2016/06/20

大人の習い事

4年ほど、声楽を習っています。


……


4年っていうのは私にしては続いているんだと思います。
だから合っていたのかって言われるとそうとも言えない…

だって、どう考えても「楽しい」、ってのとはちょっと違うんですよね。
どちらかというと負担に感じることのほうが多いです。


先生は割とシビアな方だし、
今でも週1回のレッスンの前はかなり憂鬱になるというのが正直なところ。


仕事で疲れているのに、家事もあって、結構いっぱいいっぱいなのに
「ああもう、なんでこんなこと始めちゃったんだろう」って後悔したのも早かったです。
好きだったアリアをiPodで聴いても、
なんだかレッスンのことが頭をよぎって単純に楽しめなくなるのも、頻繁なこと。


でも2年、3年と続けていくうちにね、
発表会にはドレスアップして緊張しながら歌うのも
この年になると貴重な体験。
乙女の永遠の夢であるイブニングドレスを
ハロウィンでもないのに着られるのは音楽を演奏するときぐらいなものでしょう?
(もちろんハロウィンでも私は着たことがなかったですが)


過去の演奏のDVDと比べれば声も幾分かはマシに出るようになってきたし。


なによりよかったのは、
子供たちと習い事や部活の苦労や喜びを、共有できるようになったってことかな。

練習なんて地味でつらいことばかりだけど
それでもやらずにはいられない。

そんな気持ちこの何十年忘れていました。


ちょっとうれしい。

ああ、大人の習い事ってそこがいいのかも…


だから忙しい時間を見て、大切なお金をはたいて、
大の大人が、わざわざ厳しく指導されに行く、のかもしれませんね。


でも
そう思いながらも
やっぱりレッスンに行くのは相変わらず面倒で憂鬱。


毎度、
牛にひかれるように教室に向かう私です。

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2011/01/25

白鳥の騎士、死す

かなり前に、こんなエッセイを読んだことがある。

それは、
マイケル・ジャクソンのファンであった友人の話で、
「その友人はその死を悼み精神的にかなり凹んでしまった」
というような内容。
その中で筆者は
「自分はマイケルにはあまり思い入れが無いので、
何故それほどまでにダメージを受けるのかがよくわからない。
が、確かに○○○○が亡くなったときの喪失感を思い出してみると、
その感情はわかるような気がする」
みたいなことを書いていた。
(すみません、
この「○○○○」が誰であったのかはすっかり失念してしまったのですが。)

そこで、
その文章を読んだときの私の感想なのだが、
「ああ、私は「このひと」が亡くなったらダメージを受けるような
いわゆる自分のアイドルがいないのだなぁ」
というなんともうら寂しい感覚だったことが
印象に残っている。


うら寂しい?
そんな感想持つなんて我ながら不思議だった。

いわゆる「追っかけ」みたいなことをやったことはないし、
やってみたいと思ったこともない。
何かとてもいいと思う楽曲や劇に出会ったとしても
その作品を離れて
それを演じているアーチスト個人に熱烈な想いを抱くなんてことは
本当に稀なこと。

そして
実際のところ私自身は
そういう自分の
「熱狂する性向の不足」や「一歩引いて眺められる冷静さ」に
結構満足しているはずだったのに……


一方この筆者やその友人は
ファンとしての自分の存在すら知らなかったであろう
スーパースターを一方的に愛し、
その死ゆえに少なからぬダメージを受けている。

ファンとは結局そういうものなのだろうし
そんなことに「割が合わない」なんて思うような私のような人間には
誰かのファンになるなんてほとんどこの先ないだろうな


それはそれで
ちょっとさびしい……
でも、私はそういう人間なのだから仕方ない……のかな……

と思っていたところに、
つい最近ある人物の訃報を知ったのだ。


その人の名は、ペーター・ホフマン。


ワーグナー作品のへルデンテノールとして
その容姿からも
日本でも一時かなりもてはやされた歌手だった。

私が家庭を持って
オペラ鑑賞どころではなくなる少し前から、
彼はテノールとして既に不調になっていたらしい
そんなこともあって彼のことは全く忘れていた。
たまに思い出しても「そういえばあの人出ないな」ぐらい……


