2013/03/31

贈る言葉

卒業文集をパラパラとめくってみた。

卒業生である子供達の文章、
送る側である教師たちの文章。

どちらにしろ、
こういうところに載せる文章というものは、
どこか気恥ずかしく、
なにやら私には耐え難いものがある。

文章を読みながらも、
この書き手は自分に
酔っている、
悪ぶっている、
あっさり感を演出しすぎている、
などなど余計な批判をついついしてしまう....

それでも、
そういった私の意地悪心を見事に粉砕する文章が、
その文集の中にはあったのだ。

それは学校の思い出を綴ったものでもなく、
卒業して行く子供達へ向ける励ましの言葉ですらない、
自分の若い日のちょっとした思い出を綴っただけのもの。

気負いもなく、
淡々と、
でも人生そうわるいもんでもないと、
語りかけるようなその文章に
勇気を貰った子も少なくないのでは?


三月、別れの時。
あと数時間で今年度も終わる。

新たな生活がまた始まる時期だ。

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2010/07/28

はじめに感想文ありき、なのか?

夏真っ盛り、です。
子供たちも夏休み。
そして、
夏休みといえば宿題であり
その中でも頭がいたいのは
ドリルなどの与えられた課題ではなく
自由研究
読書感想文
といった自主的な取り組みを求められるタイプ。

ま、それでも自由研究はいいでしょう。
これだけインターネットが普及した現代において
テーマさえきちんと決めたうえで本腰入れて調べる気になれば
いくらでも面白い研究ができそうですから。
となると問題はもうひとつのほう、
読書感想文です。

本、嫌いなんですよね。
とにかく読まない。
特に下の子(中1男子)は……
この前なんか
「ねえ、感想文ってさ、あらすじじゃだめなんかな」
なんて聞かれてしまったし。

でもそこでハタと気がついてしまったんですよね。
一冊の本のあらすじを書くのだって決して簡単なことではない。
その内容を要約する能力を培うという意味では
国語として決して無意味な作業ではないはずです。
それなのに「あらずじだけの感想文」って
「やっちゃいけない感想文の典型」みたいに思われている。
それもなんかなぁって。

もちろん「感想文」なのですから、
その本を読んで自分が感じたこと=感想を書かなきゃいけないというのはわかる。
ここで求められているのは、
あらすじのように文章を要約する能力ではなく
自分の考えをまとめて文章化するという能力なのです。
でも
その感想というもの自体がさほどのものでなかったどうなのでしょう。

ちっとも自分の心に響かない、
ていうか全然面白くなかった…

という、読書が苦手な子供のほとんどがもつ「感想」を
いっぱしの感想文に仕立てるにはどうしたらいいのでしょうか?


ここで大切なのは

「自分がもったその感想を読んだ人に伝えたい」

という意識だと思うんですよね。


つまらない、と思ったならそれでいい。
でも
「つまらなかった」って書くだけじゃ
そのつまらなさは感想文を読んだ人には伝わらない。
そもそもそんな感想文、読者にしてみたら読む気にもなりません。

どこがどうつまらなかったのか、
どうだったら面白かったのか

そんなことを読み手に分かり易く書くことができればいい。
また、
そういった「つまらない」などという直接の感想という形ではなくても
この本を読んだことによって自分のなかに浮かび上がった疑問や
本の内容から連想して考えたことなどでもいい。
この本を読むことによって考えたこと人にわかりやすく伝える。
それができれば
その感想文は、その辺にある当たりまえのものよりよっぽど面白いものになるはずです。


文章というのは
まず伝えたいという意思があってこそ生まれるものだという認識の欠如。
結局
この感想文という課題が
子供たちの多くに憂鬱を与えている理由は
このあたりにあるんじゃないでしょうか。

はじめに「伝えたいこと」ありき、で文章は書かれるべきなのに
はじめから「文章を書く」ことが前提になってしまっている。
だから
「何を書いたらいいのかわからない、
だからとりあえずあらすじを書いて枚数を稼ぐか」
となってしまうのです。


