2010/09/22

今更な「驚き」

(まだまだ暑い)と思っていたのに
ふとひんやりとした肌寒さを感じる……

また逆も然り。
確か半年ぐらい前には
柔らかな日差しをあびて
身体じゅうの筋肉がほんの少しゆるむような気がした瞬間もあった。


そんなとき、
人は必ず驚く……驚くのだ。


季節が移り変わるのは当たり前のこと。
寒暖の空気が入れ替わるのも当たり前で
それはもう
その人の人生が始まってからずっと
同じことが繰り返されいるだけなのに……

それなのに
なぜか、決まりきったように驚く私たち。
いつもの季節の変わり目のたび
判で押したように
今更のように驚く。


夏の後には秋が来て
秋の後には冬が来る
冬の後には春、
そしてまた夏が来る

決まりきったこの自然の営みを
頭で理解していても
身体は理解していない、
ということなのか?


……


明日は彼岸の中日
折りしもここは雨の予報で
季節はぐっと秋めくらしい。
その肌寒さに
私はきっとまた唖然とすることだろう。

結局は
「夏の暑さの中では冬の寒さを完全に忘れる」
という人間の性質ゆえのことなのだろうが、

でも
なぜなんだろう

そういう身体を持つ私たちは
きっとみんな「幸せ者」なんだと思う。

何十回と繰り返される同じ季節の変わり目を
こんなにも新鮮な驚きをもって迎えられるなんて……


今から明日が楽しみ、だ。

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2010/03/04

おひなさま

今朝、片付けました。

折りしも今日は午後から雨、というのでね。
少しでも空気が乾いているうちに、と。
出勤前のやっつけ仕事ですから
かなり大雑把な作業になってしまいましたが……

そもそも女の子が皆嫁に行くかどうかも不確かな昨今
「いつまでも飾っていると行き遅れる」、とか何とか
そんなの迷信にきまっているんですけど、
どうにも座りが悪い気もして。


この1ヶ月ほど
雛人形たちは
飾られたその日こそ家族の注目を集めましたが、
今年は雪洞に灯りを入れられることもほとんどなく
地味に居間のサイドボードの上に鎮座していました。

持ち主である娘にも
さほどの興味を示されず
約1ヶ月の展示期間を経て
あわててまたダンボールに仕舞いこまれる2体の雛人形たち。

思春期の子供などそんなもんなのでしょう。
逆に中学生にもなって
ひな祭りのオルゴールを手に取って何度もかけていたら
それはそれで考えモノな気もしますしね。


ただ……

さほどの感動もなく
日々と季節が移り変わる―

マンネリズムと倦怠感。

この家で、
それをかみ締めるているのは
それを一人で飾って一人で片付けた

「お母さん」だけ、なのかもしれません。

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2010/01/08

年賀状のない正月

昨年、身内に不幸があった。
というわけで今年の正月は喪中のため年賀状のない正月に。

とにかく
11月に欠礼葉書を出してしまった我が家は
年末の年賀状製作という面倒な仕事から解放された。
クリスマス+年賀状+大掃除+帰省
という例年の師走のハードスケジュールが緩和されたことに
実はホッとしていた私だった。

それでも
帰省から帰ってきて空の郵便受けをのぞくときは
ちょっとは寂しいかもと思っていたのに
喪失感や寂寥感はほとんどない。

我ながらちょっと意外だった。

実は8年前も同じように喪中の正月だったが
そのときの賀状のない正月の寂しさたるや……なかった。
あの頃はまだ
旧知の人々から届く年賀状に
多くの喜びや慰めをもらっていたのだなぁ。
そう思うと
今の冷めた自分に一抹の寂しさや罪悪感も感じる。


時代の流れか、人の心境の変化か?


いずれにせよ
こんなふうでは
年賀状は廃れていく一方なのだろうなぁ、とふと思う。

確かに
パソコンで百枚単位で印刷された、
あたかもチラシのごとき年賀状なら
衰退の道を歩むのも仕方のないことなのかも。
だいたい多くの人に送りすぎってのも問題なんだろうし……。


それでも

来年の正月、
郵便受けを覗くとき
私の心がまた温かくなりますように

今年の年末には
また心をこめて年賀状がかけますように

なんて
ここに神妙な面持ちで書いてみたりする

「そんな私って、やっぱり偽善者なんだろうな」

そう思う、年の初め……

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2009/09/03

惜しみのセンチメンタリズム

夏が終わる。
しかも意外にもあっさりと…

始まる前は
過酷な灼熱の日々を予想し、
その暑さにウンザリしまくる自分の姿さえ心に描いていた、というのに
この後切れのよさはなんとしたことだろう。

もちろん
これで暑さが遠のいたなんて甘い考えはない。
この街では
夏日なんてものは
10月半ばまでいつ起こっても全然不思議じゃないのだし
蚊の来襲も11月の声を聞くまでは油断をしてはならない。

それでも
夏は終わったのだ。
これからはいくら暑くたってなんだって
所詮は「残暑」であり「秋暑し」だ。


「♪ゆく春はとめられない」
古い映画の挿入歌にそんな一節があった。

「同じ春は二度と来ないんですよ」
これも愛読した小説のひとこまだ。


春だけじゃない。
夏だって秋だって冬だって
いや季節だけじゃない
月や日、もっと短いこの瞬間瞬間それぞれが
同じものは二度と来ないのだし
とどめておくことももちろんできないのだ

だからこそ
人はみな過去を惜しむ、
未練たらしく、女女しく、ぐずぐずと
いつまでもいつまでも…


………


この夏は
二度とこない夏、
今日のこの日も二度と来ない日。


それでも
そうとわかっていても無駄に費やしてしまう。
それが
人生ってモノなんだからしょうがない。

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2009/06/02

6月の花嫁ってどうなん?

