2014/12/19

10年という年月

……
唐突ではあるが、
10年前を思い起こしてみた。

10年ひと昔という言葉があるくらいだから
さぞかし状況も変わっているか、

などと思ったのだが
これが意外と変わっていない。


10年前と同じ会社で、
10年前と同じ仕事をしている。
10年前と同じ家に住んでいるし、
10年前と家族構成も同じ(ここは割と当然と言えば当然ではあるが…)
そして、何より驚くべきことは

10年前も既にここを開設していてこのブログを書いている

ということだ!


もちろん状況は随分変わってはいる。
あのころはもっと更新していたし、
「ちゃんと読まれる文章を書こう」なんていう意欲もあったけれど、
まあ、今はねぇ。


その昔まだ6、7歳ぐらいのころだったろうか、
テレビなどで職人さんが出てきて
「この道十何年」なんてナレーションがはいると

なんとまあ、
自分が生きてきたよりずっと長くひとつのことをやっているなんて…

と、
びっくりたまげたものだった。

今となっては
おぎゃあと生れてまだ10年も生きていない人間が
そんなことをいろいろ考えるようになることのほうが
よっぽどたまげることのようにも思えるのだが…


と、つれづれに思う冬の夕暮れ。

今週50歳の誕生日をついに迎えた師走である。


|

2013/10/31

引退or廃業?

……
またひとつ、旧知のサイトがなくなった…

ブログが花盛りだったころは、
最早「今は昔」の物語。

どんなに楽しいものでもいつかは飽きてくるものだから、
流行り廃りがあるのは仕方のない。


そもそも
どんなサイトであっても永遠に更新し続けるなんてのは
無理な話なのだから、
終わりの日というのは、いつか必ず来るもの…

で、
本日はもしサイトを閉鎖するときがきたら、
どういう終わり方にしようか
という話をしてみよう、と思う。


終わり方にはいくつかパターンがあると思うのだか、
だいたい

①サイト閉鎖の告知をして一定期間を置いて削除
②更新せずにそのまま放置

の2つに分けられると思う。


……

私は断然、
②のパターンだな…


閉鎖の告知をするほどの読者がいるわけでなし、
ひっそりと更新をやめてしまえばいいって感じだ。

そして、多分削除は…しない。

これには
深い意味はなくて、
また書きたい日もくるかもしれないからってだけなのだが。

これは酷く自分勝手なことなのかもしれない。
無駄な領域をネット世界に専有し続けるわけだから。

でも
保持していることが恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がないという気分にならない限り、
消すことはできない気がする。

そういう日もいつの日か来るような気もするのだけれど、
とりあえずそんな気分になるまでは現状維持だ。

……


昔、
オリンピックの水泳選手がこんなことを言っていたっけ。

「引退宣言なんて私はしません、
何故そんなことを公言しなければならないんですか?
休みたくなったら休むし、泳ぎたくなったら泳ぐ。
それでいいじゃないですか。」

大会での不本意な成績に無念な想いをにじませたやや攻撃的な口調。
でも
いっていることは至極もっともなことだった。


また、
こんな文章を目にしたことも。

「引退宣言ができるということは幸せなことなんだと思う。
大抵の人がただの『廃業』という形でやめていくのに対し、
その人たちはその廃業が絵になる形になるまでに到達した人たちなのだから」


私の更新終了は、
やっぱり「引退」とはならないな。

辞める時はやっぱり「廃業」……

長い長い休養の末の廃業、って気がします。

|

2013/05/31

電車通勤の日々

4月末に会社が移転になりました。

それまで
徒歩15分(遅刻しそうになったら自転車7分)の通勤が、
電車を2本乗り継いでトアツードア50分に…


毎朝電車に乗るようになって思うのは

みんなスマホいじってんなぁ

ってこと。


7人掛け(?)の長椅子の3人ぐらいが皆同じように指で画面を流している姿は
結構壮観。
その間にゲームやるひと、音楽聴く人、居眠りする人がちらほら…

かくいう私は
久々に本でも読もうかと思い文庫本をバックにしのばせています。
何度も挫折しずっと読めずにいたドストエフスキーの第1巻。

電車に乗っている間って結構細切れの時間だから
それほどみっちり集中できるわけではないのだけれど、
今のところは何とか続いている。
今度こそ読破できそうな気がするのは、
楽天的すぎでしょうか?