前述の子供の問には、
「感想文だからねぇ、あらすじだけじゃまずいんじゃない」
と答えたあと、こう付け加えておきました。
「でもあんたの思ったことを正直に書けばいいのよ。
 でも『面白かった』『つまらなかった』だけじゃだめ
 どこがどう『面白かった』のか『つまらなかった』のか
 そういうこと書いてないとあんただってそんな文章読む気しないでしょ?」

子供がこの言葉に納得したかどうかはわかりませんが
「自分の考えを読んだ人に伝える」
という意識にはちょっと心を動かされたよう……


国語って
知識とか感受性とか表現力とか言う以前に
気持ちを伝えるツール
結局それを磨く教科なんだ

という

学問としての根本を
私自身もあらためて意識した一件、でした。

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2010/05/28

「効率」を求めてはいけないところ

……先週の平日の午後のことです。

子供の学校行事のお手伝いすることになったので
仕事を抜けてその打合せに行って来ました。


1時間かそこらですむかと思ったので、
仕事には戻れるものとふんでたのですが
いやー甘かった。
延々と続くのですよ、その打合せ。

それでいて
議題に上っている主なテーマといったら、
当日の集合場所とか
何時に集まればいいか、とか。
(もちろんそれ以外のテーマも出ないわけでないのですが
 そのテーマもあっちこっちと飛んで定まらない……)

はぁー、集合時間とか場所ってさ……

そういうのは
10数人のメンバー全員が
顔を合わせて打ち合わせることでもないと思われるのですが、
どうなんでしょう?
そういう事務的なことは
責任者が学校側からの情報を元に合理的に決めたうえで通達してくれれば
結構なことなのでは?
(その決定事項に障りがある方は
後で個々に責任者と相談するということで)
それよりも今打ち合わせるべきは
当日の仕事における担当の割り振りとか、
割り振りったあとは
その担当グループ毎のさらに詳細な打合せなのではないんですか?


と、
私は仕事に戻りたいばかりに
身勝手にもイライラばかりを募らせていたのですが、
打合せの進行は結局そのペースのまま。
当日は「なんとなく各自やってください」ってことで
それ以上は何も決まらないまま終わったのでした。


はぁー
それで、いいのかね?

と虚脱感と共に学校を後にした私だったのですが、
しみじみ考えてみるに
どうも私は勘違いをしていたようです。
それは
この「仕事」に効率を求める、という勘違い……

結局こういうPTAの仕事っていうのは
合理的に効率のよくやるのが目的なのではなく、
より多くの保護者同士の「顔つなぎ」がメインなのですね……

だから
こんなふうにダラダラ続く打合せも
それはそれでいいんでしょう。
そもそも保護者のお手伝いなんぞに効率の良さなんて
誰も求めていないのですから。
要は
こなした仕事の量や成果ではなく、
それにかけた時間=保護者同士の親睦の度合いが大事。

これこそが
PTA活動の真髄なのですから。


というわけで、

次回からこういう打合せに参加する場合は、
「ささっと済ませたい」なんて不心得な希望は捨てて
少なくとも半日は費やす覚悟で参加しよう

そう、心に決めた私でした。

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2009/12/22

よい育て方、わるい育て方

青少年が犯罪を起こすと、
その犯人の育った家庭というものは、クローズアップされるものです。

それは
多少マスコミに脚色されたりしているのでしょうが、
過干渉であったり
その反対にネグレクトに近い放任主義であったり
まあ、
いわゆる普通の家庭ではなかったかのように報道される…


でも
本当のところどうなんでしょう。

とても社会的にも人格的にも立派な親が心をこめて育てたとしても
その子が社会的にも人格的にも立派な人間になれる可能性なんて
なんだかほんの少しもないのではないか…
どんな育て方をされても
結局はその子はその子のもって生まれた性向にしたがって
その人生を生きていくより他にないのではないか…

そんな気がしてならないのです。


「砂漠の船」
この作品では主人公は自分の娘をきちんと育てることに
世間一般の父親よりずっと心を砕いている。
しかし、
自分の栄達よりも家族の幸せを優先させる父親を「情けないもの」と感じる娘にとっては
父親の説く「家族の幸せ」は押し付けられた息苦しいものにしか感じられない。

もちろん、
この父親が「ひとりよがり」なため娘の心は離れたわけなのです。
それでも、私たちはこの父親を馬鹿なヤツと嘲笑することができるでしょうか?
己を振り返ってみて
自分が「ひとりよがり」ではないといいきれる親が
今この国には何人いることでしょうか?


