ。
あれを心の底からうれしく読むのは
自分の親兄弟や相当気心の知れた友人だけだと思いませんか?
そしてそれは逆に言えば、
微笑んでそれを読めないのは
あなたにとって「その差出人は『気心の知れた友人』ではない」から
なのではないでしょうか。

つまり
その差し出した人に対する普段からの想いが
「子供のどアップを送りつける親ばか」という感情になり
「自慢たらたらの内容にイラつく」という気分に繋がる……

年賀状という
この「一年に一度の旧交」は、
そういう意味で
「その相手のことを自分は本当はどう思っているか」、
というバロメーターのようなものなのかもしれません。


さて、
あなたは今年何枚の年賀状を微笑ましく読めましたか?
また
あなたの年賀状を何人の人が
微笑んで目を通してくれているでしょうか?


これについては
自分のことを振り返って考えてみると、

かなり怖い気がする

私、なのです。


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2010/03/23

延命技術がもたらすもの

一昨日の日曜の夜のこと、
「命をめぐる対話―暗闇の世界で生きられますか?」という番組を観ました。

そこに描かれていたのは
延命技術の進歩とそれに伴い発生する尊厳死の問題。

「自分の意思を伝えられないことは精神の死を意味する」として
完全な閉じ込め状態(=TLS)になったら尊厳死を選ばせて欲しいという考え。

技術を利用して生き続けることに対し罪悪感を感じる社会になってはならないとし、
延命措置を受けながらも天寿を全うしようとする考え。

どんな状態になろうとも家族にとっては生きていてくれることだけで支えになるのだから
生きていて欲しいという考え。

どれが正しい間違っているという問題ではない、
正しい正しくないというより、
己の信念の通りに選ぶしかない問題なのだと思います。


印象的だったのは
「尊厳死を選びたい」としている患者の方の奥様の言葉、
入浴中に急速に血圧が低下したとき必死で医師を呼んで欲しいと意思表示をした夫の姿に、
彼の「生きたい」という心の叫びを、生への執着を感じたという言葉です。

確かに、
この先彼がTLSになり、
その要望どおりに人工呼吸器がはずされるときが来たとして
そのときも彼は「生きたい」と思うのかもしれない。
暗闇の世界を何年も生きる恐怖から
理性では「尊厳ある死」を望んだとしても、
実際に迫りくる死を前にすれば、
生き物として「生きたい」「死にたくない」と思うのは
当然のことです。


そのことを知りつつ
延命装置をはずす
それは人間として家族として
想像を絶する苦渋の選択であるはず。


……

科学や医療技術の進歩は
ものすごく私たちの生活を豊かにしたけれど、
その反面途方もない苦悩も私たちに与えてしまった……


そう思わずにはいられない

一昨日の夜のことでした。

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2009/12/24

「金持ちの青年」の憂鬱

クリスマス・イブだからってわけではないのですが、
ちょっとそれめいた話題を…

「金持ちの青年の話」ってのが聖書にありますね。
「永遠の命を得るためにはどうしたらいいですか?」って
イエスに尋ねるまじめな青年のお話。

ほんと立派な人なんですよ、この青年。
よい息子、よい市民で、教養もあり律法も守り続けている
多分まさに非の打ち所のない人。
そんな彼にとっても
「全ての財産を捨てて私についてきなさい、
そうすれば永遠の命を得られるだろう」というイエスの教えは厳しかった。
彼は悲しそうな顔をしてその場を離れるしかなかったのです。


やっぱ、金持ちは軟弱だからなぁ、とか
口ばっかりで覚悟が足りないからだ、とか
言う人もいるかもしれませんけど、
私は
この青年は本当に永遠の命を欲していたんだと思いますよ。