それにしても
ページを車内で繰りながら思うのは、
我が視力の低下の度合い。
多分老眼が始まっているのでしょう。
本を少し話さないと文字がぼやける…

考えてみれば
そんなふうに読書に支障を感じる日がくるなんて思ってもみなかった…


ひょっとしたら
これが読書にいそしむ最後の日々になる?

そんなことを思いながら
次の巻はもっと活字の大きい文庫本を買わなきゃ、
と思っている今日この頃、です。

|

2012/12/28

初めて、親に「老い」をみたとき

「それを見つけると、
後は坂を転げるようにそれは進行していく…」

これは既に両親を亡くした夫の談である。

かくいう私自身は
いまだかつて
そんな感覚は覚えたこともなかったのに…


久しぶりに会った親は

歩く速さがゆっくりになり
話す速さがゆっくりになり
こちらの話のスピードについてこられなくなり
ろれつが回らないようなしゃべり方で
もごもごと語る


私が小さい頃は
なんでもできる魔法の手の持ち主だったのに
重たいものも軽々と持ち上げた力持ちだったのに
その万能感はあとかたもなく消え去り
残ったのは小さくしぼんだ背中だけ。


いつもと変わらぬように
私の手の回らない庭の掃除や片づけものなどを
てきぱきとやってくれて
結局は元気に帰って行ったけど……

でも私はもう気が付いてしまったよ。


今年の夏の終わりのこと
人生初めてのことだった……


あれから3カ月たったけど

今思い出しても、涙が出そうになる。


|

2012/09/05

夜の水族館

明日提出のレポートのために

「22時までOPENしている」という水族館に行ってきた。


夕飯を食べたあとの午後8時過ぎに家を出る。
こんなに遅く外出するのは久しぶりだ。


電車に乗って10分ほど目的地に到着。
多くのサラリーマンたちが二次会へと盛り上がっている中をすり抜け、
目指す水族館に入る。

中は人もまばらでひっそりしている。
ちらほら見かける客は大方がデート中のカップル。
皆、魚に興味があるというよりは
色鮮やかな水槽内を
イルミネーションを眺めるように楽しんでいるといった風情だ。

そんな力の抜けた雰囲気の中でも
こちらはレポートのためにまめにメモをとり、写真を撮る。
若干その場の空気には浮いているようだが
いさしかたあるまい。

ひとしきり調査が終わった後は、
もはや本日のアトラクションはすべて終了したイルカショーの会場を
ちょっと散策した。
人気のないスタジアムは
がらがらの映画館のようにひんやりとして心地よい。


「寂しい」の一歩手前の感情は、
究極の贅沢に通じるものがあるから……


……


水族館を出て
また雑踏に揉まれながら駅への道を急ぐ。


夜の水族館。

はっきりいって
魚やイルカや海洋生物には全く興味はないんだけど

10年に一度ぐらいなら
また行ってもいいかも……ね。


|

2012/01/31

ひとりじかん

ここのところ、一人で夕飯を食べることが多くなった。
週3回の月水金。

一人で夕飯なんて寂しいかと思いきや、
コレが意外と、楽しい…

テレビ番組は自分の好みで選べるし、
見損ねていたDVD鑑賞時間にもあてられる。
(誰も見ないような昔の映画とかちょっとマニアックなやつは
一人で見るに限るのだ。)
それに
皆の帰りを待たないので
結構早い時間に食べられるから美容と健康にもいいし……


