2010/04/05

ちょうどいい距離

思惑のすれ違いってヤツですか、
ここんとこ
いろいろとストレス感じることがあったりして、

まぁ中学生なんて思春期と反抗期真っ盛りだから当然といえば当然なのですが。

そしたら
こんな文章を目にしまして……


……


書いてくださった方、ありがとうございます。

そうですね、

親子なんて少し仲が悪いくらいで、ちょうどいいものかもしれません。

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2009/07/16

似ていない子

子供が自分に似ていないということ

これは悲しむべきことなのだろうか
それとも喜ぶべきことなのだろうか


うちの子供は私に似ていない、のだと思う。
外見だけではなく
嗜好とかモノの価値観とかその他もろもろのところが。

地味地味だった私の思春期に比べると
この子のそれはまるで
ジブリの「耳をすませば」のように爽やかで明るい。
親としてそれを喜ばずしてなんとする!?

しかし
そうとわかっていながら
アウトサイダーの母は
一抹のもやもやを抱えるのだ。
自分の価値観の正当性とか
我慢の中にある美徳とか。


まあ、いい。

私がそのさえない青春時代から何かを得ることができたように、
この子も
そのきゃぴきゃぴした楽しい日々からも
何事かを会得していくのだろう。

だから
私も深く考えず
「子供の人生」という
このオプション人生を楽しませてもらえばいいのだ。

だって
それはひょっとしたら、
この私がもっと気の利いた子だったら送ったかもしれない人生
とも言えるから。

そして
自分とは違う人生を自分のとほぼ同じ熱心さで見つめられること
これは
天が授けてくれた
親業の最大のご褒美なのだと思うから……


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2009/05/22

笑顔にまつわる2つの教え

「いつもニコニコ笑顔でいるように心がけなさい」
そのお母さんは自分の娘さんに常々そのように言っていたそうです。

人間だったら誰しも、調子のいいときもあれば悪いときもある。
調子の悪いときこそそれをこらえてでも

笑顔をつくること

それは
周囲にも自分自身にも
知らず知らずによい影響を与え
ひいてはその逆境をも乗り越えるきっかけにもつながる。
だからこそ
つらいときでも
笑顔を常に忘れないように……


どこで読んだ文章なのか
どんな方がその娘さんだったかはすっかり忘れたのですが。

実際
この「つらいときも常に笑顔を」的な教えは
広く世に言われていることです。
親だけではなく人生の師、尊敬する偉人たちも
そのような言葉を残す人は多い。
それだけにこの言葉の中には真理があるのでしょうね。
「辛くとも雄雄しく笑顔を忘れずにがんばること」
そんなひとに
私自身も憧れを感じますし
そんなことが出来たらどんなにいいことかとも思います。


しかし
私の母は
私にはこれとは違った教えをさずけておりました。


それは、

うれしいとき幸せなときはそんなにおおっぴらにニコニコするな

というもの。

理由は
「人間いいときも悪いときもあるものだから
いつもいつも幸せでニコニコなんてしていられない。
『いいときはえらい調子がいいけど、悪いときは不機嫌で身勝手な気分屋だ』
なんて思われないように……」
ということでした。


自分の身の丈を知り
自分の力以上のことを自分にも課さず
周りにも期待させないようにあらかじめ予防線を引く、
母はそういうひとだったんですよね。

やるべきことはきちんとやるが、
それ以上はやらない。
おせっかいではないが親切でもない。
手堅いが冷たいひと……

そんな彼女だから
「いつも笑顔でいるように」なんて
高いハードルを私には用意しなかったのでしょう。

彼女自身がそうやって生きてきたように
私にもそうやって生きることを薦めたんだと思います。



人間的には
前述のお母さんのもののほうが
はるかにすばらしい教えであります。

私が受けた母の教えは
それに比べるとあまりに身勝手で姑息なもの思われる……


それでも
何故だか私は母の教えのほうがありがたく感じられるのです。

綺麗ごとではなく
理想論でもない
ただの処世の術にしか過ぎない教えですが、


そこに
親にしかない身勝手なほどの愛を感じるからでしょうか?
(実際学校の先生はこんなことを教えたりしないでしょう)