結局
親ってもんは
子供が道を外れる瞬間に
「こんなことしたら親がどんなに悲しむか」って思ってもらえること以外に
何の力も持てないものなのです。
しかし、
一見何の問題もなくごく普通に暮らしている家族にとっても
そう思ってもらえることは
最早とても難しい……


そういう時代なのですかね、現代は。

経済的や環境悪化云々が理由なのではなく、
ただ漠然と子供を持つのを躊躇する…
そういう人が増えてくるのは
仕方のないことなのかもしれません。

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2009/06/17

子供を自分の作品のように錯覚する親たち

親というものは
すべからく子供のために一生懸命になってしまうものなのだろうが……

その中でも
どうもいっちゃってるなぁーと感じる人たちがいる。

それは
子供を自分の作品のように錯覚する人たち

こういう人たちは、
いかに手を掛けて子育てをしているかをこぞって話したがり、
それによりわが子がどんなに理想的に育っているかをひけらかしたがる。

あたかも
子供の優秀さは自分の成果であるかのような
鼻息の荒さだ。


やっぱり
自分が心血を注いでいる事業(この場合子育て)が
第三者から見ても評価に値するということを
確かめたいからなのだろうか。
外に世界を持たずに
内にこもり子育てに集中している人ほど
この錯覚には陥りやすいもののようである。

考えてみれば
子供の頃からずっと学校や職場で
常に評価のものさしに晒され続けていたのに
結婚して家庭に入ったとたん
そのものさしは失われてしまうわけだ。
いくら料理や掃除、洗濯を完璧にやったとしても
それを評価してくれるのは世間ではなく夫や家族といういわば身内。
それじゃあいまひとつ張り合いがない。
ところが
子供を得ることで事情は変わる。
その子成長し何某かの評価されることにより
自分もまた世間の評価のステージに再び上れるのだ。
……復活の喜びが胸にこみ上げてくる

わからなくもない。


それでも
子供の自慢とは、
聞き手にとっては夕べの夢の話と同じくらいつまらないもの。

得々と自分の教育論を語るお母さんを見るにつけ
「人の振り見てわが振り直せ」
という言葉が心の中をよぎる。

だって
同じ競うなら
「子供」じゃなくて「自分自身の何か」で競いたいじゃないか?

……そうじゃないか?


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2008/12/03

PTAの存在する意味

月末の仕事の忙しさと子供の学校の仕事が重なり、
思いがけず忙しい日々となった。
半休を取っての午前中の学校での打ち合わせが
その後の会社でも業務に響いて残業も長時間にわたり、
夕飯の惣菜を買って家にたどり着いた時間が
10時近くになってしまった日もあったりして。

こういう事態になると
思うのは決まってこんなこと、

すなわち
「PTAって何のためにあるの?」


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実際、
PTA活動って
不公平で
引き受けたひとには負担が大きくって
それでいてまさに「活動のための活動」というか、
本当に必要なのかどうかわからないものであることが多い。

私は今まで3年ほどその活動に参加したが、
この団体の活動
(例えば子供のための行事の企画、地域の文化行事のお手伝いなど)が
そんなに子供のためになっているかというと
正直、さほどのことはないというのが実感だ。

唯一、ためになったことといったら
それは子供のためのことというよりは参加している私自身のためのことで、
それは
「もしPTA活動に参加しなかったら
絶対体験しなかっただろうことをやった」ということ、
ただそれだけ。