6月に入った。
……
早速とある番組では「ジューンブライド」特集なるものがやっていた。


ケっ

数ある舶来洋モノ習慣の中でも
どーも、この「6月の花嫁」なるものは
うさんくさいっていうかなんつーか
根本的に日本人の肌には合わない気がする。
そもそも6月といえばこの国じゃ梅雨の時期でっせ。
(蒸し暑いそんな中義理で留袖なんぞを着なきゃならんお客様はまことにお可哀想である。)


それに
そのジューンブライドが幸せになれるっつー根拠、
ヘラとかジュノーとかいう女神さんが
どういうわけだかちっとも魅力的な女性には感じられないのである。

そら、結婚を司っている神々の女王なのはわかるが、
神話に出てくる彼女ときたら
ダンナの浮気にやきもきしている嫉妬深くて執念深く尚且つ高慢ちきな
なんというか
要は「可愛げのない女」としてばかり描かれているのだ。

あーあ
自分がお世辞にも幸せな結婚をしているわけじゃないのに、
自分の月に結婚する花嫁を祝福せにゃならんとは、
まったく
ヘラ様もお気の毒である。


結局
これもまあ
クリスマスとかバレンタインとかと同じ
商魂たくましい誰かの差し金による
消費意欲の向上を目指した煽りの一種なんだろう。

結婚はお金かかりますからねぇ。
(ダメダメに落ち込んだGDPの回復には結構役立てられるはずでしょう。)


そう思うと
煽られているひとがいるからこそ
景気も底を脱せるというものなのだから

あんまり
こういうつまらんことは
言わないほうがいいのかもしれませんけど・・・

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2007/11/09

・・・「夏」も始まる?

前回の記事について・・・

昨夜UPしてからというもの
喉につかえた魚の小骨のように、


「春」や「秋」はともかく、
「夏」も「始まる」とは本当に言わないものなのか?


という疑いがちくちくと刺さる・・・
と、いうわけで昨日の記事を大幅に訂正。


「夏も始まる」モノですね、やっぱり・・・

勇み足もしくは強引なこじつけ、反省しきりです。

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2007/11/08

・・・冬が始まる

♪~ふゆがはじまるよ・・・

と、ラジオから流れる音楽にふと耳を傾ける。

今日は立冬。
そうか、
冬が始まる日だからか、
結構ベタな選曲をするのだな・・・

だがついつい口ずさみたくなる
小気味のいいリズム、
それに身を任せながらこんなことをつらつらと考えてみた。


そう、
冬は「始まる」ものなのだ。

それはあたかも
ヒタヒタと湧き出るかように「始まる」・・・


他の季節―特に春や秋は
「来る」ことはあっても「始まる」ことはない。
「春(あるいは秋)の始まり」という時期としての表現があっても、
「春(あるいは秋)が始まる」という季節の移り変わりをあらわすような表現はしない。
ただし、冬と同じく厳しさをともなう季節である夏なら、
「(厳しい暑さの)夏が始る」という言い方もするのだろう。
それでも、冬ほどはしっくり来ない気がするのは、私だけ?
何故そんな気になるのだろうか?
・・・
多分、
春や夏という季節は太陽と共に来るものだから?
太陽が私たちにとっては他者であるように
自分たちとは別の存在のように捉えがちなのかもしれない。

もちろん、冬だって「来る」という表現は使うだろう。
だが、
冬にしろ夏にしろこういう厳しい季節に
「始まる」という言葉を使うのは
ひょっとしたら、
「その厳しい状態」こそが
私たちの基本なのだからなのではないのか?
つまり
私たちの心では常に

春のうららかさの中でも
秋の艶やかな彩に包まれながらも

「厳しい季節・冬(あるいは夏)」に対する覚悟のようなものがあるからなのではないか?
その覚悟が
内在する要因が息を吹き返すかのような
「始まる」という言葉を使わせる。
今や
化石燃料により暖かく過ごせる冬は
きらびやかで快適な季節へと変わっているのに・・・


