2008/04/01

匂はずとも・・・

既に満開宣言も出された
東の街からひとこと

この季節
どこもかしこも
さくらさくらさくらですが

街のあちこちを
ぼんやりと発光させる
そのうららかな花の山やアーチ、天井を見て
おもうことがあります


それは、

この花に香りがなくて本当によかった

ということ


この視覚に訴える力だけで
こんなにも圧迫感があるのですもの。
もしも嗅覚にまでその力を発揮されたら
きっと
わたしは辛くて耐えられないでしょう、ね。


まさに
息苦しさの一歩手前の美しさ、ってやつ。


いやんなっちゃう・・・

どうして皆この花が好きなのかっていうと、
そういうコレの

まがまがしさ、

が大きな一因のような気がしてなりません。

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2007/03/27

妖かしの樹

 東京の開花宣言からは、既に数日が過ぎた。

 とはいえ、
 まだ我が家の周辺はまだ二三分咲きのものがほとんど。
 チラリチラリと淡い花弁が頼りなげにくっついている木ばかりである。

 でも
 そういう控えめがちな木々の中にあってただひとつ、
 もう既に八分咲きの大きな桜の木があった。
 その派手さにあでやかさに
 ひときわ人目を引いている木。

 それは
 お決まりのように学校(高校)の正門近くに生えている桜だ。
 この木は毎年のように
 他の桜よりの一足先に盛りを迎える。


 (ふぅーん、なんだろうこの木は。
  若い子の活き活きとした命のエキスでも
  吸い取ってるんだろうか?
  だからこの木だけ
  こんなに早く見事に咲くの?)

 
 たちまち
 生気を抜かれた元気のない病的な高校生達と
 それとは反対に
 はちきれんばかりの桜の花の美しさが浮かび上がるのだ。


 毎朝そんなことを思いながら
 その大木を横目に通り過ぎる私。

 通り過ぎながら
 「桜の樹の下には死骸が埋まっている!」
 という言葉が頭の中を駆け巡る。

 どうやら
 本当に美しいものというのは
 度が過ぎると
 おぞましくすらなるらしい。
 
 人は
 その美しさに
 罪深いまでの理由を押し付けたくなるのか?


 そんな今日3月27日は、
 3×9=27(サンク)でサクラの日―
 その
 おぞましいまでに美しい「さくら」の日―
 だとか、

 いや、知らなかった・・・

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2006/07/27

のっぽの花

 女の子の世界には、
 突然意味も無く流行るものがある。
 そのとき私の周囲で流行ったのは
 教室の教壇に花を持ってきて飾る、
 というものだった。

 朝、
 誰と決まっているわけでもないのだが
 気の利いたような子が
 教室の花瓶に持ってきた花を生ける。
 朝の会になると、
 それに気付いた先生が
 「あら、素敵な花ね、誰だ持ってきてくれたの?」などと尋ね、
 「○○ちゃんです」と知っている子たちが答える。
 「そう、ありがとう。とっても綺麗よ。」


 「そう、ありがとう。とっても綺麗よ。」

 そう自分にも言ってもらいたかったのか、
 それとも
 自分もそんな気の利いたことができる子だと
 皆に思われたかったのか、
 とにかく
 (花を持っていきたい)
 そう無性に私は思ったのだった。

 私が持っていったのは
 自宅の庭に咲いていた名も知らぬの背高のっぽの花。
 それを新聞紙に包んで持って行き花瓶に挿す。
 しかし、
 そうやって挿された花は
 自分の席から眺めてみると
 なんとも地味で情けない風であった。

 もちろん先生は
 そんな私の花束にも何らかの反応を示した。、
 それが誠意のこもった温かいものであったのは間違いない。
 しかし、そのとき既に私は知っていた。
 それまで教室に飾られていた数々の花は、
 お花屋さんで買われたものか
 もしくは丹精に育てられた庭の花であったこと、を。
 それらは
 私が持ってきたような
 雑草のごとく茂っていたものではなかったこと、を。


 今日の昼休み、
 郵便局に所用があって出掛けたとき、
 その花が、
 取り壊された家の跡に生い茂っているのを見かけた。

 クレオメ、別名フウチョウソウ(風蝶草)。

 あの花が
 そのような名前であったことを、
 今日初めて知った。

 あれは
 小学校の3年生だったか、
 もう30年以上昔の話、だ・・・

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2005/10/13

気圧配置図に学ぶ

 今週に入って、ぐっと秋めいてきた気がする。

 今日のように日差しがたっぷりのよく晴れた日であっても、
 もう暑いと感じることはさすがになくなった。
 からりと晴れたすがすがしい日和、
 「秋日和ってこんな感じなのかなあ」と深呼吸をしたくなるようだ。
 ちょっと前まではあんなに「暑い」とか、「ムシムシする」とぼやいていたくせに。

 確かに季節の変わり目というのは日によって、いやひょっとしたら時間によっても目まぐるしいくらい陽気がかわったりする。
 以前、朝は湿気をふくんで重苦しいような空気だったのがどういうわけだか午後にはからりと乾いた日があったときは、驚いたものだった。

 (へぇー、すごい、太陽ってすごい!
  どうやってこの短時間にあの空気の湿り気を乾かしちゃったの?
  まるで洗濯物でも乾かすみたいに・・・!)

