2011/07/07

「セイムタイム、ネクストイヤー」

夕べ七夕の記事を読んだ。
年に一度の逢瀬。
しかも雨が降れば流れてしまう儚い逢瀬だ。

書き手の女性作家は
その七夕の「年に一度」という繋がりから
「セイムタイム、ネクストイヤー」へと話を続けていく。

お互いの素性も知らぬ一夜のアバンチュールのはずが、「来年の同じ時」の逢瀬を約束して別れる既婚者2人の物語。
その「年に一度の逢瀬」は25年も続くことになる。
互いにそれぞれの時を刻み成長していく二人の交流の深まりを描いたこの作品は、
舞台であるアメリカの時代の変遷なども織り交ぜられたなかなかの秀作らしい。

いわゆる不倫モノなのだろうが、
不思議と嫌らしさを感じないのは何故なのだろう。
年に一度という極めて限定された逢瀬だからだろうか。
二人が自分の、そして相手の家族をも気遣う品位を保ちながら
交流を続けていったからなのだろうか。

不道徳なのだろうが、
既に日常という真綿でとっくに絞め殺されてしまった夫婦間の恋愛感情と
年に一度の逢瀬への想いでは
勝負にならない。
もちろん
裏切られ続けている互いの配偶者にとっては
とんでもない話には違いないが。


映画化もされたようだか、
日本では未公開だとか。
DVDの類も発売されていないらしい。
ただ、舞台上演はされていたようだ。


……夫と観てみたいな。

ふと、そう思った。

結婚18年目。

この舞台を観たとして
彼の胸にはどんな想いが去就するんだろうか?


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2011/06/14

男女の間に友情はあるのか

昔からその存在の有無が取り沙汰される「男女の友情」。

結論から言うと
私は男女の間に友情というものは存在すると思っている。

しかし、
その男女の間に存在する「本当の友情」というものは、
絶対に「男女の友情」などという言葉では言い表わすばずがない、とも
固く信じているのだ。


たとえば、
あなたが誰かと友情を結ぶとする。
その相手が異性であろうと同性であろうと全く関係ない場合、
これが掛け値なしの「友情」だ。
これは、「男女の」ではなくただの「友情」。


これに対し、
「男女の友情」などという言葉で表される係わりは、
相手が異性であることに一定の価値を見出している関係。

こういう場合
「あの人を異性として意識したことはない」と言いつつも、
「あの人」が異性であることは
その語り手にとって大きな意味を持つ。

ちょっとしたはずみで危うい恋愛関係に陥るかもしれない異性間で
安定した友情を育めた自信。
「異性とそのような稀有な関係をつくることが出来た自分」
に対する自信が、この「男女の友情」の陰に潜んでいるのである。


……


ちなみに
私にとってこの「男女の友情」は1つの憧れである。
残念ながらそういう関係を築いたことは今までないのだが。

でも、
先にあげた
男女間の本当の「友情」のほうは多分、ある。

ここで「多分」というのは、
それは意識することすらない
本当の掛け値なしの「友情」だったので。

記憶に定かではないのだ。

……残念なことだが。


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2011/02/28

モード、オン!

それは突然入るスイッチなのかもしれない。
そして
それは私だけでなく、
誰でもそういうことは起こるものなのかも……

お恥ずかしい話であるが
心のどこかにある
恋愛モードのスイッチが急にオンになってしまったようである。
とにかく
やたらにセンシティブというか
ヒリヒリと敏感な感じ。
ロマンティックな妄想が後を絶たない。


先日見かけた
歯医者の待合室にあった婦人雑誌によると
4、50代の婦人は
ホルモンのバランスが崩れてくる関係から
こういう恋愛モードがオンになることは多々あるとのことだ。
いわく、
「韓流スターに夢中になったり、夫以外の身近な男性に密かにときめいたり…」
とのこと。