しかし、今その訃報にふれて


もう、彼のような
絵から抜け出てきたようなローエングリンは
そうそう出てこないんだろうな


と、思うと
なんともいえない喪失感が湧き起こってくる。

亡くなったのは去年の11月末。
その後一月以上も遅れてそれを知り今更凹んでいるなんて、
全くファンというしても、
あまりにも間抜けな私であるが


それでも
私にもこの惜別の感覚を味わうことができたということ、

それを、
こんな風に書くのもおかしなものだが

今、感謝している……


在りし日のペーター・ホフマンのローエングリン(1982)

特に終盤6分50秒ぐらいからの”Elsa…!Ich liebe dich…”は、
まさに絵のようです……

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2010/12/07

二人称代名詞のない不便さ

昨日
オフィスに飛び込みの営業さんがやって来た、
「ミネラルウォーターのサーバーを置きませんか」と……

もう設置してあるからと断ろうとすると、
彼女は「お姉さんのご自宅ではどうですか?」とさらに薦めてくる。

「お姉さん」!だって……
なんと
もう四捨五入すれば50にもなる女を前にして……


もちろん
営業さんなのだから
そういう呼びかけをするのだろう。
(みのさんの中年女性への呼びかけ―「お嬢さん」と同じなのだ。)
さすがにその程度のミエミエのヨイショで
要りもしないミネラルウィーターのサーバーレンタル契約を結ぶわけもなく
丁重お断りしてお帰りいただいたが、
果たして
彼女がいなくなったあと考えてしまった。

ミエミエの「お姉さん」がダメとして
じゃあ、彼女は私に向かってなんと語りかければよかったのだろうか?と。

「奥さん」?
「おばさん」?
「事務員さん」?

どれも
申し訳ないがオフィスにいる女性(45歳)に語りかける呼びかけとしては
不適当だ。
特に
何かを売ろうと低姿勢で入ってくる営業ウーマンが
そんな言葉を使うわけにはいかない。


と、
考えていてとみに気がついたのが
私たちの日本語の話し言葉には「二人称代名詞」がない、ということ。


何言ってるの、ちゃんとあるじゃない「あなた」っていう言葉が!

っていわれる方、
ではあなたはその言葉を口語として使ったことがありますか?

私はありません。
もちろんもっと砕けた関係である子供には
「あんたたち」っていう言葉を使うことはありますが、
少なくともある程度の遠慮や敬意をはらう必要のある人には
「あなた」なんて使ったことはない。
いつだって
「○○さん」という固有名詞か「先生」とか「部長」のような役職名を
呼びかけに使っているのです。
理由は…
まあ慣れていないってのもありますが、
どうも「あなた」や「きみ」って言葉には、
話し手の聞き手に対する「上から目線」みたいなものを感じるから、
っていうのもあるからなのでしょう。
(これは私が勝手に思い込んでいるだけなのかもしれませんが)

いずれにせよ、
「あなた」という二人称代名詞を使う機会というのは
口語の場合ほとんどないのが現状でしょう。
本当のところ
さっきの営業ウーマンなんて
「あなたのご自宅ではどうですか」なんていうふうに
二人称代名詞を使って会話をすれば
「お姉さん」なんて無理なおべんちゃら言葉使わなくても済むのでしょうが、ねぇ……