人付き合いがどちらかというと苦手な私には
こんなことでもない限り
他の保護者のひとと知り合いになることもなかっただろう。

別にお母さん同士友達になろうなんて気は殊更ない。
その活動が終われば
また
単なる顔見知り程度の付き合いに戻ることが予想される間柄だ。
(実際お互いそれが望ましかったりもするのだし……)

そのように本当に一時的な交流ではあるのだが、
それでも
同世代の子を持つという共通点だけの全然違うひと達と
協力して何事かを成すということは
かなり面倒くさい半面、
実に新鮮な体験でもあった。
(たとえそれが無駄以外の何物でもない
いわゆる活動のための活動であったとしても、だ。)


「結局あれだよね、
 その辺りの『親同士の親睦』がPTAの一番の目的なんじゃないの」

という私の言葉を、
今年初めて活動に参加した若いお母さんは怪訝そうな顔で聞いていた。


きっと彼女は、
別の意味や目的をPTAの中に見つけだそうとしているのかもしれない。
そして、多分彼女にならそれは見つかることだろう。


だが、
6年間の活動を通じて私が感じたのは
それ以上でもなくそれ以下でもない。

実際、それでいいんじゃないの?


あと少しで私の担当するPTA関連の仕事も終了する。
学校に日参する日もあとわずか。

……引継ぎ書、整理しておかなくちゃ、ね。


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2008/09/02

「弱きものよ、汝の名は……」

子供はノビノビ育てよう…

いくらでも遊べるはずの小学校時代、
二度と来ないそのときを
目先の利益に飛びつくような受験勉強なんかで
犠牲にしちゃってもいいものだろうか?

勉強なんて
本人がやる気を起こしたときにこそ
やるべきなのだから。

10やそこらの遊び盛りの子供たちに
夕飯も食べさせずにマックの間食なんかでごまかしながら
9時過ぎまで塾で勉強させて、
そんなにまでして
得られる達成感や優越感なんて
一体どれほどのものだというのだろう、

だから、
うちでは中学受験などさせないわ。
そんな無理をさせなくたって
子供の可能性の芽を摘むなんてことになんか
絶対ならないと証明してみせる。

……


なぁんて、
そんな理想論をぶっているのも、子供が小学校の低学年ぐらいまで。

中、高学年と年が進むにつれて
ちょっと勉強に自信のある子の親たちは
どんどんどんどん進学塾の門をたたくようになる。

それが現実。

だって、ねぇ、

そう、やっぱり心配……


……やっぱりねぇ、
自分たちだけがのんびりして置いてきぼりをくうのは、
誰だって「ご免こうむりたいもの」だから。


こうして、
今日も理想よりも現実を選び
その信念(?)を曲げる、

「弱きものよ、汝の名は『母親』……」


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2008/06/25

「私の教育は正しかった」と悦に入る親たち

子供も中途半端に大きくなってくると、
いろいろと面倒くさいことも増えてくる。

やれ、勉強をもっとやらせなきゃ、とか
やれ、家の仕事も手伝わせなきゃ、とか
やれ、テレビやゲームは許すか許さないか、とか。

全く面倒くさいことこの上ない。
だが、
どこの家庭でも大抵の親はこの手の問題に心を痛め真剣に悩んでいる。
だって
自分の育て方で子供の人生が決まるのだから。
親として
ここで真剣に悩まずして一体いつ悩めばいいというのだろう。


でも、でも、
こんなことを書いている人がいた。

それは確か「ゲーム禁止家庭の子のその後は?」というトピックについての書き込みで、
親にテレビやゲーム、市販菓子・ジュース、マンガを禁止されて育った子供は、
理想的な子育てをされたことになるのか、
ということについての討論によせられた
「全レスを拝読して、とても不思議に思ったことがあります」
という表題のある意見だった。
(以下全文引用)