でもそれは
今の自分のままで得られるはずの永遠の命、
―恵まれた環境に生れ落ち、
 その環境ゆえに寛大な心を持ち、
 今のままでも十分立派なのにさらに上を目指そうと
 自分を完璧に成長させるための―永遠の命、だった、
そしてそれに対し、
イエスが示したのは
そういう自分の誇らしくも煌びやかな半生を一度断ち切って生まれ変わらないと
「永遠の命」は得られないという答えだったのです。


……


この話をきいたのは
10年以上前の礼拝での説教で、のこと。

そのとき
ものすごい衝撃を受けたことを覚えています。

だって、
私もこの「金持ちの青年」と全く同じなのだから…
私にとってキリスト教とは
私は自分が「より正しい生きる存在」としての自分を完成させる
パズルのピースの1つにしか過ぎないのですから。

洗礼を受け、
どんなに
日曜日の礼拝に参加し
献金をし、
聖餐にあずかって
世間でいう「クリスチャン」のカテゴリーに組み込まれている存在であっても
私は
本当の意味でのキリスト教徒ではないんだと思います。


それでも
私は恥ずかしながらも、「キリスト教徒」の皮を被って生きるのも
このクリスマスで20年目……
そうやって生きているうちに
なんとかなるものならいいのでしょうが、
それは多分どうにもならないんでしょうね。


「なぜ自分は、胸を張りキリスト教徒であると言い切ることができないのか」

それに
はじめて明確な答えを示してくれた忘れがたい挿話、
「金持ちの青年の話」。

聖書の中で、
私がもっとも好きな箇所です。

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2009/12/03

矛盾する2つの幸せ

随分前のことだが、
「あなたはどのようなときに自分の生き方に満足感を感じますか?」
というアンケート結果についての分析を読んだことがあった。

それによると、
「他の人の役に立っている」という実感のある人ほど
自分の生き方に満足し自分を幸福だと感じる割合が大きい、
という結果が出たらしい。
つまり
自分だけの幸福や満足を追求する生き方より
他人の幸福の手助けとなる人生を送るほうが
より自分への充実感が高い、ということのようだ。


これを知った私はこう思った。

ああ、そうか、
人間というものは、
自分ひとりでは幸せになりきれないのだ。
私たち人間とは
自分が幸せであれば
他の人も幸せになればいいのにと思い
その手助けをすることに
より深い喜びを感じることができるものなのだ……と。
そして同時に
人間もそれほど捨てたもんじゃないのだな……と
心の底で小さく安心したものだった。


だが、
本当にその通りなのか?

だって
私たちはその反面、自分たちには別の黒い部分があることも知っている。
それは
「みんなが一緒に幸せになるとちょっと面白く感じないところ」。
例えば
みんながそろって1位になるのでは1位というものに価値がなくなってしまう。
ほんのちょっとでもいい
他の人よりこの自分こそが抜きん出ているからこそ
幸福感や満足感も得られるものなのだ、と。


他人を幸せにすることで感じる幸福感。
そして
他人よりも幸せでないと感じられない幸福感。


こんな2つの幸福感は
常に私たちの心の中でせめぎあっている。

一体
どちらの幸福感こそが人間の本性に近いものなのだろう。


ひょっとしたら
他人を幸せにすることにより得られる幸福感は
社会における自分の有能性を認識し確信したいという
欲望ののあらわれにしか過ぎないのでは?
そうだとしたらこの2つの幸福感に矛盾は生じない。
結局、
人間とは突き詰めてみれば、
「自分ひとりだけが可愛い利己主義者」以外の何者でもない
というだけの話である。


……


いやいや、
他人に役に立つことで感じる「喜び」とは
そんなうすっぺらい欲望から生まれるものではないはず。

私たちは確かに
誰かの役に立ち、
その誰かから感謝されることに純粋な無上の喜びを感じられる生き物であるのだ。


人間とは本当に不思議なもの

他人より幸せにはなりたいのだけれど
一人きりでは幸せになりきれない

こうした矛盾を抱えて生きるべく、運命付けられた者なのかもしれない……

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