一度きりしか会わない相手に
いちいちその人の性別とか、既婚者かとか、どれぐらいの年恰好なのか
なんて見定めないと呼びかけることも出来ないなんて、
なんだか、

結構面倒くさい言葉ですね、私たちの母国語は……


ま、
そういう細やかな配慮ってものが
この国のもつ文化なのだ

と言われれば

確かにそのとおり、ではあるのですが……

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2010/11/26

「愛する人」と「宣言する人」

昨日
新聞で興味深い記事を読んだ。

それは「アマチュアとプロ」というテーマについて書かれたものだったのだが、
私の目を引いたのはアマチュアという言葉の語源。

それによると、
アマチュア=amateur(英)は
「愛する人」という意味のラテン語 amator(アマートル)から来ている言葉だとか……
どうも現在の日本においてアマチュアという言葉は、
プロ即ち「玄人(くろうと)」の対義語として使われることが多いせいか
アマチュア=「素人(しとうと)」というイメージがあるが、
そもそもの語源から考えてみるに、
この言葉は「素人」というよりは「愛好家」というニュアンスのほうが
しっくりくるもののようである。

「つまりそれで報酬を得ていようがいまいが、
それを愛するものは皆アマチュアである」
というような内容が
その記事(コラム)には書き連ねられており、
さらに、
「アマチュアではなくなった
(つまり「愛」を失い「生活を支える手段」としかそれを認識できなくなった)プロこそ
悲惨なものはない」
と続いていた。


愛を失ったプロ、か……

たしかに一見それは悲しい存在に思える。


が、しかし逆に言うと
「プロ」とは良くも悪くもある程度そういうものなのだろう。
プロとは、プロフェッショナルとは、
決して「愛好家」のような柔和で生温いものではない。
「どんな苦難があったとしてもその道を「プロ」でやっていこう、
糊口を凌いでいこう」
という決死の覚悟をした人と、
他に生計を立てる手段を持ち
あくまで自分の楽しみ、趣味としてそれを楽しむ人との間には
大きな違いがあるはず。

これはこちらのサイトで知ったことだが、
プロ=professional(英)とは
「宗教上の『公言、宣言、告白』といった意味をもつ profession」からきた言葉で、
その
「profession は、動詞の profess とともに、
『公に宣言する』という意味のラテン語 profiteor(プロフィテオル)の完了分詞
professus(プロフェッスス)からできた言葉」

だということである。(斜体は引用文)

つまり、「公に宣言し、周囲からもその能力を認められた者」こそが、
いわゆる「プロフェッショナル」なわけで、
どんなにそれを愛していようが、どんなに優れた能力をもっていようが、
「その道で生きていくと公に宣言」していない「愛好家」=アマチュアとは
やはり一線を画すものなのだ。


……


「趣味を仕事にしちゃうと、もうそれは趣味じゃなくなっちゃうんだようね」
昔そういっていた人がいた。
絵が好きな人で
その関係の仕事に就いたことを私が「いいなぁ、羨ましい」といった後の言葉だった。


まさしく、
彼は

ある種の「愛」を失った人

―即ち「プロ」、だったのだろう。


「何かを得たものは何かを失う」

人生とは、
そういう

「質量不変の法則」

が、何処までもつきまとうもののようである。


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2008/10/09

階級社会に咲く仇花―ロマンティック

前世占いとかいうものがありますね。

不思議なことに
あれで出てくる前世というのはどういうわけだが、
お姫様や騎士や僧侶、国王など。
農民やその妻なんてのは、
その当時の人口に占める割合は相当なものなんでしょうが、
さっぱり出てきませんね。

いや、わかります。
ああいうものに難癖をつけるなんて野暮もいいとこだっていいたいのでしょう?
そのとおりです。

だってせっかく占った結果が姫君や孤高の王ではなく
「農民の妻、8人の子を産み最後の子を産み落とすとき難産のため死亡」
なんてのじゃ現実的過ぎてがっかりしてしまうじゃないですか。
別に誰だってあれをやって
本当に自分の前世が中世の貴婦人だったなんて信じるわけでは無い。
だから
それぐらいのサービスはお遊び占いをしては当然。
現代はこんな無味乾燥なロマンもへったくれもない時代なんだもの。
少しは貴族趣味を満足させて、ロマンのかけらを味あわせてもらいたい、
それが人情ってもんなのでしょう。