ゲームやテレビが子供の教育に良い・悪い
ゲームやテレビが子供の友人関係構築に役立つ・役立たない
それって、ゲームやテレビを禁止するか否かと、本質的には関係が無いことではないですか?
何故なら、良い面も悪い面も、役立つ面も役立たない面もあるからです。
禁止するか否かは、純粋に、保護者であり教育者でもある親の「好み」の問題です。
与えないで育てることも、十分に与えて育てることも、どちらも別に立派なことではありません。
これは、「漫画禁止」「駄菓子禁止」等も同じことです。
「パソコン禁止」「SF禁止」「水遊び禁止」「自転車禁止」「野球禁止」「外で遊ぶの禁止」と、並べてみればそのことが良く解るのではないでしょうか。
健康に、逞しく育ったお子さんを見て、「私の教育は正しかった」と悦に入るのは親の特権ですが、客観的に見ればそれは間違いです。
お子さんは、お子さん自身の力と、自ら選び取った道で、自分で逞しく育ったのですよ。

当然です。
禁止しただけで「子供の人生から完全に排除できた」などと信じている親の、その目を盗んで好き放題やるなんて簡単なことですからね。


ああ、そうだよなあ、と思った。
特に後半の

健康に、逞しく育ったお子さんを見て、「私の教育は正しかった」と悦に入るのは親の特権ですが、客観的に見ればそれは間違いです。
お子さんは、お子さん自身の力と、自ら選び取った道で、自分で逞しく育ったのですよ。

というくだりには
まさに「目からウロコが落ちる」思いだった。

子供の育て方や教育に正解なんてものはそもそもないのに、
そんなこともう十分わかりきっていたことのはずなのに、
どうして私たちはこんなにやっきになって
正しい育て方を模索し試行錯誤するのだろうか。
もちろん、
それは子供に対する親の愛情のあらわれには違いない。
その点は、確かに否定できるものではないだろう。
だが、その愛情の中に
「私の教育は正しかった」「私がこの子をここまでにしてやったのだ」という
功名心や自己満足が露ほどにも含まれていなかったと、
言い切れる親が果たして何人いるだろうか。


多分この先も私は、
自分の思い通りにならない我が子の教育や子育てにキリキリ舞いの日々を送ることに変わりはなかろうが、
だがこの
「子どもとは、自身の力と自ら選び取った道で自分で逞しく育つものだ」ということ、
そして
「その子供を見て『私の教育のおかげだ』なんて思うのは親の思い上がりに過ぎない」ということは、
しっかりと肝に銘じておきたい。


所詮
私たち親のやることというのは、
子供が親が無くともひとりで生きていけるようになるまで
その手助けをしてやること
なのであり、
それ以上でもそれ以下でもないのだから。

結局
よりよい人生なんてものは
親が子供にプレゼントできるようなそんな単純なもんじゃない。

だいたい
何が「よりより人生」か、なんてこと自体
親にしたって子供にしたって
最後の最後まで全くわからないものであるはずなのだから……


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2008/02/19

ゲーム禁止の効能と限界に思う

子供の教育方針って
いろいろその家庭によってあるものなのだろうが・・・

よく言われるのが
添加物の入ったお菓子を食べさせない、とか
ゲーム・テレビは禁止とか
そういうことの出来る家庭というものに
一種の憧れのような気持ちを抱いている。


今のこの享楽に満ちた日本で、
数々の誘惑から己が子を守り導いていくその努力。
市販のお菓子・ジュースOK
ゲームもテレビも時間制限はあるものの
基本的には好きなものを観ていいという
テキトーな我が家からすると
その確固たる信念を貫いている親御さんの強さには
驚愕の念すら覚えるのだ。


だが、
かつて知り合いのご家庭がそれを実践していたところ
そこのお子さんについて
次のような「顔」も持っている
ということを別のお母さんから耳にしたことがあった。

「うちじゃ禁止されていんだけど
 よそのうちではお菓子をがっついて食べ
 ゲームのコントローラも掴んだら離さない勢いで
 夢中になってやっているんだよねぇ・・・」


・・・


いかにも「その子の将来が心配」
と言いたげの面持ちで語られた話なのだが、
ソレを語るそのお母さんも
ソレに耳を傾けている私も
なんだか少しばかり卑しい人物になったような・・・