結局
いろいろと誰かの世話を焼く必要から解放されたっていうのかな、
なんだか
帰り道も足取りが軽い。


家族団らんもいいが、一人の時間も好いよなぁ


などと羽を伸ばしていると
そういうときに限って、夫が意外と早く帰ってきたりする。

……ちっ

あさってまで「ひとりじかん」のお楽しみはお預けだ。


|

2011/04/22

万人にウケるコトバ

愛読しているサイトで紹介されていたある文章。

「皆さんはどう思われますか?」
「難しい問題ですね」
「これからも考えていかなければなりませんね」

意味があるようで、全く意味のない言葉。リスナーとトークパーソナリティの議論を整理しつつ番組を進めていく上で、私はその類の言葉は使いませんでした。……

『ラジオの魂』(小島慶子著・河出書房新社)より

実は、私はこの本の著者小島慶子さんの番組を聴いたことはありませんし、
この方の番組が評判になっていたことも知らなかったのですが、
それでもこの文章にはものすごく共感させられたました。

「皆さんはどう思われますか?」
「難しい問題ですね」
「これからも考えていかなければなりませんね」

そうなのです。
これらの言葉を聴くたびに何ともいえない脱力感を感じるのは、
これらがまさに

「意味があるようで、全く意味のない言葉」

であるからなのです。


聴いている私たち聴衆も
そして多分語っている本人も
これらの言葉に全く意味がないことをわかっているはず。
だから、でしょうか、
わたしにはこんな風にしか聞こえない……

「皆さんはどう思われますか?」(「とりあえず丸投げしとくか」)
「難しい問題ですね」(「素人には特にね」)
「これからも考えていかなければなりませんね」(「ま、忘れない程度にね」)

それでも
とりあえず収まりをつけるためだけに使われる
これらの、薄っぺらいコトバたち。

結局、
電波を通じて流されている言葉っていうものは
たいてい万人に当たり障りのないものになってしまうから、
こんなふうになってしまうのも仕方がないんだよ……

それもわかるのですが、
でも、言ってるほうも聴いてるほうも
「全く意味がない」と既にわかりきってものを流し続けるっていうのも、ねぇ……


……

ふと、
ずっと前、どこかで目にした文章を思い出しました。

「万人の共感を得ようして発せられた言葉など、結局誰の心にも響かない」


……確かに。


|

2011/03/29

「応援なんかしなくていい」

未曾有の災害より半月あまり。

こういった時期に発せられる言葉の数々は、
往々にして以下の3つに区分することができるのでしょう。

すなわち

情報
不謹慎
偽善


いや、
この3つの良し悪しをどうのこうの言うつもりではありません。

偽善などといえば
いかにも悪いことのようですが、
誰かも言っていたように
「『しない善』より『する偽善』」のほうがよい結果を生む場合が多々あるのも事実です。
そもそも偽善と本当の善行の違いなんて
やっている本人を含めて一体誰が知っているというのでしょう。

不謹慎にしてもそうです。
異常事態発生直後の身を慎む生活も立派なことですが、
日常を取り戻すというのも大切なこと。
ばかばかしいような笑いを
「不謹慎だ!」と責められる覚悟で復活させた発信者は、
それはそれで賞賛に値する人物なのかもしれません。