かくいう私もこっそりと貴族なるものに憧れを抱いていたものでした。
そして
なんで現代の日本にはそういうロマンチィックなものがないのだろうと、
不満に思ったものだったのです。
だって、そうでしょう。
日本の列車には優雅な一等車すらはない。
あるのはビジネスマンが商用に使うグリーン車ぐらい。
貴族や階級、伝統、
そういう古臭く合理的とはいえないけど堪らなく心躍らせるものは、
先ほどの占いのようなお遊びや娯楽のエッセンスとして
わずかに残っているぐらいではないですか。
これは戦後のおどろくべき平等主義の徹底が
階級社会に咲く「ロマン」という仇花を徹底的に排除した結果なのでしょう。
そしてそれはもちろん、良いこと、だったはずなのです。


それでも
ものすごく不思議なのですがどういうわけか
その平等で庶民的で大衆的な文化に
紛れもない大衆の一員でしかない私は物足りなさを感じてしまう。
そうです、
つまり身の程知らずにも私もまた
エリートとしての貴族的な感覚を味わいたいと思ってしまう一人なのです。


そして
かつてないほど平等に価値をおいていた
この国にすら、
格差と呼ばれる不平等が生まれつつある今現在……

この期に及んで
まだ暢気に古き良き階級社会のロマンに憧れ続けられるものなのか、と、
自分自身に問いかけています。
その憧れとは所詮、
自分だってどちらかといえばエリートに入れるはずだという
勝手な思い込みによるものであり、
その思い込みが崩れてしまえば、
つまり貧困の穴にひとたび落ち込んでしまえば
古き良き階級社会の負の部分のみが
重く私にのしかかってくるだけなのではないのか……と。


かつて
階級社会の底辺にいた庶民の人たちは
どうだったのでしょうね。

彼らにとっても「優雅なる貴族たち」は憧れる存在だったのでしょうか。
それとも自分たちを搾取する呪うべき存在だったのでしょうか。

なぜか、
そのあたりを無性に知りたい今日この頃なのです。

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2008/02/12

伝統と因習と

過日の相撲部屋での傷害致死事件の報道などを
見ていて思ったこと。

今や口を揃えて言われるのは
閉鎖的かつ前時代的な大相撲界という社会に対する
改革や開放を望むという意見・・・
もちろん
命というものは
この世界において最もかけがえのないものだから、
だから
こういう意見が世の中を占めるのは当然なことだし
これを機会に
閉鎖的な社会にメスが入るのは喜ばしいことであると私も思う。


でも
ある意味こういう改革というのは
それはひとつの「伝統」の終焉でもある、

そういうふうにも
私には思えてならないのである。


学校を出したばかりの腕白な荒くれ少年を
国技の力士としての逞しさと
それに見合う品位を付けさせる。
それは
上には絶対服従という
上下関係の厳しい掟の下でこそ育つと考える人も
少なくはないだろう。

そういう伝統に基づいた相撲部屋が
世にあるほかのスポーツジム並みに
民主的で開かれた存在になったとして
それ自体は
とても喜ばしいことではあるが
それを心の底では舌打ちする人間が必ずいるものだ。
例えば、
自分自身も辛酸を舐めてきて
それだからこそ大成したと自負する先輩方とか、
辛い修行こそが実を結ぶと
信じている昔かたぎの指導者方とか
そういう根性論好むを文化人とか・・・

それでなくとも
脆弱に育った今の日本の若者に
この国技を担い続けることができるのか
という意見は根深くある。
今や社会の根幹を成す民主主義とか自由・平等とはまた別に
守られねばならない「伝統」というものも存在すること、
そして
そこには一見不条理とも見える男尊女卑や人権の蹂躙も
垣間見られること、
そしてだからこそ価値があるかのような
見方もあるのも事実なのである。