そして
必要以上にいい格好をしようとはしない
現実的な彼女を
私が愛するがゆえ

なのも大きな一因なのでしょうが。

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2009/04/15

挽肉といえば……ピンクフロイド

ある休日の晩のこと。

夕飯をつくるのに冷蔵庫から挽肉をを出したとき、
その赤と白の斑模様に
どういうわけだがいつにも増した生々しさを感じたのだ。

なので、
食卓で夕刊を読んでいる夫に声を掛ける。

「ねぇ、
 なんだか挽肉をみると
 ピンクフロイド思い出しちゃうよね……」


とっさに
そんなことを言われた夫は最初こそきょとんとしたが、
すぐに

「ああ、ミンチにされちゃうあれか」

と応える。


ああ、このひとは

挽肉からピンクフロイドへ
何の説明もなくとも
この2つを結び付けてくれるひと、なのだ。

そんなひとだからこそ、
私もなんの躊躇もなくつまらぬ思い付きを
彼に話すことが出来るのだけれど。


……


考えてみるとそんな特別のことではない。
むしろ
世の多くの夫婦って皆そういうものなのだろうが、

私が
自分の幸せを
いちばん噛み締められるのは、

こんなとき、なのである。


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2008/11/12

父親
―理性により「親」とならねばならない人たち

先週だったか、
よく訪問しているサイト管理者にお子さんが生まれたのだそうです。

その方は30代で男性。
文章の深さ、誠実さ、正直さに惹かれて訪問していたわけなのですが、
前々から時折その文面に表れる、
「自分は果たしていい親になれるのだろうか」という不安感が、
(ひょっとしたら近々お子さんが生まれるのかな、)
という予感を私に感じさせていました。

多分、男の方には特に大きいのかもしれませんね、
この、
「自分は果たしてちゃんとした親になれるのだろうか」
いう不安は……


以前から多くの人が言ってきたように、
10ヶ月もの間へその緒一本で赤ちゃんと繋がってきた後に対面する母子に対し、
突然小さな生き物を目の前に差し出され、
「さあ、今日からお父さんですよ」と言われる父親という存在は、
本当に不安であり、大変なのだと思います。


つまり

女は野生的に本能的に親になることが多いのに対し
男はより人工的で理性的に親となるより他がない

ということ。


自然界の多くの野生動物のオスたちが
子育てをしないように、
人間の男性は本来子育てなどしないものだったのでしょうから。
人間社会においても、
「父親」という役割は極めて新しいものであったはず。
逆に新しいものだからこそ、
果てしない悩みとそして期待もある、ともいえるのかもしれません。


で、私はずっと、
女として自然に
「母」というよりプリミティブな「親」として子に接することができることを、
ラッキーなことだと思っていました。
自分は
オムツ替えや授乳という七面倒くさい仕事をこなさねばならないとはいえ、
新しい「親」である「父親」に対して
絶対的に優位に立てる「母」という座にあぐらをかける女であることに、
安堵の胸をなでおろしていたのです。


でも、
新しい「親」である「父親」も
それはそれでいいものなのかも……


「この子に自分がなにをしてやれるか」
なんて思う間もなく子育てに追いまくられていた母親には見えないものが、
きっとこの新しいもうひとりの親である父親には
いっぱい見えているのでしょう。


我が家の新しい親(=夫)のほうは、
よく子育ての理想論のようなものを掲げては
古い親(=私)の失笑をかっていますが、

その青臭い理想論もまた、
子育てには
大切なものなのかもしれません……


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2008/10/23

他人のはじまり

ふと見かけたとあるサイトに
小さなきょうだいの姿を見た。

犬ころのようにじゃれあうふたり。
一見、ともに無邪気そのものに見えるふたりなのだが
しかしその間にはほんのわずかでありながら小さいが深い溝がある。


下が
どんな仕打ちを受けようとひたすら無条件に無心に上を慕うのに対し
上は

あるときは可愛がったり
あるときは疎んじたり
また、あるときはヤキモチを焼いたり……

その感情の動きはいまだ幼児でありながら、
下の単純さに対し極めて複雑だ。


私は2人兄妹の妹であったから、
だから
そのような心の揺れはほとんど感じた記憶がない。
だが、
長子である兄は
幼いうちから自分でもそうとは気付かずに
いろいろな思いをじっと溜めていたに違いない。
母曰く、
「口数は少なく我慢強い子」だったという兄。


それでも
私が彼の小さな愛憎を理解することがなかったように、
兄もまた、
自分に疎まれつつも絡み付いてくる
私の無条件反射のごとき反応を
生涯理解することはなかったのだろう。


あるとき突然
それまでの自分中心の世界を
小さな闖入者をかき乱されてしまった兄(姉)と
自分がある世界を壊してしまったにもかかわらず
その罪の自覚もなく
無条件に上の好意を信じる弟(妹)。


「きょうだいは他人のはじまり」、というが


確かに。

この二者の関係は
その始まりから思った以上に

相容れないもののある関係

なのかもしれない。

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2008/10/07

家族ぐるみのお付き合い

どうも苦手である。

いや、この「家族ぐるみお付き合い」ってヤツ。

夫の友達はあくまでも夫の友達であって、私のそれではない。
子供の友達だって、同じこと。

旅行だ、キャンプだ、なんだと確かにそういうレジャーは
単体の家族よりも複数家族のほうが盛り上がるし楽しいとは思うけど、
どうもそういうのに率先して参加したいとは思えない。


基本的に「人付き合い」は苦手だからなぁ

というわけで
家族自慢を目的とした旧友との会合、あるいは仲良し子供の親同士の親睦会の類は
できるかぎり避け続けたいワケなのです。


ごめんね、こんな妻(母)で……

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2008/07/30

上見りゃキリない、けど

世の中って、
上見りゃキリがないもの。
(もちろんそれは下だって同じなんでしょうが。)