ああ、なんだかまいったなぁ。
そういうのって一番苦手な状況だと思っていたのに……


そもそも恋愛苦手体質の私が
恋愛モードをオンにしたところで
どうにもしようがないとも思うのだが、


ま、
とりあえずホルモンが落ち着くまでの辛抱ということ。
それまでは
オペラや映画でも観て
せいぜいロマンティックを満喫することにしましょう。

どうせ
恋愛モードに入るからには
手近な仮想恋愛なんて危険な真似より
時空を超えた世紀のロマンに遊ぶほうが
ずっと安全だし、
なによりゴージャスな気分に浸れますから。

もちろん、
自分の配偶者殿を惚れ直すってのも、
なかなか「いい手」だと思うのですけどね……

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2010/05/13

「ずっと好きだった」という言葉

最近よく聞くようになったこの言葉。
流行っている歌のせいなのだろう。
ラジオからもよく流れてくる。


昔、
恋愛心理の描写に定評のあったある女性漫画家は、
こんなことをいっていた。
「『ずっと好きだった』という言葉は
恋愛モノの始まりとして本当に使いやすい言葉なんです。」と

「ずっと…」という純粋さ、
そして
「好きだった」という過去形を使うことによるあいまいさ。

「なぜ今になってそういうことを言い出すの?」
「今までそう言ってくれなかったのはなぜなの?」
そして究極の
「それで、今はどうなの?今も好きでいてくれるの?」という疑問、
それらが相手の中に次々とわいてきてその心を容赦なく揺り動かす。
そのあいまいさが
ストーリーのドラマ性を掻き立てるのだ。


確かに。
これほど、誠実さと狡猾さが絶妙のバランスで含まれている言葉も
ないのなのかもしれない。

好きだと言い切る率直さはない。
相手が拒絶の表情をちらりとでも覗かせたら、
「もうあきらめた今だから言えるんだけど」という逃げ道も残してある。
でも、
この言葉に少しでも心が揺れてくれるのなら、そのときは……


……


ああ、いやだなぁ。ちょとずるい感じだし…

でも現実的に考えてみると
映画や小説の中ならともかくこんな言葉が使われる状況なんて
ほとんどないんじゃないだろうか。
だいたい
「ずっと好きだった」なんて想い、
相手に全く伝わっていないわけないじゃないか。
「わかっていながら相手は素知らぬふりをしていた」
それがその想いに対する答えなのだ。
というわけだから、
現実生活ではこんな言葉を吐く輩はほとんどいないはずである。
いたとしたも、
それは男であれ女であれ、
とんでもない自信過剰の勘違いなヤツに違いない。


だが、である。

それにもかかわらず、この言葉は廃れない。
現実ではありえなくとも、少なくとも夢物語の中では……
それは一体どうしてなんだろう?

多分
この言葉を吐ける人間はほとんどいなくても、
こう言ってもらう事を夢に描いている人間は数多く存在する、
からではないだろうか?

だから
この言葉は甘いストーリーや歌詞には欠かせない。
恋愛モノの定番の小道具として健在なのだ。
今も昔も、これから先もずっと……


まったく、

「ずっと好きだったんだ」なんて

うーん、
見れば見るほど、
こっぱずかしい言葉には違いないけど、ね、やっぱり……

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2010/01/18

もっと他に考えることはないのか!

表題は、かつて友人が言っていた言葉。

小説にせよ映画にせよ
ベタベタな恋愛ストーリーに触れると
その不毛さに苛立って仕方がないのだという。

「そういう連中を見ると
『もっと他に考えることはないのか!』って思っちゃうんだよね」
と彼女は笑って言っていた。


それを聞いて、私も笑った。

確かに
仕事や人間関係、勉強、
いやいやそんなこと以前の「どうやって生活していこう」みたいな
切実な金銭問題など
そういう現実的な視点が
その手のジャンルには全くといっていいほど描かれてないことが多い。
その浮世離れさ、や
「愛こそ全て!」みたいな厚かましさに
ものすごい腹立たしさを感じる、
私もそんな女だったから。