もっとも
「『伝統』とは『因習』とは違い
守られるべきものではなく
新しい要素を取り入れながら育っていくものである」
という考え方もある。
確かにそうなのかもしれない。

しかしそれは
あくまでその「伝統」が辿ってきた道を振り返った上で
いえる言葉なのであり、
今現在変わろうとすることに対して
肯定的に使われることはほとんどない。

現在進行形の変革は
常に「伝統」の敵であり破壊者にしか過ぎないし、
そういう意味では
「伝統」と「因習」は全くの同義語であり、
それを語るものにとって都合が悪い「伝統」だけが
「因習」という名で呼ばれるだけの違いでしかないのである。


・・・


今やすっかり議論の対象から外れた感のある
「女性天皇」もしかり。


今や
誰かが「伝統は守られるべき」という言葉を発するたびに、

もうその「伝統」そのものは
既に「因習」に成り下がっていること

そしてその言葉が
そのことを証明しているに過ぎないこと、を

私はいつも痛感してならない・・・


ああ・・・
「伝統」とはかくも誇らしくもあるが
その反面、
私たちをがんじがらめに捕らえる憎い縛めでもあること、

どうも
そのことを隠すのが
この言葉の口当たりのよさは、巧妙過ぎる・・・

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2007/04/26

にごりの美

最近気付いたのですよ、
濁音の美しさというものに。
私はね、
どうも濁音+ラ行の音に特に弱いらしい・・・

例えば

かずら(=蔓)
おごり(=驕り)
にごる(=濁る)
しぐれ(=時雨)
おぼろ(=朧)

みたいな・・・
なんだか
この手の言葉にはゾワゾワってきちゃうんですよね。
口の中でこれらの言葉を転がしているのは
なかなかの快感なんです。

何故なんでしょう。
音としての耳障りがいいということなのでしょうか?
私自身は一種の快感を感じるのですが、
それがどうも個人的感覚なのか
それともほかの人にもある程度普遍的に感じられるものなのか、
その辺はよくわからないのですけどね。

でも
考えてみると不思議な音です、濁音って。

濁るなんて一般的には決していいイメージではないのに
その濁りが思いもよらない味わいを
その以外の澄みわたった世界に与える・・・
さながらそれは
音の世界での
悪役でありながらいい味を出す名脇役のような存在、
とでもいいましょうか。

まあ
ともかくも

「言葉とは、その音を楽しめる短い短い『音楽』なのだな」なんて、

今更ながら
つくづく思った次第、なわけで。


さて
先ほど掲げた言葉たち
―3つの音で奏でられた音楽―は、

どれだけ
皆さんの心に触れることができたのでしょうね・・・


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2007/01/30

「寂」と「淋」と・・・

 ・・・「さびしい」って書くときに、

 「寂しい」と「淋しい」、
  あなたはこの2つ、どちらを多く使っています?

 実は
 私はほとんど100%「寂しい」のほうを使っていたのですが、
 先日コメントを下さった方の「淋しい」という文字を見て・・・
 そこでハタと気が付いたような次第なのです。

 この「淋しい」と「寂しい」が
 同じ「さびしさ」をあらわしているとは
 なんとなく思えない・・・


 淋しい、淋しい、淋しい・・・

 ・・・なるほど。

 「寂」がなにやら翁の枯れたさびしさを感じさせるのに対して、
 こちらの「淋」はもっと女性的な情感が込められている気がしますね。
 ヒダの多いウェットな感じでとでも言うか・・・