だから、
「もっと仕事の能力のある同僚」や
「もっと美しくスタイルのいい同性の友達」、
あげくは
「もっと気の利いた文章を書けるブロガー」なんて存在に
自分のことをついつい較べては、
愚かにも「はぁ」と嘆いたりすることって確かにあります。

こういう羨望って気持ち、
本当にどうしようもないものです。
しかも、
「自分の能力に限ってそれを言っている」うちはまだマシなほうなわけで、
これが自分の身内をくるめて
―たとえば
もっとリッチな旦那がよかったとか
もっと出来のいい息子(または娘)ならよかったとか、―
そういうことを考え出すと、
これはもう不毛以外の何物でもなくなってくるのです。

だって
隣のリッチなお宅のご主人も、
大企業で役職についている、古い友人の旦那様も、
有名進学校にみごと合格した、親戚の子供も、
どんなに羨ましがろうとも
結局はこの自分には無関係の存在でしかないのだから。

さらに、
冷静になってよくよく考えてみると、
その羨ましい存在もその人物丸々全てが羨ましいわけでもない、
ということに私たちもだんだん気付いてきます。

私たちが羨ましいのは
あくまで
そのリッチさであり肩書きでありあるいは学業における優秀な成績だけ。
(そのリッチさや肩書きや成績を
自分の家族たる人たちにも持って欲しいと願っているだけなのです。)

たとえば
仮に
その他所のお金持ちのご主人や優秀なお子さんが
そっくり自分の夫や子供と入れ替わってしまったとしたら?

当然ながらそんなことは全く望んでいたわけではないですよね。
まさに
「そんなのはまっぴらごめん」
というところが正直なところなのです。


それでも、
今はこんなことを書いている私でも
この先他人の家庭に対し
過度の羨望をもってしまうときが来るかもしれない。
もしもそんな事態になったら
そのときは絶対に、
その羨むべき人物と我が家のメンバーを入れ替えた図
を思い描くことにしましょう。

そうすれは、
即座に

自分の羨みがどうしようもなく馬鹿馬鹿しいものだ

ということがきっとわかるはず、だから……


結局
言い古された言葉ですけど、
「家族に代わりはきかない」ってことなんでしょう、ね。

どこの家族も一緒なんでしょうけれど
「どんな家族であれ、この人たち以外に「私の家族」は考えられない」
ってことは自明のことなのに。

どうしてこんなわかりきったことに
ついふらふらと迷ってしまうものか

全ては
羨望という情念のなせる業、ってことなのかもしれませんけど……


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2008/06/20

至上の愛?

「死なないで」と言われた。


今週初め、風邪で熱を出し寝込んだときのこと。
子供に
「死なないでね、
お母さん死んだら生きていけないから」と。


生まれて初めてだ、
こんなことを言われたのは。
この先多分二度と言われることもないだろう。


「君なしでは生きていけない」

なんて
歯の浮いちゃうような言葉だけど
一度は言われてみたかったのよね。

それだけでも
熱を出した甲斐(?)があったのかも。


もちろん
寝込んだのはその1日だけ。

今はもうすっかり元気です。

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2008/05/09

心の中の微かな毒

このGWは少し休暇を追加して、
恒例の夫の実家へ一家で帰省。
高齢で一人暮らしの義母には
既に無理となった炊事全般、窓磨きなどに勤しんだ日々であった。

「いろいろやってくれて助かる」
「ありがとう」

と義母も
私たちが帰省すると必ず顔を出す義姉(同県内在住)も
事あるごとに感謝の言葉を述べてくれる。
本当に優しい善い人たちだ。
もちろんそれを聞いて
私だって、
嫁として自分が義母の役に立つことに
喜びを感じないわけではないのだが・・・

だが、私の心の中には微かな毒が潜んでいるのだ。


結婚15年、
一度もGW・お盆・正月は旅行などに行けてないこと。
この連休も、
月末の忙しさの中休暇をとるために社内で肩身の狭い思いをし、
前夜は10時近くまで残業をしていたこと。
そうまでして、
会社を休んで来たこの実家では
山のように大量の料理を一人で作り
(この家では料理というものは作るときは大量に作って
その作り置きをちょっとずつ食べるのが基本らしい)、
年老いたため愚痴の多くなった義母の機嫌を伺いながら相槌をうち、
広い家中の数多い窓磨きをしなければならいこと。

そんな些細な不満から生まれる毒・・・


・・・・


誰かが意地悪なわけでも
誰かに嫌味一つ言われたわけでもないのだが

その毒は、何故か年々強くなっているような気がする・・・

ああ、イヤだ・・・!


だからGWは苦手。

もちろん
夏休みも
年末年始も、
なかなか楽しみには感じられない私、なのです。

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