でもね、
一冊の本を読み終えて、
それがいろいろな要素―リストラとか老後の心配とかあからさまな差別とか―
そんな極めて寒々しい現実を描いた作品だったとして、
そのリアルさゆえに感銘を受けたはずなのに
自分が真っ先に読み返すのが
一番甘々のヒロインがプロポーズされるシーンだったりするのも
よくあることなのだ。


そのたびに
もう何年も会っていない
その彼女になんとなく申し訳ない気になる。
「……ごめん、私もまだまだ甘いなぁ」
なんて。


でもその反面こんな風にも思うのだ。

恋愛って
ほんとやっかいで
そればっかりに浸っている連中ほどアホくさいものもないかもしれないけど、
全くそれもないなんてのも無味乾燥っていうか、

まあ
やっかいだけど
避けても通れないもんなのかもよ。


もう絶対
会うことはないだろうけれど
もしもその彼女と再会したらそんなことを言ってやりたい。


なんて、

彼女だってもちろん
そんなことはもうとうに知っているのだろうから
実際は何も言わないんだろうけれど。

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2009/03/04

つい媚びちゃう人

ふと思い立ち、
「媚びる」という言葉をひいてみる。

こ・びる【×媚びる】
[動バ上一][文]こ・ぶ[バ上二]
1 他人に気に入られるような態度をとる。機嫌をとる。へつらう。「権力者に―・びる」「観客に―・びる演技」
2 女が男の気を引こうとしてなまめかしい態度や表情をする。「―・びるような目つき」
(大辞泉より)

ううーん……
私にはどうもこの「媚びる」って行動、
特に2での意味でなんだが、今も昔もかなり苦手だ。
若いときなんか
「媚びる」ということは恥ずべき行いで
そんなものを駆使するのはプライドが許さないとまで思いつめるような堅苦しさが
自分にはあったと思う。
一般的に「媚びるのが上手い女」は同性には好かれないものだが、
そういう意味で私は全くの人畜無害な存在。
むしろ「色気がない」というのは自分のウリだと思っていたぐらいだから、
良くも悪くもそういう敵意を感じたことは一度としてない。

でも世の中には
私とは真逆なタイプの
つい「媚びちゃう」人もいるのである。
学校を卒業してすぐ入った会社の同期にそんな感じの女の子がいた。
ほっそりとして小顔の可愛い子だった。
彼女は当然のごとく男性からのウケがよい。
同期入社の新人男子から部課長クラスのおじさんたちまでその支持層は厚かった。
だって考えてもみればわかる。
そこそこの容姿の女の子が何気に「俺に気があるのかな」なんて思わせる様子をみせてくれるわけだ。
それを嬉しく思わない男性はいないし、
結果として彼女を憎からず思うのも無理のない話なのだ。

だけど、この男たちだって
ひとたび「他の男にも媚びている」彼女の姿に遭遇したとたん
それこそ可愛さあまって憎さ百倍となる。
俺にだけ媚びてくれるならいいけど皆にもいい顔する女はただの尻軽なのであって
こっちから願い下げなわけだから。

こうして「つい媚びちゃう」彼女は同性からも異性からも総スカンを食う羽目に。

結局彼女はあまたの男性の中からひとりを選び
結婚して会社を辞めていったわけなのだが、
その選択からもれた男たちと、
その男たちの羨望の眼差しを彼女に奪われ続けていた女たちのやっかみから
彼女の噂話はその後も悪意を持って語られるばかりとなった。

まあ、
彼女としては辞めた会社でなんと言われようが痛くも痒くもないのだろうが。


しかし
彼女のように「つい媚びちゃう」のも
私のように「媚びたくとも媚びられない」のも
考えてみると大して違いがないのかもしれない。

「媚びなければ」余計な敵を作らずに済むことはたしかに楽だが、
人生に一度くらいモテモテっていう体験もしてみたいとは
意外と正直な願いだったりもするから。

惜しくらむは、
もしももっと早く「媚び」に対する抵抗感を払拭できていれば……


いやいや、
人生にもしもはない。

彼女がつい媚びちゃう女になったのは、
そういう生き方を自分で選んだからだろうし、
私が媚びられない女になったのだって、
そう生きるのが一番自分に合っていると確信した結果なのだから。