正直な話
確かに
そういうご立派な教育方針に基づき
非の打ちどころのない子供が育つ、
というのは第三者にとってあまり興味のある話ではない。

それよりも
「まぁー無理しちゃうからそうなっちゃうのよ、
やっぱ自然に任せて
適度に注意していくぐらいのことで
子供に接していくのが一番なのよね・・・」
と、
テキトーな我が家の教育方針―つまり怠惰を
肯定してくれるような話を
心の奥底では望んでいるものなのかもしれない。


そういう確固たる信念の家庭に
憧れを抱いていると同時に
結局
「そんなのは絵空事でしょ」という嘲りの心も
持ち合わせていたのか・・・


そんな浅ましさが
うっかり出ちゃったって感じ・・・


ホント

人は人、うちはうち

と、
心の底から割り切れる強さこそが
今の私には
一番必要なのだよね・・・


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2007/07/27

「能力を最大限に引き出す」必要って本当にあるのか?

かなり前のことですが、
子供の幼稚園選びの際に説明会に参加したある園でのこと。

そこは
「子供の能力を最大限に引き出すこと」が教育方針の園で、
漢字の学習や
鉄棒や雲梯(ウンテイ)を時間を決めてサーキットで挑戦していく
というカリキュラムをウリとしているようでした。

やや妖しげなサラリーマン風のいやに若い園長の熱心な説明を聞きながら
ただ単に
「延長保育があるから仕事はじめられるか、場所も近いしな・・」
なんていう理由でその場で聞いていた私は
当然場違いな思いにいたたまれぬ気分になっていたのです。
ふと横を見てみると
隣に座るスーツ着用の上参加していたご夫婦は熱心にその説明に聞き入っている、

(うーん、こういう人たちが通う園だったのだな、ここは・・・)

思いっきり普段着でオマケに自転車でつっかけてきた私には、
もちろん肌に合わないので
そこに子供を通わせることはなかったのですが、
考えてみると
この「能力を最大限に引き出す」という教育教材広告の決まり文句に
真正面から対峙したのは、
このときが初めてだったのかもしれません。


「能力を最大限に引き出す」

子供の能力は無限の可能性を秘めています。
その能力を十分に引き出して上げるのは親御さんの務めですよ・・・

確かに、そうなのかもしれません。
子供だっていろんな知識を持ったり
鉄棒や雲梯ができるようになることはうれしいことだし、
何より自信につながる・・・

でも私にはそれはなんだか気が進まないのです。
だって能力って、
そんなに引き出されようが、
一生その人の内面に隠されたままでいようが、
あまり関係ないんじゃないですか。
表面に出るものであれば
そんな漢字のフラッシュカードなんて使わなくたっていずれは出てくるものだろうし、
例えその努力を惜しんだために鉄棒がの逆上がりが出来ずに終わったとしても
30歳も過ぎれはそんなことどうでもよくなってくるものじゃないですか。
それより
ぼんやり影をを見つめたり
ぼーっと外を眺めたり
ただ出鱈目に地面に線をひっぱったりしている時期には
それを思い切りやらせてやるほうが
その子の精神衛生上より好ましいのでは?


結局は

「ちょっとでも他の子より抜き出よう、そのほうが後々得だから、な・・・」

という親の思惑以外の何物でもない・・・
それで
その子のぼんやりする時間は奪われ続けるのです。

余談ですが、
そういう親の抜け駆け心を煽る商品は本当に後を絶たないですね。
例えば「脳ト○」。
オトナが遊びで自分の脳年齢を話のネタにするぐらいならいいんでしょうが、
他のゲームよりはマシだなんて思って買い与えている親御さん方、
本当にそうなんでしょうか?

そもそもゲームの一番の問題っていうのは、
ほかの事をやる時間を全て奪ってしまうというところなのだから・・・

だから遊びなら遊びとはっきりさせるほうがまだ良心的。

「勉強にもなりますよ」なんて
甘い言葉でつろうなんてあまりのあざとさに
なんだか胸が悪くなるような気がするのは、
私だけなんでしょうか、ね・・・


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