情報に至っては、
発信するに際してこれほど優先されるものはない……
それについては異存のある人はいないと思います。


結局、そう考えてみると
今巷に溢れている言葉と状況はなるべくしてなったというものなのですね。


……


ああ、
それでもねぇ・・・

それでも、あの「応援メッセージ」っていうのは何なんでしょう。

「強い国です」とか「結束しましょう」とか「信じています」とか……


そうモヤモヤしていた私に
素晴らしい回答を与えくれた言葉がありました。

「応援なんかしなくていい、
そんな他人を応援している暇があるなら自分の(なすべき)ことをしろ」

震災とは全く関係ない、
とあるドラマ内で
芸術家がそのファンに向かって吐き棄てるよう言った言葉。


本当です。


自分のなすべきこと
それを黙々とやる姿にこそ
人間は最大限の「勇気」と「力」を与えられものなのではないでしょうか。


だから
私は言いません、
「がんばろう」とか「信じている」とか。

今はただ、
自分のなすべきことを黙ってするまで、です。


|

2011/03/14

「みだりに唱えてはならない」のに……

たった一人のオフィス。
ぐらぐら揺れるの中、
私は机の下にもぐりこんでいた。

事務所は雑居ビルの最上階、5階。
縦長のビルは多分地上よりは大分揺れたのだろう。

普通はすぐにおさまるはずが
なかなかおさまらない。
いや、どちらかというと激しくなっている。
このままこのビルは倒れてしまうのか?
そうなったら
頭から落ちていくことになるのだろうか?

台所のほうから食器が落ちる音が聞こえる。
ロッカーや書類戸棚がぶつかり合う音も。

こわい
こわい
かみさま……
かみさま……


私は決して信心深い人間ではない。
この

「かみさま」

という言葉だって決して祈りではなく
ただの叫びにしかすぎない。


……


やがて揺れはおさまった。


このおさまりは
祈りによるためでもなければ、叫びが届いたためでもない。

そんなことは知っている。
知っているにもかかわらず、なぜは叫んでしまったのだろう。

かみさま
かみさま

と……


「私の名をみだりに唱えてはならない」

そう
戒められているにもかかわらずに。


結局、

苦しいときだけの神頼み

ってこと、か……


|

2010/05/06

「貴人」の憂い、「しもじも」の幸せ

GW真っ盛りの5月1日、東京駅新幹線ホーム。
帰省のための下り列車を待つ人々の列に我が家も並ぶ。
並んでいる人の数から、
さほどの混雑ではなさそうと
ホッとしているところに列車は入って来たのだが、
なかなか扉は開かない。

ま、車内清掃とかいろいろあるんだろうな、
などとあまり気にも留めずにいたところ
「ご乗車はもう少々お待ちください」などと
駅員さんたちが口々に叫んでいる。

(……ん? なんか妙に丁寧、そして緊張してる……?)

と思っているとホームの端のほうから
ぞろぞろとスーツ姿の男性の一団がやって来たのだ。

(そうか、VIPがいるんだな。)

と気づいてまもなく
テレビで見慣れた皇太子殿下の笑顔が垣間見え、
続いてそのご家族の姿もまた目に映る。
御料牧場でのご静養のための出立だったらしい。

外交的に完璧な笑顔、それはご夫婦そろって一緒である。
いつものように……。
ただアイコサマだけが子供らしく固い表情をされていた。

それはほんとうにテレビとおんなじだったのだ。


そのテレビ映像により刷り込まれた既視感ゆえか。
自分と5mと離れていないところを
笑みを浮かべながら歩くマサコサマに
「しもじも」の悲しさかな、
私はつい、手を振ってしまう。
そんなところで手なんか振ったのは私だけだったのだが。
だが、
マサコサマはそのひとりの「しもじも」に手を振り返す。
親愛でもなく、義務でもなく
多分それは完全なる習慣だったのだろう。

この先も、この方は
何千人、何万人もの見知らぬ「しもじも」に手を振り返すのだ。


……


それは、ほんの数秒の出来事だった。

あっというまにその人だかりは去っていき、
後に残ったのは、
アイコサマの白いワンピースと、意外と高いその背のこと、
マサコサマは腰まで髪を伸ばしていたのだな、ということ。

そんなつまんないことを
思い起こしながら「しもじも」である私は
ご一家と同じ新幹線に乗り込み、
夫のふるさとに帰省する。

ちょうどそのときは下を向いていて「ご一家」を見損ねた我娘に
「ひとりだけ手振ったなんて恥ずかしいー」
などとからかわれながらも、
それでも

「ちょっとしあわせ」

に浸りながら……

|

より以前の記事一覧