 そんなふうに私は思ったのだが、それは勘違い。

 「その場に在った空気が太陽熱によって乾かされた」というよりは、
 むしろ
 「他所に存在した乾いた空気の勢力が増してここまで広がってきた」というのが、
 正しい表現のようである。
 もちろん全ては太陽のなせる業であるから、その有難みはいささかも損なわれることなどないのだが。

 そう考えてみると、
 こうした急激な変化というものは往々にして、
 そこにあったモノそのものが変わったのではなく、
 その周りを包む空気が移り変わっていただけなのかもしれない。

 大波が押し寄せてきて、
 そして引いていくような、
 それは「変化」ではなくあくまで「移動」だ。

 うーむ、
 そう簡単には何事も変わらないってことなのかな?


 でも、
 でももしも、
 あなたが何かあるいは誰かを直ちに変えたいと思っているのなら、

 それはそのモノやヒトそのものに直接アプローチするよりは、
 その周りの空気を換える方が案外効率的かも。

 ・・・どうですか?

 テレビの
 天気予報の気圧配置図、

 それを見ながら

 そんなことをつらつら考えた私、でした。

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2005/07/12

花瓶の花はもう・・・

 土曜日にとあるコンサートに出掛けた。

 会場には季節の花々がふんだんに飾られており、
 演奏会が終わった帰りがけに、ロビーでそれらが花束にされて配られていた。
 その花束は女性客のみに渡されるようで、夫と息子はもらえなかったが娘と私はその恩恵にあずかることができた。

 濃厚なオレンジ色のグラジオラスとバラ。
 それにやはり同じような色調のアゼリア、
 さらにグリーンをもっと多く!とばかり付け足されたと思しき、蕾すらない見知らぬ一本。

 「帰ってさっそく花びんにささないとね」と娘は言う。

 多感な頃なのだ。
 例え切花であっても、しおれていくさまは彼女にとって「死」であり、それを目の当たりにするのは辛いことらしい。

 「花びんの花は、もう死んじゃっているの?」とも彼女は尋ねる。

 うーん、どうなのだろうか。

 死んではいない。
 まだ蕾のものは花開いていくであろうし、もう開いているものもさらに艶やかな大輪の姿へと変貌していくことであろう。
 やはりまだ生きているのだ、根から断ち切られたとは言っても。

 ただ、この先あと何日その姿を留めておけるだろうか。

 この夏の季節、
 切り花について、取り立てて何の知識も無い私にはせいぜい5日ももたせられればいいところだろう。
 枯れてしおれて、
 明らかに「飾ってある」ではなく、「放置されている」という状態になったとき、
 この花々は私の手によって処分―ゴミ箱へと捨てられる。

 「枯れた花が飾ってあるなんて、何だかいやなんだよね」
 と、私の怠慢を珍しく細かく指摘する夫の目にも、
 「今やるとこだったの」とブツブツ不満顔でそれを処理する私の目にも
 最早かつての「花」はただのゴミにしか映らない。

 しかし「もう死んじゃってるの?」と尋ねたこの子には
 たとえそのときになっても、
 この「花」は別のものに映っているのだろうか。

 そんなこの子のためにも
 1日でも長くその美しい姿を保って欲しい

 そう思い、
 「死んではいないよ」と答えながら、

 (せめて花瓶の水をまめにかえてやろう)

 そんなことを考えた。


 3日目になった今朝は

 もうバラは、
 花芯が見えるほど開ききっており、

 まさに
 花弁が落ちんとする
 傾きかけた状態ではあるのだが・・・

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2005/04/11

散りざまの美学

 あたりいちめん、桜の花びらが息苦しいほどに舞い散る只中、私は思う。

 「まるでゆきのようだ・・・!」

 そういえば桜がその枝に満開に咲いているさまは、どことなく雪が降り積もっているのにも似ている。しおれたり、色があせたり、そんなふうにして多くの花々がその命を終えていくのに対し、こんなにも美しく散っていく花を桜以外に私は知らない。

 一般的に、花がその盛りを過ぎて枯れたり落ちたりするさまは、美よりの衰退を意味する。その様子をことさら愛でたり描いたりすることもあまりなかろう。
 だが、桜はちがう。
 まさに花散るさまを観んがために植えられている木だ、といっても過言ではなかろう。
 散りざまの美学を絵にかいたような花、それが桜だ。

 その引き際の見事さ・潔さに、自分の姿を重ね、思い通りにならぬわが身にため息をつくひとも多いのではなかろうか?