その「冬」が
今始まろうとしている。
温暖化で
かつての厳しさは
もはや過去のものになりつつある冬。

そのかつての冬に代わって、
今や警戒するべきなのは灼熱の夏となっている今、

「夏が始まる」

と、
頻繁に言われるようになるのも

それほど
先の話ではないのかもしれない・・・


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2006/12/28

めでたくもあり・・・

 門松は冥土の旅の一里塚 
       めでたくもありめでたくもなし   一休宗純

 というわけで、
 いつもながらのあっという間の年の瀬である。


 昔、知人がこんなことを言っていた。

 「年を負う毎に一年がどんどん短く感じられでしょ?
  それは決して気のせいなんかではなく、
  本当に短くなっているんですよ。 

  人間とは、
  自分のそれまでの一生に占める割合で
  一年の長さを感じるものだから・・・
  満一歳の赤ん坊にとってはその一年はまさに全人生であるし、
  百歳のお年寄りにとってはわずか1/100の長さでしかない。

  こうして、去年より今年、今年より来年と
  確実にその人にとっては一年の長さというものは
  短くなっていくものなのですよ・・・」


 なぁるほど
 そう言われてみれば、そうなのかもしれない。
 だが、
 本当だとして
 「来年は、今年より確実に短い」とは
 なんだかもの悲しくなるような話である。


 ろうそくが
 どんどん燃えていって小さくなっていくように
 人生とは限りあるもの・・・

 そのことをみんな知っているはずなのに
 またあと4日後には
 この国ではそこらじゅうに「おめでとう」という言葉が行き交う。


 何が、めでたいのだろうか?

 まだ真っ白く
 ひょっとしたら今までになく良い年になるかもしれない
 「新しい年」が、なのだろうか?
 それとも
 この「現世」よりはもっと良いであろう「来世」に
 一歩近づいたということが、か?
 もしくは、
 何とか今まで無事に生きてこれたという事実を
 感謝する意味での
 「めでたい」なのか?

 ・・・

 いや、なんと屁理屈をこねようとも、
 とにかく
 「新しい年はめでたい」
 それだけのことなのかもしれない。

 
 多分、

 いいえ、確実に
 今年より短いであろう来年だが、


 それだからこそ、
 ・・・短いからこその新しい年の皆様のご多幸を

 心よりお祈り申し上げたい・・・


 それが、
 2006年の年の瀬の

 私からの皆様への
 ささやかなメッセージ、であります。


 (12/30~1/7まで帰省のためネットを離れます
 どうぞ皆様よいお年をお迎えください・・・)


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2006/12/21

冬、至る

 ・・・唐突であるが、

 「冬」という言葉がかなり好きだ。
 多分「春」よりも「夏」よりも「秋」よりも・・・

 字の形も、
 他の3つの季節より
 シンプルですっきりしている。
 その季節をあらわすようかのような
 余計なものをそぎ落とした
 悲壮感すらただよう張り詰めた美しさ。


 そして「ふゆ」というその音。

 この言葉は、
 最も口が小さく開かれる「ウ段」の音しか無く、
 子音も”f”のような空気のすうっと抜けるようなものと
 ”y”のようなその子音自体があるのかないのかという微かなものでできている。

 ふわふわとしたような
 ぼんやりとしたような
 なんと頼りのない、
 そして優しく柔らかい「ふゆ」。
 (実際の冬は、
  こんな寂しく厳しい季節だというのに・・・)


 明日は、
 その「冬」が至るという「冬至」の日。

 この日がやって来て、そして行過ぎていく。

 ・・・太陽が戻ってくる。

 そうは言っても
 冬本番はもちろんこれからなのだが
 (それはそれでまた嬉しい)

 そんな不思議な心躍る日、だ。

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2006/11/09

お月様の「こよみ」

 今朝の天気予報にて。
 「・・・本日は小春日和の1日となることでしょう。」
 そのとおり、
 まことにさわやかな日和となった本日11月9日。

 恥ずかしながら、
 私が小春が秋の陽気をさす言葉だと知ったのは
 大分大きくなってからのことだったと思います。
 それまで
 暖かく過ごしやすい日ならいつでも
 「小春日和」というものと思っていたものでした。
 
 ところでこの「小春」という言葉なのですが、
 小春(ショウシュンと読む)とは陰暦10月の異称とか。
 てっきり二十四節気の1つかと思っていたのですが、
 まるで違うものだったのですね。


 陰暦
 ―月の満ち欠けがその基本になっている暦―

 地球が太陽を周る周期による太陽暦とは違い、
 そのせいか、
 神秘的というか、妖しげというか・・・

 当然といえば当然なのですが、
 月の満ち欠けと地球の公転周期はピタリと割り切れるわけではないから、
 純粋な陰暦と季節とはズレていってしまう運命にあります。
 それを補う為に公転周期に基づく二十四節気が生まれ、
 そのズレが大きくなってくると
 閏月を入れて補正したとか。

 でも
 そんな面倒なことをしてまで
 月に暦の基本を求めたのは何故だったのでしょうか?
 約30日間にも及ぶ時間周期を
 具体的な対象で実感するのには
 満ち欠けする月は、
 大変好都合だったのかもしれませんね・・・

 さて、
 このところ
 ここらあたりでは
 とってもきれいに見える月。

 満月からは
 もう3日ほど欠けてしまいましたけれど、
 再び
 マンションの谷間に
 あなたの金の姿が拝めることを願いつつ

 今宵もまた

 神秘の世界に
 浸らせていただきますね・・・
 


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