だからせめて
自分とは別の生き方を選んだ人に対しては
寛容とまではいかずとも
理不尽な侮蔑や憎悪は向けないでいたいものだ、と

「媚びる」

という字を見ながら考えてみた。


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2008/09/17

恋愛苦手体質にとっての結婚とは

「結婚して何が一番良かったかってさ、
そりゃ
『これから結婚しなくちゃ』ってことを
もう考えなくても良くなったことなんだよね……」


これは
結婚して間もない頃
時を同じくして結婚した友人が言っていた言葉。

(あぁ、本当にそのとおりだ……)と、
それを傍で聞いていた私は、
しみじみ感じたことを覚えています。


結婚の最大のメリットは
結婚しなきゃという脅迫感からの開放だったなんて、
考えるとおかしな話ですよね。
いや、おかしなというよりかなり皮肉な話というべきでしょうか。
でも
当時妙齢とされる年代に差し掛かった私たちには
「結婚しなきゃ」という内と外からのプレッシャーは
そりゃあ相当なもので
正直な話、
結婚なんて面倒なものが
気が付いたら終わってしまっていたら
これほどうれしいことはないと
当時の私は真剣に考えていたほどでした。
(そういえばこんな記事を昔書きましたね)
そんな私にとっては
結婚はまさに
「もう結婚のこと考えなくてもいいんだよ」というお墨付きを
天からご褒美として与えられたようなもので……
その幸せに浸っていた私は、
前述の友人の言葉に
深く深く頷いたものだったのです。

よく言われることですが、
勉強やスポーツや仕事はもちろん、
果ては友人や同僚・上司・部下とのコミュニケーション能力などですら
「こうすれば良い」というハウツーが世には満ち溢れているのに
恋愛のハウツーって、
確かなものは皆無といっていいくらい無い。
それなのに
それまでの学生時代は、
男の子になんぞうつつを抜かすより
勉強や運動に熱中することこそ良しとされていても、
学校を卒業した辺りから突然、
色恋に不得手なことが重大な欠点として取り沙汰されるようになり、
恋愛力の強化を強いられる。

でもそんなこと突然言われても、ね。
どこをどう頑張れば恋愛を成就できるのか
思春期から上手くその能力を育んできた一部の人たちを除くと
殆どの人間が途方にくれるわけなのです。
そして
真面目で律儀な人間であればあるほど
その難しさに絶望する。


恥ずかしい話ですが、
私は結婚後も
「これから結婚するにはどうしたらいいんだろう」と
思い悩む夢を何度かみることがありました。
10年ぐらい?
さすがに今となってはあんな夢をみることもなくなりましたが。

私にとっては
恋愛や結婚ってそれほどまでに
人生の一大ピンチだったんでしょうね。

運よく
夫のような人と家族になれたからこそ
言えることなのかもしれませんが
既婚者として「ホレタハレタ」とは関係ないところで
生きていられる状況に
心の底から感謝したいです。


やっぱり、
そういう意味では
結婚の最大のメリットって

「もう結婚しなくてもいい」ってこと?

これはかなり信憑性のある真実なのかもしれません。


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2007/10/25

ヒトとしての価値、オンナとしての価値

「あの人は人間としては素晴らしいけれど、
オンナとしては、ちょっとね・・・」
という評価と、
「彼女は女性としては魅力的だけど、人としてはそれほどでも」
という評価。
もし自分に対し下されるのだとしたら
あなたならどちらをまだマシと感じますか?