 そんなことから派生して
 さまざまな同音類義の文字を思い浮かべてみたのです。

 例えば
 「なみだ」の「涙」「泪」「涕」
 「みどり」の「緑」「碧」「翠」
 「からす」の「烏」と「鴉」とか、

 そうそう、「思う」と「想う」もそうですね・・・


 そのほかにももっといっぱいあるかもしれない類義文字。

 「正しい意味や使い方をしっかり把握しているのか?」
 と尋ねられればきわめてあやふやだったりもするのだけど、

 そうですね、
 演歌で流す「なみだ」は「泪」のほうが似合いそう・・・とか
 3つの中では「碧」が一番透明感を感じるな・・・とか
 「ギャアギャア」鳴くのは「烏」よりは「鴉」だろう・・・とか
 そして、
 ラブレターに込める「おもい」は「想い」に違いない・・・と、


 そんな
 自分のイメージの文字の世界に遊ぶのは

 これで
 結構楽しい空想ごっこになるんですよ。

 ま、結局
 暇ってことなんでしょうけど・・・


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2006/11/30

・・・だから、なに?

 ・・・文章を書く。

 多分誰にでもあること、
 きっと誰かも思ったこと、

 それを自分の視点で形にしてみる。

 誰ともちがう
 自分らしい切り口で・・・

 そんなちょっとした野心が、胸の中でちらつく。


 が、
 その勇んでいる横で
 別の自分もこうささやくのだ。

 ・・・だから、何?


 ・・・だから、何なの?
      ・・・何だっていうの?

 こんなこと
 書かなくてもわかりきったこと
 陳腐で当たり前な何処にでもある文章
 それを人目にさらして
 自分は一体何を求めているのというだろう。


 常にあるのはこの葛藤。

 結局
 世に存在する全ての創作というものは、
 皆、この葛藤を潜り抜けてきたものなのかもしれませんね・・・


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2006/11/14

訛りの魔力

 たとえば、何かの文章を読んだとしましょう。
 言うまでもなく
 そこからはいつもさまざまな出来事・書き手の考え・感情が伝わってくるのですが、
 常になく「おやっ」と思うことがあります。

 それはその文中に会話が出てきて
 そこに微かなお国訛りが垣間見られるとき。

 ああ、この方は○○の方だったのだなぁ

 でも
 筆者のお住まいの地域は実はもうせんから知っていることも多いのです。
 それにもかかわらず、
 その会話文を目にする度に
 私はいまさらの如く上記の軽い驚きを感じるのは何故なのでしょうか。
 多分、
 それはその言葉がその文章にも驚くべき変化を
 与えるから。
 それまでは
 平面的で字面以上の世界を持たなかったその文章を
 立体的で具体的に―色や香りすらもつ生生しいものに、
 一瞬のうちに変えてしまう、
 あたかも、
 文章から登場人物たちが湧き上がってくるかのように、です。

 つまり
 お国訛りとは、それだけ不思議な魔力を持つ言葉なのですね。


 ああ、いいなぁ・・・

 残念ながら
 東京近郊のベットタウンに生まれ育った私には
 無味乾燥な共通語があるだけ。
 はっきり言ってツマラナイものです。

 一度でいいから私も
 「・・・してよか?」とか
 「あかんなぁ」とか
 「・・・してまって」や
 「どこさ行ぐ?」って言ってみたいもの
 (ごめんなさい、めちゃめちゃですね―汗)。


 というわけで、
 私もネイティブ東北人の夫を前に
 ちょっとした真似ごとをするのですが、
 それはあくまで身内である夫にしか披露できないレベル。
 とても他のネイティブの方の前では喋れたものではありません。
 おそらく一生喋れないでしょう。
 (彼らの言葉と私の言葉では
 音の出てくるところからして違っているようにすら思えます。)

 そこで、
 ネイティブのブロガーの皆様にお願いがあります。
 その記事中に会話を、
 できれば喋ったそのままの会話をたまには載せていただきたいのです。
 臨場感が増すこと請合いますよ(笑)。


 でも、
 話し言葉をそのまま書くって意外と気恥ずかしいもの、
 それは、
 今回書いてみて実感致しました・・・・

 ですので
 それでもよかったら、ということで

 どうぞよろしくお願いします・・・

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