 最後までかくも美しく惜しまれて去ることができればどんなによいことか・・・

 だが、
 そうしたひとびとの思いをからかうかのように、
 花びらはただ舞い散る。


 >ひとは花ではない
 >桜のようにいいとこだけで終わるひとなど、
 >きっと私は好きにはなれないような気がする


 そんな

 あまのじゃくな私のこころなど吹き飛ばしてしまうほど

 昨日の桜吹雪は見事なものであった。

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2004/11/24

ツタンカーメンの種

 「おかあさん、ツタンカーメンの種、学校でもらっちゃった!」
 子供が帰ってくるなり、そう言って白い紙袋を差し出した。

 「ツタンカーメンの種?」
 なんだ、それ?
 ツタンカーメンと言ったら、あの黄金マスクで有名な古代エジプトの少年王のことだろう。
 でもその種子って一体・・・?
 そう思いながら包みの中を覗いてみると、薄茶色でしわしわの丸い種が8つ入っていた。

 子供はやる気満々で「植木鉢は?」とか「どこにおく?」とか言っているが、実は私はあまり乗り気にはなれない。
今はやる気満々の子供たちだが、なんだかんだいって結局私が何から何まで用意し、世話をする羽目になるのだ。
でもめんどうくさがりやの私には、生き物を育てるのはこの2人の子供たちだけで正直手一杯。ツタンカーメンだか何だか知らないが、植物とは言え、他まで手が回らない。
 鉢植えって切花と違い、枯れたら「はいさようなら」ってわけにはいかないし、それが枯れてしまった場合、うちのものの非難も結局私に集中するであろう。小心者のわたしだから、枯らしてしまったっていう罪悪感もつきまとうし・・・

 つまり、これ以上世話するものを増やすのはごめんである、というのが私の見解だった。


 そんな私の心を知る由も無く、子供はこの種についての学校からのお知らせプリントを私に見せた。

 お知らせによると、この種は例の古代エジプトの少年王ツタンカーメンの墓のなかから見つかったえんどう豆の子孫なのだそうだ。
 少年王が生き返った後、食するものとして、彼と一緒に葬られたらしい。
 それがあの1923年の大発見と発掘により、イギリスに持ち帰られ、栽培され、日本に伝わったということである。
 そしてこの種は1923年から数えて81代目の種ということになるらしい・・・

 「・・・赤紫の花が咲き、赤紫の実(豆)がなります。もちろん食べられます。ご家庭で是非育ててみてください・・・」そんなことが、お知らせには書いてあった。


 うーん、そんな3000年以上も昔の種が20世紀に蘇り、そして81代も経て我が家に来たとなっては、これはいかにめんどうくさがりやの私でも、栽培してみたくなる。
 それにツタンカーメンが食べるはずだったエンドウ豆だなんて、食べたいではないか!

 俄然その気になると私の行動は早い。
 ホームセンターの園芸コーナーでプランターと培養土、それに豆のツタのための支柱を購入。我が家で1番日当たりのいいベランダにそれを置き、8つの種を子供達と一緒に大切に蒔いた。

 ・・・・
 あとはもう、映画「となりのトトロ」のめいちゃんのように、芽が出るのをひたすら待つのみだ。
 待つこと10日近く、それが、ひょっこりを地面から顔を出したときのその喜びと言ったら!
 子供より私のほうが大喜びしたぐらいである。

 生き物、特に植物を育てるってこんなに楽しいものなのかなあ、なんて今更ながら感じた次第だ。

 こうして我が家のツタンカーメンのエンドウ豆は8つとも今、順調にすくすくと育っている。もうすぐツルも出てきて支柱にからみつくことだろう。

 またまた余談であるが、将来火星やその他の天体へ長い長い探査の旅に人類がでるとき、そのときその宇宙船では植物を栽培するのが必須であるとのことを誰かから聞いたような気がする。食糧うんぬんではなく、植物を育てるというその行為が長期にわたる孤独を癒してくれるというわけだそうだ。

 なるほど、私もツタンカーメンに癒されている、ということになるのであろうか・・・

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