好むと好まざるとに関わらず
私たち人間というものは、
二つのものさしで互いを計りあっているようなところがあるようです。
それは即ち、
「社会における仲間として魅力的であるかどうか」
という視点によるものさしと
「異性として自分を惹きつける魅力をもっているか」
という視点によるものさし。


不思議なことに
この後に述べたものさし、
「異性としての魅力」に欠けると言われることは
最初のものさし
「仲間としての魅力」に欠けると言われることより
なかなか辛いことのように感じます。
どうしてなのでしょう。

多分、
仲間があくまで一対複数であるのに対し
異性間というのは無意識にも一対一のツガイを意識した関係であるからなのでしょうね。
異性としての目とは
「自分のベストワン」を選び抜く厳しいチェックを
するものだから・・・・
そのチェックにもれるというのは
なんとも悔しい、
たとえ相手が自分の意中の人でもなんでもなくとも、です。

そもそも
男女という二つの性とは
生殖のために創られたものであり、
種の多様性のために
最も好ましいと思われる異性を選ぶという
「選択行為」が根底にあるもの。

基本的に平等や友愛といったものが良しとされる文明社会以前の
長く脈々と続いたこの営み、
その選択対象からはずされるという屈辱は
より原始的な感情であり
理屈では説明できないものなのでしょう。

私たちが
こと恋愛感情や男女の問題に関して
理性的に対処できないのは
そういう理由によるものかもしれません。


・・・

なんてことを
こんなところで分析したところ
私のオンナの魅力が上がるわけでも何でもないのですが、


それにしても
この

「オンナとしての魅力を上げる」って努力、

一体どこに力を入れたらいいのか未だに皆目わからない自分に

妙なアキラメ感すら感じる
今日この頃なのです・・・


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2007/08/31

真実の愛も現実問題とすると・・・

某国にひとりの王子がいた。
王位継承第1位にあたる彼は
当然年頃になるころには適当な配偶者をえらぶ義務をもっていた
(断っておくと、この「適当」というのは「未来の王妃」に相応しいという意味である)。
しかし悲しいかな、
彼が愛した女性は身分も低く到底王妃として認められないような女性。
かくて

王冠を選ぶか、愛を選ぶか、

と、彼は選択を迫られる。
ここで愛を選んでいれば、
拍手喝采、この愛のドラマもめでたく幕を閉じるのだろう。
が、かつて愛を選んで退位した大伯父に批判的であった王室のためにも
彼には恋人のために王冠を捨てることはできなかった。
それを知る恋人は王子との結婚をあきらめ別の男性と結婚し、
王子のほうも未来の王妃に相応しい身分ある女性を妻にする。
だが、
かつての恋人に心を残しての結婚生活は不毛なものでしかなかった。
恋人も同じだったのだろう、
心を偽って結婚した二組の夫婦は離婚という形でその終止符をうつことになる。
その後、
王子の元妃が不慮の事故に逢い他界するなどショッキングな事件など紆余曲折はあったが、
最終的には、
王子と恋人はその人生半ば過ぎに結ばれる。
・・・
結局、自分の心は偽れず、真実の愛はそういくつもあるものではなかったのだ。


なぁんてこう書くと、
結構な恋愛小説の筋書きみたいではありませんか?
10年前の今日亡くなった元英皇太子妃の不幸な結婚生活も
視点を変えるとこんなふうにも言えそうです。
もちろんこんなふうに綺麗ゴトでは済まない点も
多々あるとは思うのですが・・・
(たとえば、
ちょっと前なら王室に妃以外の愛人なんて
当たり前のことだったとか、
それを受け入れられない妃など実は想定外だったとか、
妃のほうだって純粋な恋愛感情だけで
結婚したわけでもなかったかもしれないとか、
ドロドロしたものも全く無かったとは言い切れないようですし・・・)

いずれにせよ、
他人、特に英国民でもない私がのような者が
いろいろこの件についていろいろ思いをめぐらせるなんて
ただの野次馬以外のなんでもないのです。
だた、
基本的にはダイアナ元妃に好意的な世論を支えている大衆って
裏を返すとチャールズ皇太子とカミラさんの
こうした身分の違いを超えた恋も結構好きだったりするわけで、

そういうのも何だか面白いもんだな

なんて思った次第でして・・・

真実の愛も現実問題とすると
とんだ悲劇や周囲の迷惑を引き起こしてしまうものなのかもしれませんね。
だから
小説や映画なんかで楽しんでいるうちが花なのかも・・・


それから全くの余談なのですが、
それでも私が一貫して
この元夫婦の関係については
夫であった方のほうに好意的な感情を持てない理由は、
案外とても小さな出来事に拠るものだったりするのです。

それは
彼らの婚約時代に行われたあるインタビューでの
「いろいろ彼に教えてもらわないと」というフィアンセの言葉に対する
皇太子の一言。

「えっ?僕が?
僕が教えるの?」

「そうよ、頼りにしているのよ」とフィアンセは笑って続けていたが、
その様子をテレビで見ていた私(当時高校生)には
まったくの余計なお世話ながら
「なんだよ、この二人大丈夫かな?」という不安が感じられずにいられなかったこと。

嫁に行く前の不安でいっぱいのウラ若い未来の妻に
この突き放した言い方はないだろうよ!
たとえこれがユーモアだとしても
こういうのを洒落たユーモアだと思っている人って
なんか大事なとこが欠けてんじゃない?

とまあ、
下賎な言い方をすればそんなことを思ったことが原因なのです。
(まあ相手がカミラさんだったとしたら
 そんなことを言わなかったのかもしれないし、
結局は愛情の薄さがつい外に出ちゃったってもんなのかもしれないですけどね。)

東のはずれの国の
異人種で異教徒(私は英国国教会信徒ではないので)の者のもった印象なんて
プリンス・オブ・ウェールズである高貴な方には
屁でもないのでしょうが(下品ですみません―汗)。

それでも
英国民の少なからずの人々が彼の王位継承には批判的だなんて、
私の感想もあながち的外れでもなかったのかな、
妙なところに
自信を感じたりする
昨今だったりするのです(苦笑)。

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2007/04/24

本当に好きな人とは結婚しないほうがいい

「本当に好きで好きで仕方ない人とは結婚しないほうがいい」
そんな言葉を耳にしたことがある。
それも一度や二度じゃない。

言いたいことはわかる。
「好きで好きで仕方ない人」と「結婚する」ことは
その「好きで好きで仕方ない人」を永遠に失うことにつながるから。
どんな大恋愛でも
結婚という日常に辿り着くと
その一番素晴らしい要素―非日常性はゆっくりと抹殺されていく。
残念ながら、
このことはかなりの昔から皆知っていることなのだ。
つまり
その愛を永遠にしたいのなら、
結婚はしないほうがいいということなのだろう。

だからというわけなのか、
既婚者が昔の恋人への想いを大切に抱き続けているという設定は
昔から恋愛モノの定番だ。
そして、
多くの場合、
―これは女性を主人公にしたものに特に顕著なのだが―
その恋人は現在の配偶者より優れた存在として描かれてる。

・・・

ああ、でも

・・・ああぁぁ、すごく、嫌、
  そういう設定はものすごく嫌だ・・・!

貞操観念とか、
道徳的ではないとかいった問題ではない。
その愛に
限りなく利己的なものを感じるからなのだ。

今の私は「本当の私」ではない
「本当の私」はもっともっと素晴らしい私だったはずなのに・・・!

露骨にそうとは言わないまでも、結局はそこに行き着くのだろう?
だが、
その「素晴らしかったはずの貴女」の美しい恋の復活は
私の目には
「昔の美しい自分にしがみつく」
そのおぞましさがとぐろを巻いているようにしか見えない。

いいよ、
そうやって
いつまでも昔の恋を楽しんでいたいのならそうすればいい。
でも私は今を生きたいから。
昔の恋をこっそり懐に潜ませて
時々眺めて楽しむなんて人生はまっぴら。
そんなことするぐらいなら
自分の手でその昔の恋を
日常という真綿で締め殺してしまうほうがよっぽどマシだ・・・


と、いうわけで
その手の不倫恋愛モノは
プラトニック、非プラトニック如何にかかわらず
ものすごく苦手な私、なのであります。

そんな私を
「石部金吉」と

どうぞ笑いたければ笑ってください・・・

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